藤田宜永 標的の向こう側 登場人物  鈴切信吾《すずきりしんご》……パリの私立探偵  リカルド・サンチェス……不動産業者  留美子《るみこ》・サンチェス……その妻  アントニオ……カジノのオーナー  コリーヌ……その妻  マリア……リカルドの娘  刈谷雄司《かりやゆうじ》……留美子の弟  笠原恒夫《かさはらつねお》……殺し屋  ミゲル・寺本《てらもと》……リカルドの秘書  滝口幸次郎《たきぐちこうじろう》……『東西リクレーション』パリ支店長  宮入《みやいり》 昇《のぼる》……『東西リクレーション』の社員  西郷喜久蔵《さいごうきくぞう》……『西郷連合会』会長  西郷|由起子《ゆきこ》……その娘  ホセ・サンチェス……サンチェス家の当主  フリオ・ディアース……警察署長  ゴデック……パリ司法警察警視  谷《たに》 宏一《こういち》……『毎朝日報』の特派員  オルテガ……キャバレーのオーナー  モンゴ……元ギタリスト  ドロッテ……街の女  脇田典子《わきたのりこ》……パリのマヌカン  アルベルト……執事  1  その夜、私は或《あ》る依頼人の事務所にいた。  相手は、小さな印刷屋を営んでいるユダヤ人で、私の提出した報告書に満足していなかった。妻の浮気調査。結果は何も出なかった。妻は、主婦の鑑《かがみ》のような行動しか取らなかったのだ。少なくとも私が尾行を続けた一週間は。依頼人のレヴィ氏は、あたかも私が、いい加減な調査しかしなかったと言わんばかりの口調で「信じられん」を五度も連発し、挙げ句の果てに、私のタイプにまで文句をつけた。レヴィ氏は度の強い眼鏡の奥の、細い目をさらに細めてこう言ったのだ。 「�C��N��O�に微《かす》かな傷がありますな」  そう言われてみると、そんな気がしないでもなかった。だが、タイプの文字がどうであろうが、報告書の内容が依頼人の意に添わぬものであろうが、私の知ったことではない。  私は請求書をレヴィ氏の前に置き、「もっと調査を続けますか?」と訊《き》いてやった。  相手は両肩を竦《すく》めただけだった。  こういう手合いは珍しくない。依頼する時は、問題を必ず解決してくれるフィクションの私立探偵を雇うような気分でいるが、満足出来る結果の代わりに請求書を突きつけられると、急に幻想から醒《さ》め、世間に流布されている私立探偵の思わしくない評判だけが頭に浮かんでくるのだ。  ペテンに掛かった善良な市民といった顔をして、依頼人は小切手を切った。  私は受取を書き、依頼人の事務所を出た。そして、近くのカフェでビールを一杯、カルヴァドスを二杯飲んだ。害した気分を酒で治療しようと思ったわけではなかった。私は単に酒が飲みたかったのである。  二杯目のカルヴァドスに手をつけた時、妙なことを思い出した。  何故《なぜ》、レヴィ氏がタイプ文字のことなど言い出したか、ということだ。 �C��N��O�を並び換えると�CON�となる。馬鹿、愚鈍、間抜け、という意味の言葉である。レヴィ氏は、私にメッセージを送ったつもりだったのかもしれない。私はひとりで笑い、カルヴァドスを飲み干した。  ピンボールの弾《はじ》ける音と宵《よい》っぱりの人々の嬌声《きようせい》を背にして、そのカフェを出たのは十一時を少し回った頃だった。  五月の初旬の気持ちの良い夜。今が盛りと生い茂っている街路樹が歩道に影を落とし、時折、軽やかに吹く風に揺れていた。  私はテルヌ大通りを西に向かって歩いた。同じ歩道を歩いているのは、私と私の二十メートルほど前を行く長身の男だけだった。男の肩は歩く度に、左右に大きく揺れた。夜の散歩を愉《たの》しんでいる風情ではなかった。シャンゼリゼのバクチ場でスッテンテンになり、不貞腐《ふてくさ》れながら家路を急いでいるという感じだった。私はペレール大通りの信号に引っ掛かった。信号が青になった時、ふと見ると、前を歩いていた男はどこかに姿を消し、代わりにティーンエイジャーのグループが歩道に現れていた。若者達は牧場で戯れる子馬のようにじゃれ合っている。彼等が遠ざかると、再び静けさが戻って来た。  私は次の角を左に折れ、ベリドールという細い一方通行の通りに入った。その通りに車を停《と》めておいたのだ。  夜の爽快《そうかい》な散歩が、あと二、三メートルで終わりを告げようとしていた時だった。いきなり誰かの右腕が私の首に巻きついてきた。ナイフのようなものが左腰に触れた。 「騒ぐなよ」男の声が低く呻《うめ》いた。  日本語だった。しかも、ピガールのポン引きが客寄せに覚えたような妙な日本語ではなかった。  男は、私の首を締めつけたまま、後退《あとずさ》りした。男は腰を落とし、蹴《け》りを入れられないように、私を斜めから抱きかかえている。喧嘩慣《けんかな》れした相手。  男は、大きな木製の表門を後ろ足で蹴り、私を建物の中に引きずり込んだ。 「金なら上着の内ポケットだ」 「俺《おれ》は強盗じゃない」  男は刃物を持った手で照明のスイッチを探した。通路がぱっと明るくなった。  通路の十メートルほど先に階段とエレベーターがあり、その向こうは中庭になっていた。エレベーターの横にドアがひとつあるだけで一階は住居として使用されていないらしい。 「よし、後ろを向いたまま壁に手をつけ」  私は言われた通りにした。男は私の身体検査を始めた。 「強盗じゃないのなら何が目的だ」 「しらばくれやがって。俺の後をつけて、どうするつもりだったんだよ」  男は、私の前を不貞腐れたような足取りで歩いていた奴《やつ》らしい。 「あんたの後なんかつけちゃいなかったよ」 「嘘《うそ》つけ! 俺には分かってんだ!」 「あんたは、何か勘違いしているようだな」  私が武器を持っていないと分かると、男は私の躰《からだ》から少し離れた。 「じゃ、何故、俺がこの細い道に入ったら、テメエもついてきやがったんだ」 「俺の愛車が停めてあるからさ」  私はそう言いながら、首だけを男のほうに向けた。 「壁のほうを向いてろ!」 「OK。だが、あんたは間違ってるぜ。俺は、自分の車に乗り、わが家に帰り、猫の頭を撫《な》で、レコードを聞きながら一杯やり、寝るつもりだった」 「信じられねえ。テメエは笠原《かさはら》の手の者だろう」 「カサハラ? そんな奴は知らんよ」 「ともかく、テメエをこのまま帰すわけにはいかねえ」  男の構えた気配が伝わって来た。しかし、男は躊躇《ためら》っているようだった。上げている腕の間から見える、男の白い靴が逡巡《しゆんじゆん》していた。  突然、辺りが真っ暗になった。男が動揺した。私はすかさず、男の足を払った。倒れた。黒い影を目掛けて蹴りを入れた。 「ウゥ……」  男は呻《うめ》いた。もう一度蹴ろうとした。だが、今度は、間一髪で身を躱《かわ》し、私の脚を掬《すく》った。私の頭が壁にぶつかった。一瞬、目が眩《くら》んだ。  男と私は、ほぼ同時に立ち上がった。黒い塊が身構えている。刃物を持った左腕を先頭に男の躰が私に体当たりを喰《くら》わせてきた。躱した。だが、刃が私の二の腕を掠《かす》った。男は壁に向かってつんのめった。男の首筋に空手チョップを喰わした。男の黒い影が半転し、壁に沿って床に崩れた。  私は照明のスイッチを押した。再び、光が戻ってきた。  男は目を閉じ、大きく呼吸をしていた。左手に握られていたナイフを奪い、ポケットに仕舞った。  その時、通路に面してある唯一のドアの開く音がした。「一体、何なんです。騒々しい!」  管理人らしい老女が、ドアから躰を半分ほど出し眠そうな声で言った。歯切れの悪い嗄《しわが》れ声には似合わない、花柄の艶《つや》やかなガウンを纏《まと》っていた。  女は倒れている男を見て躰を硬直させた。 「相棒が酔っぱらって気分を悪くしましてね」私は満面に笑みを湛《たた》えて言った。 「すぐに、出て行って下さいよ。そうじゃないと、警察を呼びますからね」 「ええ、すぐに出ます。起こして申し訳ありませんでした」  ドアがバタンと閉められた。  男の目が開いた。起き上がろうとしている。私はしゃがみ、男の喉仏《のどぼとけ》のところにナイフを突きつけた。 「俺の言う通りにしろ、いいな。ここからすぐに出るんだ。そうしないと、管理人のバアさんが、警察を呼ぶぞ」 「分かった、言う通りにする」 「それから、もう一度言うが、俺はあんたの後をつけた覚えもなければ、笠原という男も知らない。信じるか?」 「ナイフを仕舞ってくれたら信じるよ」  私は立ち上がり、再びナイフをポケットに戻した。  男はまだ通路の壁にもたれたまま座っていた。口髭《くちひげ》を生やした、まだ二十歳そこそこの若者である。パンチパーマのショートヘアー。黄色いエスニック調のシャツに黒い上着を着ていた。若造は、主人に殴られて尻尾《しつぽ》を巻いた犬のような目で私を見つめている。 「早くしろ。立てないのか?」私は手を差し出した。だが、男はそれを邪険な手付きで払い自分で立ち上がった。  外に出た時、若造が、顎《あご》を少し突き出し居丈高な口調でこう言った。 「俺の誤解だったらしい。フケルから、ナイフを返してくれ」  私は相手の胸倉をいきなりつかみ、路上に停めてあったシトロエンGSのボディーに押しつけた。 「君は、詫《わ》びの言葉も言えないのか、坊や」 「……悪かったよ、謝るよ。これで気がすんだだろう……」若造は私から目を逸らし投げ遣《や》りな調子で言った。 「いや、まだだ」 「何だよ! 俺に何しろっていうんだよ。テメエ、俺が下手《したて》に出てると思ってツケ上がるとただじゃ済ませねえぞ」 「そう吠《ほ》えるな。そんな威《おど》かしでビクつくのは、高校生か、女房に童貞を捧げた男ぐらいなもんだぜ」 「…………」 「坊や、君は、俺をナイフで刺そうとしたんだぜ。ちょっと間違えば、俺はあの世に行っていたかもしれん。何故、こんなことをしたのか説明してみろ。君はどうやらパリをよく知らんらしい。そんな君が、こんなところをナイフを持って、うろうろしているのはどういうわけなんだ?」 「話す義理はねえよ」 「フランスの警察がどんなところか視察に行こうか、一緒に。日本に帰ったらハクがつくぜ」 「……分かったよ、オッサン。話しゃいいんだろう」と男は観念したらしく、億劫《おつくう》そうな調子で言った。 「よし、近くのカフェに入ろう」私は、若造の胸倉から手を離した。 「ちょっと待ってくれ。俺は�コンコルド・ラ・ファイエット�に泊まってるんだが、ひとりじゃない。スケが一緒なんだ。帰りが遅いと心配するんでね……連絡だけ入れさせてくれ」 「じゃ、�コンコルド・ラ・ファイエット�のバーに行こう」  ホテル�コンコルド・ラ・ファイエット�までは三分と掛からない。私は車をそのままにして若造を連れてホテルに向かった。若造が煙草《たばこ》に火をつけた。ロング・ピース。  パリじゅう探してもロング・ピースを売っているところはないだろう。たとえ日本料理屋にも置いてないはずだ。  この若造が旅行者で、�コンコルド・ラ・ファイエット�に泊まっているのはほぼ間違いないようだ。 「あんたの右腕から血が滲《にじ》んでるぜ」  若造は淡々と言った。物を落としたのを知らずに通り過ぎようとした人に注意するような口調だった。  誰のせいでこうなったんだ! と私は言いかけたが、若造は文句を言われるのを避けるように、私の先に出て、大股《おおまた》で歩き出した。相変わらず、躰全体が不貞腐れていた。  ホテルの正面玄関に着くと、若造が振り返った。 「部屋に戻って、女に話してくる」 「電話で済ませろ」 「いや、直接話してくる。一階のピアノ・バーで待ってくれ。心配いらねえよ。ずらかりはしねえ。あんたには、俺の大事にしているナイフを預けてあるからな」  そう言い残して男は、ホテルに入って行った。  ドアボーイが私のジャケットの袖《そで》の辺りをしげしげと見ていた。  私は傷を調べてみた。大した傷ではなく、すでに血も止まっていた。それより、先月買ったばかりのジャケットがお釈迦《しやか》になったほうが気になった。  2  広いホールである。座り心地の良さそうな椅子《いす》が、数箇所で、ゆったりと弧を描いている。円筒形のガラスケースがところどころに並んでいて、中には貴金属が飾ってあった。中央に�勝利の女神ニケ�像がでんと腰を据えていた。無論、模造品に決まってる。本物はルーヴル美術館にあるのだから。だが、何故《なぜ》、ここにギリシャ彫刻が置いてあるのか、私には分からなかった。  午前零時近くだというのに、人の行き来は激しい。日本人のグループ、アメリカ人のカップル、中には、歯医者で順番待ちをしているような顔をして、暇そうに座っている者もいた。  グビヨン大通りにある�カクテル・バー�からピアノとハスキーな男の歌声が聞こえてきた。  私は中に入った。バーは混んでいた。空席を探していると、ちょうどうまい具合に、カウンターに座っていたカップルが腰を上げたところだった。  スカイブルーのスーツを着た太った黒人がピアノに向かい�ジョージア・オン・マイ・マインド�を歌っている。  私は、カルヴァドスを注文した。バーマンは私の上着の袖をちらっと見たが何も言わなかった。  正面の酒棚の中央に、フランスとアメリカの小旗が立てられ、その間に紫色の軍服を着、同じ色のスカーフを捲《ま》いた男の肖像画が飾ってあった。アメリカ独立戦争に貢献したラ・ファイエット将軍である。  酒を一杯、口に運んだ時、若造が私の隣に座った。 「約束通り来たぜ」男は私のほうを見ずにそう言うと、あとは黙りこくってしまった。  バーテンが注文を取りに来た。 「何を飲む?」私は男に訊《き》いた。 「何でもいい。あんたは何を飲んでる?」 「カルヴァドス」 「飲んだことない酒だ。うまいのか?」 「俺《おれ》は毎晩、飲んでいる」 「じゃ、俺もそれにする」  私は、彼の代わりに注文してやった。  程なく酒が来た。だが、乾杯はしなかった。 「まだ、君の名前を聞いてないようだが……」 「教えてなかったか?」 「立派なナイフに挨拶《あいさつ》された記憶はあるがね、君の名前は聞いてない」私は皮肉っぽく笑った。 「刈谷《かりや》だ。刈谷|雄司《ゆうじ》」男は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、面倒臭そうに答えた。  自分のほうから積極的に名乗ったことは一度もなく、強制的に名乗らされるのが身についている。そんな口調だった。 「ナイフ、返してくれ。約束通り来たんだぜ」 「こんなところで、あんなものを出したら、すぐにガードマンが飛んで来るぞ。心配しなくても、ここを出たら返してやる」 「オッサンの名前は?」 「鈴切信吾《すずきりしんご》。リンリンの�鈴�に�カット�の切ると書く。名前を知った以上、�オッサン�とは呼ぶな。君も�坊や�と呼ばれたくないだろう?」 「…………」  私は二杯目のカルヴァドスを頼み、フィリップ・モリスに火をつけた。店内にはスティービー・ワンダーのヒット曲がメドレーで流れていた。 「さて、どうしてあんなことをしたのか話してもらおうか」 「……部屋に戻って、よく考えたんだが、あんたのことは、まだやっぱり信用出来ねえ。こうやって、俺を信用させておいてから、いきなり、殺《や》るってこともあるからな」刈谷は、カルヴァドスを一口、含むようにして飲むとそう言い、顔だけこちらに向け上目遣いで私を見た。  信用していないのなら来なければいいのに、やって来た。この若造は、言っているほど私を疑ってはいないらしい。  半年かかって生やしたような口髭《くちひげ》。鏡の前で朝夕三回ずつ、眉《まゆ》を顰《しか》め、口を利く前は、必ず口許《くちもと》をきゅっと締めるように心掛けている。そんな雰囲気がしていた。よく見ると、童顔で華奢《きやしや》な感じの男だ。ナイフを持つ代わりに、鋏《はさみ》と櫛《くし》でも持って、美容院に就職したほうが似合っているように思えた。きっと彼は、そう思われるのを死ぬほど嫌《きら》って、色々と演出しているらしい。日本の暴力団の準構成員というところか? 「信用しようがしまいが、俺には関係ない」私はグラスを弄《もてあそ》びながら言った。「君は笠原とかいう奴《やつ》に狙《ねら》われているらしいが、普通なら、それも俺の知ったことではない。だが、君は、俺を襲い、俺の新品のジャケットをダメにした。君が、俺に関わってきたんだ。話によっては、俺も黙っちゃいないぜ」 「サツに垂れ込むってのか」刈谷の声が緊張した。 「さあな」私はそらとぼけた。 「そんなことしたら、どうなると思ってる」刈谷は声を低めてすごんだ。 「ツッパルのはよせ。俺には通じないってことがさっき分かったはずだぜ」 「あんた、一体何者なんだ。カタギじゃないな」 「俺はヤクザじゃないぜ。私立探偵だ」 「私立探偵?」  私は頷《うなず》き、名刺をカウンターに置いた。  刈谷はそれを片手で持ち、二度、三度裏返しにし、カウンターに戻した。 「そうか、分かった。あんた金が欲しいんだな」 「え?」私は思わず聞き返した。 「あんたは誰かに俺の尾行を頼まれたが、客を裏切って、俺と取引しようってわけか。尾行に失敗したと言っても、相手からは金が入るし、俺からは口止め料が入るって寸法か。で、その相手ってのがきっと笠原なんだ。まあ、奴が何と名乗ってるかは知らねえがな」刈谷は、ロング・ピースに火をつけながら独り言のように言い、小馬鹿にしたような目で私を見た。  ここにもまた、探偵を胡散臭《うさんくさ》い職業だときめつけている奴がひとりいた。 「或《あ》る程度、オツムのほうは回るようだな。だが、性格のほうが、電波障害を起こしたテレビ画面みたいに歪《ゆが》んでいる」 「何!」刈谷の唇が捲《めく》れ上がった。 「よく腹を立てる男だな、君は。俺は金を要求する気もないし、君を尾行していたわけでもない」私は、短く笑って言った。 「本当にあんたは……」 「語学のレッスンをやっているわけじゃないんだから、同じことを何度も言わせるな。一体、その笠原ってのは、何者なんだ?」 「……じゃ話そう」刈谷雄司は二度私を見つめなおしてそう言った。「笠原に俺は命を狙《ねら》われているんだ」 「命を狙われるようなことを仕出かしたのか?」 「……笠原恒夫。奴は殺し屋、ヒットマンなんだ。金さえ払えば、総理大臣だろうが、経団連のエライさんだろうが殺す奴さ。何でも聞いた話によると、笠原って野郎はアメリカかカナダに在住しているということなんだ。会長は腕が立つ上に語学の出来る殺し屋を回してきたらしい」 「君も大物だな。そんな奴にパリまで追い掛けられるとは」  刈谷が可愛《かわい》い顔をして微笑《ほほえ》んだ。嫌味も分からないネンネなのだ。 「で、君は何をしたんだ? 組織のヤクでも盗んだのか?」 「もっとも大切な物を失敬したのさ」刈谷は誇らしげに言った。「しかし、まさか殺し屋まで雇うとは思わなかった……」 「何を盗んだんだ?」 「会長の娘」 「誘拐したのか?」 「まさか!」刈谷は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「俺《おれ》がどんなに悪《わる》でも、誘拐なんて卑怯《ひきよう》なことはやらねえよ。俺には俺なりの流儀があるんだ」 「じゃ、恋愛逃避行ってわけか?」 「まあ、そういうことだな。駆け落ちしたんだ、俺達は」 「しかし、それだけのことで殺し屋を雇うとはね……。ついでに失敬したものがあるんじゃないのか?」 「馬鹿言うんじゃないよ。あんたはこっちに生活して長いようだが、西郷《さいごう》連合会のことは知ってるだろう?」 「関東じゃ一番大きい暴力団だということぐらいは知ってるよ」 「その会長、西郷|喜久蔵《きくぞう》のひとり娘、由起子《ゆきこ》が俺の相手なのさ。会長は、俺が由起子を唆《そそのか》して駆け落ちさせたと思ってるんだ」 「君が唆したわけじゃないのか、本当に」 「俺は前から由起子に惚《ほ》れてたが、駆け落ちまでは考えていなかった。言い出したのは由起子のほう。俺はいい機会だから、乗ったのさ」 「いい機会とは?」 「何でも、知りたがる、オッサ……いや、人だな」  刈谷はそう言ったが、聞かれるのは満更でもないという顔をしていた。この青年は話したがっているのだ。ただ、自分からはそのイニシアチブが取れない。誰かが「それで? それで?」と水を向け乗せてやらなければ口が開かないタイプらしい。長い間、使っていないパイプにはゴミが詰まっている。棒を突っ込んでやる必要があるのだ。青年の心のパイプが何故、詰まってしまったのかは知る由もないし、何故、私が棒を突っ込む役を引き受ける羽目になったのかもよく分からない。  ブースはまだ、人で賑《にぎ》わっていたが、カウンターには空席が目立つようになっていた。相変わらず、黒人シンガーはジャズナンバーを歌い続けている。  しばし沈黙した後で、刈谷は話を続けた。 「……俺、ヤクザから、そろそろ足を洗おうかと思っていたところだったんだ。カタギになって由起子と一緒になるつもりだ」 「で、何故、娘は駆け落ちする気になったんだ?」 「ああ、そのことか」刈谷は、一瞬言葉を切り、含み笑いを浮かべた。「由起子は親父《おやじ》を嫌ってるんだ。ともかく、ディスコにも行かせねえくらい厳しいから、しょっちゅう衝突していたのさ。会長は娘を、上流階級のお嬢さんみたいに躾《しつけ》ようとしていたんだ。自分はヤクザのくせにな」 「よくある話じゃないか」 「まあ、そういってしまえばその通りだが、女房を離縁し、自分ひとりで育てたからかもしれないが、ともかく、あの親父は異常なんだ。結婚相手も、一部上場の会社のサラリーマンとか医者だとか、そんな奴じゃなきゃダメだと言ってきかないそうだ」 「それはまた凄《すご》いな。その急場を救ったナイトが君ってわけか」 「まあ、そういうことになるな」刈谷は照れ笑いを浮かべた。そして、突然、暗い表情になり、「そんな夢を俺がぶち壊したと会長は思ってるわけさ。俺がやらなくても、おそかれはやかれ、由起子が自分でぶち壊したろうに。だが親父は、そうは思いたくないんだろうよ」 「彼女はいくつなんだ?」 「二十二。金ばっかりふんだくるお嬢さん学校の学生さ。由起子には、はっきり言って、そんな学校似合わないんだがな」 「ところで、パリに住んだ経験のない君が、何故、ここに逃げて来たんだ?」 「何故、俺がパリに住んだことがないと思うんだ?」 「君が俺を襲った時、電気が切れたろう?」 「ああ。あのイカれた電灯のおかげで俺はあんたの逆襲にあったんだ」 「あの照明は、イカれてはいない。こっちの建物の廊下の照明は、大半、三分以内に自動的に切れるようになっているのさ。そのことを知っている人間なら、あんなに慌てはしなかったはずだ。ところが君は泡を喰《く》った」 「それで、俺がパリに慣れていない人間だと思ったのか」 「その通りだ」 「さすがに探偵だね」 「探偵じゃなくても、こっちに住んでいる人間なら誰でも知ってることだよ。で、そんな君が、何故、パリへ? 知り合いでもいるのか?」 「姉貴が、スペインに居る。俺達はパリ経由でスペインに行くつもりだ」 「向こうで生活するつもりなのか?」 「そんなことまだ考えちゃいないよ。でも、しばらく厄介になるつもりでいる。姉貴はスペイン人と結婚しているんだが、旦那《だんな》の一族はどえらい金持なんだ。だから、向こうに迷惑が掛かることはないのさ」 「君の姉さんは大分、君とは人種が違うようだな」 「姉貴は昔から出来が良かったんだ。パリにいた時は売れっ子の通訳だったんだぜ」  雄司は顔をほころばせて姉を自慢した。 「殺し屋がスペインまで追っ掛けて行ったらどうする? 姉貴に迷惑が掛かるかもしれないぜ」 「心配ないって。いくら西郷の親分でも、向こうにまで手蔓《てづる》はないはずさ」 「何故、笠原という殺し屋が追って来たことが君に分かったんだ?」 「組に俺が可愛《かわい》がっていた奴がいる。奴に電話を入れて聞いたのさ。西郷会長は、血眼《ちまなこ》になって俺達の行方《ゆくえ》を追っているという話だ。そのままにして出て来た俺のアパートまでガサ入れしたそうだ。どうやら、旅行代理店の書類袋が原因で足がついたらしい。まったくまずったぜ。ヤバイ物はすべて処分したつもりだったんだがな」  刈谷はグラスを一気に空けた。  その時、私達の背後に人の気配がした。 「雄司、遅いから、私、待ちくたびれちゃった」  小柄な若い女が、刈谷の背中に片腕を回した。ワン・レングスにカットした髪。右耳だけが見えている。黒いTシャツにシアサッカーの男物のようなジャケットを着ていた。 「寝てろって言ったのに」刈谷が言った。 「もう飽き飽きしちゃった、部屋にいるの」女は甘い声を出した。こちらでは、リセエンヌにしか見えない躰《からだ》つきだが、声の感じは、いっぱしの大人だった。 「彼女がさっき話した由起子だよ」  私は自己紹介をし挨拶した。由起子は軽く会釈しただけで、口は利かなかった。  唇が厚く、目の大きな女の子。顔は絵に描《か》いたような逆三角形で、どことなくギスギスした感じがしていた。 「由起子も何か飲むか?」 「雄司、何飲んでるの?」 「カルヴァドスって酒。初めて飲んだけど、うまいぜ」 「じゃ、私もそれ飲んでみる」由起子はそう言いながら、刈谷の隣に座った。  私は、バーマンにカルヴァドスを三杯注文した。 「で、話ついたの?」由起子は正面を向いたまま刈谷に訊いた。ぶっきらぼうな言い方がいかにもヤクザの娘らしい。  刈谷は私の顔をちらっと見てから、「ああ。この人は、笠原とは関係なかった。俺の早トチリだった」 「そう……雄司、そそっかしいからね」  酒が来た。由起子は煽《あお》るように飲んだ。酒の飲み方を知らないのか、すでに、そういう飲み方しか出来ない人生を送っているのか。父親は、この子をお嬢さんに育てようとしたらしいが、金魚に芸を仕込むより難しいのではないかと思えた。 「この人は私立探偵なんだ」 「へーえ、じゃ、毎日、ドンパチやってんの」由起子の目が輝いた。 「ドンパチなんか、ほとんどやらないね。君の親父さんとは違うんだ」と私は言った。 「やめてよ、親父の話は。酒がまずくなる」 「由起子、言葉に気をつけろよ、少しは」刈谷が注意した。  可笑《おか》しかった。その言葉は、そっくりそのまま、私が刈谷雄司に言いたかったことなのだ。 「パリは初めてかい?」私は由起子に訊いた。 「初めてよ。案外、汚い街ね。男も大して格好良くないし……」 「いい所もあるし、ハンサムもいるよ」 「私達、ほとんど部屋にいるの。だから、ろくにパリ見物もしてないのよ」 「仕方ないだろう。どこで笠原に見られるか分からないんだから」 「でもちょっとぐらい出掛けてもいいじゃない。私、美容院にも行きたいし買物もしたいわ。これじゃ、ムショに入ってるみたいじゃない」 「二、三日の我慢だよ。姉貴がスペインに連れてってくれる。向こうじゃ、好きにできるんだ」 「あーあ。何かパッとおもろいことないかな」由起子は大袈裟《おおげさ》に溜息《ためいき》をつき、グラスを揺らした。 「姉さんが迎えに来るのか?」 「もう来てるが、姉貴にもいろいろ用があってな。それが終わらなきゃ、発《た》てないんだ。姉貴夫婦は、パリにも屋敷があり、今、彼等はそこにいる。俺達は、もしものことを考えて、ホテルを取ったのさ」 「ねえ、鈴切さん。パリには煙草《たばこ》の自動販売機ないの?」 「ない。こっちでは、したいことをする時は、それなりに労力を払うようになってるんだ」 「面倒臭《めんどくさ》い街。私、パリが嫌いになりそう」 「さっき、俺、自動販売機を探して歩いていたんだよ。しかし、由起子の言う通り面倒な街だな」 「便利が良すぎるんだ、日本が。だが、ロング・ピースなんてどちらにしろ、パリじゃ手に入らないぜ」 「キャスターも買えないわね。大事に吸おっと……」 「あんた、こっちに長いのかい?」刈谷が訊いた。 「生まれた時から住んでる。両親は日本人だが、俺の国籍はフランスなんだ」 「じゃ、鈴切さん、パリは詳しいわね? 面白いところ教えてよ」 「由起子、俺達は……」刈谷は嫌な顔をした。 「笠原に狙われてるって言うんでしょう? 耳にタコが出来るほど、聞いたわよ。こっちに来たら、雄司、親父に似てきたみたい、嫌んなっちゃう」 「お願いだよ、由起子。もう少し辛抱してくれ。俺の命がかかってるんだから」  刈谷は由起子を失うのが怖いらしい。彼女が少し強気な発言をするだけで、動揺の色を露骨に見せている。由起子のほうは由起子のほうで、そのことを充分心得ているようだ。  私は腕時計を見た。午前零時四十五分。そろそろバーも閉まる時刻だ。私はバーマンに勘定を頼んだ。 「俺の部屋につけておいてくれ」刈谷が言った。 「若い奴に奢《おご》られると、翌日、二日酔いになるんだ。ここは俺が払う」 「済まないな」 「君の部屋番号を聞いておこう」 「一七三二だ。但し、俺の名前にはなってない。姉貴の名前、留美子《るみこ》・サンチェスで借りてるんだ」  勘定を済ませて私達はバーを出た。私は、物陰に雄司を連れて行き、そっとシース・ナイフを返してやった。 「無闇《むやみ》にこんな物、振り回すんじゃないぞ。パリの警官は射撃の腕はいいし、危険だと思うといつだって撃ってくる。日本とわけが違うんだ。よく頭に叩《たた》き込んでおくんだぞ」 「ああ、分かったよ」話し方は、前と同じように、不貞腐《ふてくさ》れたような感じだったが、私の言ったことを素直に聞くようにはなっていた。刈谷雄司はナイフを腰に吊《つ》り下げた革のサックに収めた。  彼から離れようとした時、雄司が私に声を掛けた。 「あのう……そのジャケットのことだけどな。幾らするんだい?」 「弁償してくれるのか?」 「今は非常事態だから、そんなに持ち合わせがないんだけど……借りは返すつもりなんだ」 「出世払いでいい。その時は、立派なスリーピースでもプレゼントしてもらうさ」 「約束はきっと果たすぜ」 「期待しないで待ってるよ」  アパートに戻った私は、一応簡単に傷の手当てをし、ビリー・エクスタインの『トゥゲザー』を聞きながら、また酒を飲んだ。  心がささくれ立ち、礼儀もわきまえていないが、どこか妙に憎めないところのある青年のことが脳裏を掠《かす》めた。そして、雄司と由起子の関係を想像した。笑いが漏れた。二十年以上前の自分の惚《ほ》れた腫《は》れたを思い出したのだ。  私の相手は、由起子のように気の強い女で、無免許でレースマシーンを転がしているような生き方をしていた。私は、その女にずいぶん振り回され、挙げ句の果てに手酷《てひど》く振られた。今になって思えば、懐かしい、という単純な言葉で括《くく》ってしまえる話だが、当時は荒れに荒れた。  私が十六歳の時で、女は十九歳のスペイン女だった……。  雄司と由起子の関係を見、スペインの話が出たので、記憶が蘇《よみがえ》ったらしい。  私はもう一杯酒を飲んだ。すぐに思い出は消えた。苦い思い出が、すぐに消えてしまうということは、現在が不幸ではないということだ。  私は依頼人から貰《もら》った小切手を手提げ金庫にしまい、ベッドに入った。  3  掃除がしたい。時々、無闇とそういう気分になる日がある。  フランクフルトとホウレン草のソテーという、比較的ボリュームのある朝食をとった後、私はすべての窓を開け、電気掃除機を取り出した。  私の事務所兼住まいは1LDKで、入ってすぐのリビングを事務所として使っている。  愛猫のクマは、電気掃除機を見ただけで、これから何が起こるか予想がつくらしい。足早にベッドの下に潜り込み、私のほうを不安そうな目で見つめている。  掃除は、まず事務所から始める。古い掃除機は、音のわりには吸引力がない。声が大きいだけで、まるで能力のない万年係長のような掃除機なのだ。それでも、少しずつ、事務所は奇麗《きれい》になっていった。  寝室兼居間になっている部屋に移動する。クマの顔が一層緊張した。ほとんど毎日、神経を弛緩《しかん》させて生きている家猫には、格好の精神トレーニングだ。掃除機の先をベッドの下に突っ込んでやる。クマは慌てて事務所に逃げ去った。肉体トレーニングをさせてやるのも、これ飼い主の務めである。  キッチンの掃除をしていた時、電話が鳴った。水曜日の午前九時四十分。依頼人からの電話にしては、ちょっと早過ぎる気がした。  私は掃除機のスイッチを切り、事務所に行った。 「鈴切さんでいらっしゃいますか?」軟らかい女の声が日本語で訊《き》いた。 「ええ」 「私、刈谷雄司の姉の留美子・サンチェスです。昨晩は、弟が御迷惑をお掛けしたそうで……」  刈谷雄司は姉に何と話したのだろう。偶然私に会い、酒を御馳走《ごちそう》になり、自分のトラブルを聞いてもらったとだけ言ったのだろうか、それとも、間違えて殺しそうになったことまでしゃべったのだろうか。その辺がはっきりしない。私は「別に何てことはありません」と曖昧《あいまい》に答えておいた。 「私、一言、お詫《わ》びをと思いまして、お電話を差し上げたのです」 「お姉さんに謝っていただくような話ではありませんよ」掃除機の音が聞こえなくなったので、悠然と部屋の中を歩いているクマを見ながら言った。  雄司の姉は一瞬黙った。お詫びの電話にしては、歯切れの悪い電話だ。 「……突然で不躾《ぶしつけ》なのですが、もし出来ましたら、こちらまでいらっしゃっていただけませんでしょうか?」  サンチェス夫人の言った�もし、出来ましたら�は単なる接頭語の類《たぐい》のようにしか思えない。私には�絶対、来い�と言っているようにしか聞こえなかった。金持と結婚し、命令することに慣れ親しんだせいなのか、日本語をあまり使っていないせいなのか分からないが、ともかく不愉快な感じがした。 「雄司君の件でお話しになりたいことがあるわけですか?」 「それもあるのですが、私、個人の問題もありまして……」 「探偵を雇うような問題を抱えていらっしゃる?」 「……ええ、探偵の方にお願いするのが一番だと思います」 「よろしい、午後一番で参ります」 「……出来ましたら、昼前にお越しいただけないでしょうか?」 「ということは、今からすぐ来いと言うことですね」 「ええ。これには事情があるのです。いらっしゃったらお話し致しますが……」  私はライティング・ビューローの上の置き時計を見た。 「お宅の住所は?」  留美子の教えた住所はパリの西郊外、ヌイイだった。 「どんなに早くても十時半過ぎにしかつけませんよ」 「それで結構です。お待ちしております」  電話を切った私は、電気掃除機を片づけながら思った。形は違えども、姉も弟も口の利き方を知らない人間だと。  私は、グレン・チェックのジャケットを黒のポロシャツに引っ掛け、事務所を出た。  シャルル・ドゴール大通りを真っすぐ西に走り、地下鉄�サブロン�駅を少し越えたところで左に曲がった。そして、メルモーズ大通りをまた左折した。静かな高級住宅地ヌイイ。ゆったりとした歩道は、ちょっとしたリゾート地の遊歩道を思わせる。しかし、観光地と違って行き交う人はほとんどなく、私が目にした人間はゴミバケツを抱えて出てきた使用人風の若い女と歩道の溝を掃除している黒人だけだった。  太陽が顔を覗《のぞ》かせてはいるが、空気はひんやりとしている。街路樹の茂みからこぼれる陽《ひ》が誰もいない歩道に光の斑点《はんてん》を作っていた。  立派な病院があり立派な老人ホームがある街。人生を計画的に生きようと考えている人間には最適の街だろう。息子がクシャミをしただけで風邪薬を持って飛んでくる母親、家庭では厳格な父親役を引き受けているが、商売女におしゃぶりを銜《くわ》えさせてもらわないと、立つものも立たない男がいそうな街だ。  アルジャンソン大通りの外れを左に曲がりシャトー大通りに入り、すぐに車を止めた。  サンチェス夫妻の屋敷はそれほど大きなものではなかった。前面が庭と駐車場。庭にはカシワの木らしい喬木《きようぼく》が葉を思う存分茂らせていた。石造りの家には一面にツタが生え、屋根瓦《やねがわら》は、スペインの赤土のような色をしていた。あまり背の高くない門があり、それに黒い扉《とびら》がついている。駐車場は大型車二台分のスペースがあり、真っ赤なフェラーリBB512が停《と》まっていた。  私は門の横にあるインターホーンを押さずに、駐車場のところから中に入った。五メートルばかり続く砂利道を行くと二十段以上ある階段があり、それを上り切ったところが玄関だった。  チャイムはついていない。私は木製のドアを叩《たた》いた。  ほどなくドアが開き、日焼けした目の大きな青年が顔を出した。エメラルド・グリーンのトレーナーに白いパンツ姿。 「鈴切さんですね? 奥様がお待ちです」青年が日本語で言った。顔立ちから判断して、てっきりヨーロッパ人だと思い込んでいた私は、一瞬、言葉に詰まった。 「アラン・ドロンが完璧《かんぺき》な日本語を話したような感じがしたよ」私は笑った。 「はあ?」青年は怪訝《けげん》な顔をした。小柄な男。だが、肩も腕も筋肉が不自然なほど、発達していた。すぐに涙を零《こぼ》しそうな潤んだ目はぱっちりとしている。年は三十五前後。短い黒髪。額の端がやや薄くなっていた。 「いや、君が日本人だとは思わなかったということだよ」 「僕の血の半分は、スペインの血です」潤んだ目が微《かす》かに笑った。 「なるほど、それで謎《なぞ》が解けた」  私は中に入った。玄関ホールの中央に小ぶりの螺旋《らせん》階段があり、その左側は廊下になっていて奥に続いていた。右手にも階段があった。おそらく、その階段の上は使用人の部屋になっているのだろう。  私は廊下を青年に先導され歩いた。格好といい態度といい、青年は、あまり使用人らしくなかった。慇懃《いんぎん》でもないし、自分の存在感を殺す術《すべ》も心得ていない感じがした。  アラビア風の絨毯《じゆうたん》が敷かれた廊下の突端まで行き着くと、青年は右のドアをノックした。 「どうぞ」中から女の声がした。  私は男に促され先に入った。 「ミゲル、フミエさんにお茶を持ってくるように言って下さい」 「分かりました」男は穏やかに笑い、引き下がった。  応接間はクラシックな佇《たたず》まいを呈していた。薄い臙脂色《えんじいろ》の壁には、年代物に違いないブラケット灯が等間隔に飾られ、暖炉の石には人の姿が彫ってあった。大きなチェス盤がサイドテーブルを占めている。駒は銀製らしい。家具も、置き時計も調度品も、皆、馬車の音を聞いて育ったものばかりだった。車の音に慣れているのは�YAMAHA�と書かれているグランドピアノだけのようだ。ピアノは窓際に置いてあり、木陰を抜けて射し込んでくる弱い光が当たっていた。  留美子・サンチェスはゴブラン織りの長椅子《ながいす》から腰を上げ、ゆっくりと私のほうに歩み寄った。そして、型通りの挨拶《あいさつ》をし、あらかじめ用意してあった名刺を差し出した。  私も名刺を渡す。  彼女の名刺は、私のより幾分小ぶりで、肩書も何もないものだった。留美子・サンチェスと日本語とローマ字で書かれてあり、住所はスペインになっていた。  私はすすめられた肘掛《ひじか》け椅子に座った。  留美子・サンチェスは、想像していたように硬い感じの女で、想像していたよりも美人だった。すっきりとした顔立ち。額が丸く突き出、眉《まゆ》がきゅっと吊《つ》り上がっている。どことなく雄司に似ているといえば似ていた。髪は、フロントからバックに奇麗に流れていて、シニョンを作っていた。頭の形がいいのか、美容師の腕がいいのかは分からないが、全体が丸く膨らんでいる。  年は三十五、六と踏んだが、クラシックなこの応接間に、似合うだけの気品と落ち着きが感じられた。とは言っても、ポンパドゥール夫人のような服装をしていたわけではない。留美子・サンチェスはグレイに白い模様があしらわれているパンツスーツを着ていた。 「随分、クラシックな御趣味ですね」 「この部屋を見てそうおっしゃってるのね。これは主人の父の趣味ですわ。この屋敷の持ち主は正確に言うと、義父《ちち》ですの」 「しかし、何となくこの部屋にマッチしていますよ、あなたは」 「褒めてらっしゃるのかしら、それとも、私が骨董品《こつとうひん》みたいだという意味かしら?」 「あなたが骨董品なら、カトリーヌ・ドヌーブは考古学者の手に委《ゆだ》ねなければならない」 「じゃ、褒めていただいたことにしておきますわ。でも、私は、どちらかというと、今風の家具のほうが好きなのですよ」  留美子は歯磨き粉のコマーシャルに出てきそうな白い歯を見せて微笑《ほほえ》んだ。上唇がピーンと一直線に張り、まるで歯ぐきなどないように見えた。  ノックの音がした。若い女が飲み物を運んで来た。使用人には違いないが、この女も家政婦という感じはしなかった。乾いた血痕《けつこん》のような色をした口紅、サイドを刈り上げ気味にした髪。流行《はや》りの服を上手に着こなしていた。だが、そういう装飾を取ってしまえば、単なる器量の悪い女だった。 「テーブルの上に置いておいてくださいな。後は私がやるから」 「はい」女は私に軽く会釈をして出て行った。  銀製の盆の上にはコーヒーカップは一客しかなかった。代わりにミルクのたっぷり入ったグラスが載っていた。 「ここの使用人は、皆使用人らしくありませんね」 「そうですか?」 「玄関であった人も執事ではなさそうだし、今の日本人も家政婦には見えない」 「さすがに探偵さんね。ふたりともそういった類《たぐい》の使用人ではありませんのよ。男性のほうはミゲル・寺本《てらもと》という主人の秘書。フミエさんのほうは、私の友人で、ここの管理をしてくれている人です。いわゆる、執事とか家政婦とかいう人ではありませんの」留美子は銀製のポットを持ち、カップにコーヒーを注《つ》いだ。「お砂糖は?」 「二杯入れて下さい」 「随分、甘党なのね」 「甘い物を味わう機会が、ほとんどない。いろんな意味でね。だから、コーヒーには、時々、砂糖を入れることにしているんです」 「御結婚なさってないの?」 「無理矢理、ケーキを食べさせようとする人もいません」  留美子は私にだけコーヒーを入れた。 「私、コーヒーも紅茶も飲みませんの。もっぱらミルクだけ」と言いながら留美子はグラスを自分のほうへ引き寄せた。 「それじゃ、煙草《たばこ》もやらない?」 「もちろんですわ」留美子はきっぱりとした口調で言った。「嗜好品《しこうひん》から逃れられない人間は本当の自由を知らない人達です」 「私など、あなたの説からいくと、完璧な奴隷ですね」 「早めに嗜好品という足枷《あしかせ》から解放されるべきですわ」留美子はまた白い歯を出して笑った。決して冷やかではないが、他人をシャットアウトしてしまう笑いである。勢いよくぴしゃっとブラインドを閉めるのに似ていた。  この女は、日に三度は風呂《ふろ》に入り、一週間に一度は、塩水しか口にせず胃を奇麗にする。私にはそう思えてならなかった。  一瞬、会話が途切れた。スプーンでコーヒーを掻《か》き回しながら、私は訊いた。 「時々、パリにいらっしゃるわけで?」 「ええ。主人のリカルドの仕事について来たり、買物に来たりしますのよ。私達の住まいは、太陽と海に恵まれた素晴らしいところにあるのですが、田舎街には違いありません。だから、時々、パリに出て来て都会の空気を吸うんです」 「しかし、今回はパリの排気ガスが恋しくなって出てきたわけではないようですね」 「ええ。年に二、三の用事が重なりまして。人の結婚式、それに……雄司のことがありましたし……」留美子の顔が一瞬曇った。 「御主人も今こちらに?」 「ええ。それにリカルドの弟夫婦も来てますのよ。義弟の妻の妹の結婚式がありましたものですから」留美子はそう言ってミルクを少し飲んだ。そして、思いだしたように、「雄司はあなたに会えて、とても喜んでいるようでしたわ。もっとも、喜びを直《じか》に現したりはしませんけれど。会ってお分かりになったと思いますが、あの子はひねくれていますから」 「感情を率直に表現するのが下手なタイプのようですね。もっとも怒りの感情を表現するのは心得ているようですがね……」 「本当にあの子の言うような危険があるのでしょうか、鈴切さん」留美子は改まった口調で訊いた。 「雄司君はあなたにどんな話をしたのです?」  留美子はポツポツと話しだした。私が聞いた話と、そう違ってはいなかった。 「殺し屋だとか�オトシマエ�だとか、正直な話、私にとっては映画の世界のことですの。ボスの娘と駆け落ちしたくらいで、人殺しまで考えるなんて私にはとても信じられません」 「雄司君が意識過剰になっていると考えているわけですね」 「ええ。ホテルの予約も私の名前にしてほしいと言うし、絶対、私にもホテルに訪ねて来るな、もしも、この屋敷の存在を知ったら、後をつけられる、とも言ってました。ちょっと大袈裟《おおげさ》な気もするのですが、どうでしょう?」 「よく分かりませんが、用心するに越したことはないと思いますよ。雄司君の話から想像すると、フィアンセの父親は異常なくらいに娘を愛しているようです。その父親が、殺し屋を動かせるだけのヤクザ者となると、あながち彼の心配は杞憂《きゆう》だとは言えないかもしれませんね」 「やはり、警察に、その笠原とかいう殺し屋のことを教えて何とかしてもらうほうがいいかしら?」 「それは、どうかな? 殺し屋が、こっちで法を犯すか、国際警察機構を通して手配されていれば別ですがね。もし私が、西郷とかいうボスだったとしたら、まず手配されているような人物を送り込むような損な真似《まね》はしないし、或《ある》いは、私が殺し屋なら、駐車違反はおろか、路上に唾《つば》も吐きませんよ。ところで、奴隷の身が恋しくなったのですが、よろしいですか?」私は、フィリップ・モリスの黄色いパッケージを見せながら訊いた。  留美子は笑って頷《うなず》き、サイドボードの上にあったガラス細工の灰皿を持って来た。  私は煙草《たばこ》に火をつけた。 「私に弟さんのボディーガードを頼みたいわけですか?」 「そんなことまでする必要があるのでしょうか?」留美子は煙草の煙を避けるように、躰《からだ》を背凭《せもた》れに倒しながら訊いた。 「いつスペインのほうに彼等を連れて行くのですか?」 「明後日です」 「彼等が�コンコルド・ラ・ファイエット�にいることを知っているのは、あなたの他に誰かいますか」 「夫だけです。彼には本当のことを打ち明けてありますから」 「だったら、ホテルでじっとしていれば、まず大丈夫でしょう。お住まいはスペインのどちらですか?」 「マルベージャの近くの港町、プエルト・サンチェスです。御存じかしら?」 「マルベージャは知っています。地中海に面したリゾート地、|太陽の海岸《コスタ・デル・ソル》にある街ですね。でも、プエルト・サンチェスというところは初めて聞きました」 「小さな街ですからね。先程、話に出た義父《ちち》ホセ・サンチェスが開発した街で、つくられてまだ十七年しか経《た》っていませんのよ」 「新興の街というわけですね」 「ええ、義父が音頭を取り、それまで荒れ地と農園だったその土地を、ちょっとしたリゾート地に変えましたの。まだ、名前のほうは知れ渡っていませんが、ニース辺りからヨットで遊びに来るお金持が年々、増えています」 「最寄りの空港というと、やはりマラガですか?」 「ええ」 「しかし、彼等は向こうに逃げてどうするつもりなのかな」私は訊くともなしに訊いた。 「そのことが私も気になっているのです」 「西郷の手の者が、本気で雄司を追うつもりだったら、あなた達の居所を突き止めるくらい、訳ないですからね」 「雄司の話によると、あまり私のことは、向こうで話していないようです。ヤクザの仲間に入った時から、家族に迷惑が掛からないようにだけは気をつけてきた、と言ってました」 「しかし、日本であなた達の家族を調べれば、分かるんじゃありませんか?」 「私達の両親はちょうど十五年前の夏に交通事故で亡くなりました。私が二十一、雄司が九つの時に」 「他に兄弟はいらっしゃらない?」 「おりません」留美子はきっぱりと言った。 「となると、しばらく、スペインに身を隠すというのはいいアイデアかもしれませんね」 「鈴切さんみたいな、プロにそう言っていただいて、私、安心しましたわ」 「でも、安心は禁物です。いくら雄司君が向こうで、あなたのことをしゃべっていなくても、あなたの名前くらいは誰かが知っている可能性はある。だから、雄司君も警戒してここには来なかったのだと思いますよ」 「そうですわね」  留美子は大きな溜息《ためいき》をついた。 「しばらくしたら、あなたの街を離れさせたほうがいいかもしれない」 「ええ。そうします」彼女の表情が少し和らいだ。  しかし、その表情はすぐに消え、暖炉の上の置き時計を見た。  時計から目を離し、私を見つめた時、初めて彼女の顔に依頼人らしい、決意と不安の混じった独特の表情が浮かんだ。 「で、もうひとつのお話というのは?」  留美子は立ち上がり、ピアノのところまで歩み寄った。そして、椅子の上に載せてあった小ぶりの黒いキルトバッグから、茶の封筒を取り出した。  留美子は私の横に立ち、「これを読んでいただきたいのです」と緊張した声で言い、今度はピアノの椅子に腰を下ろした。  封筒の中身はフランス語でタイプされた手紙だった。 『あなたの夫、リカルド・サンチェスにはパリに愛人がいる。女の名前はNORIKO WAKITAという日本人マヌカンである。嘘《うそ》だと思うなら、探偵でも雇って調べてみるといい』  読み終えた私は、封筒を調べた。プエルト・サンチェスの留美子宅に送られて来たもので、消印は四月十五日、パリとなっていた。無論、差出人の名前はなかった。  私は、留美子を見た。彼女は脚を組み、片肘をついてピアノのほうを向いていた。微《かす》かに呼吸が荒い。 「で、この手紙にあるように、その真偽を調べてほしいというわけですね」 「……ええ、まあ……先程まではそのつもりだったのですが……」 「知るのが怖くなった?」 「いえ、そういうわけでは……」留美子は、ふん、と笑って、私の言ったことを軽くしりぞけたが、顔は暗かった。ツッパルところは、やはり、雄司に似ていると思った。 「知るのが怖いのは当たり前ですよ、サンチェス夫人」 「…………」留美子は額に手をやり、そこを軽く何度も擦《さす》っていた。「みっともないことをしたくない、と思っていますの、私」 「みっともないことをしたいと思っている人間などどこにだっていませんよ。一見、みっともないことを平気な顔でやる正常な奴《やつ》は、それなりに救われる方法を心得ているものです。だから、結局はみっともなくなどないのです」 「でも、夫の浮気を調査させるのは、やはり……とても恥ずかしいことですわ」 「だったら、自分で調べるか、直接、御主人を問いただせばいい。それも、格好が悪くて出来ませんか?」 「……格好が悪いとは思いません。でも……」 「あなたは、すでに私を呼んで手紙を見せた。弟さんの問題も心配なのでしょうが、本当はそれ以上に、夫の浮気のことが気に掛かっている、違いますか?」 「そんな! 弟の命のほうが大事に決まってます。ただ、今のところ、さしたる危険がなさそうなので、それで……」  留美子は口許《くちもと》を固く結び、鋭い視線を私に走らせた。 「どちらにしろ、そんなことは私に関係のないことです。探偵を雇う勇気が出たら、またお電話下さい」私は煙草をポケットに入れ立ち上がった。 「待って、鈴切さん……。やはり、調査をお願いします。私……あの手紙を受け取ってからずっと、睡眠薬の世話になっていますの……」  私は留美子の傍《そば》に行き、ピアノに凭《もた》れかかった。 「本当のことを言うと、浮気調査は性に合わないです」 「何故《なぜ》?」 「どんな結果が出ても、依頼人は満足しないからです」  私は、昨日、調査料金を支払った印刷屋の話を聞かせた。 「……私、勇気を出しますわ。どんな結果が出ても、覚悟します」 「調査をする前から、それだけ否定的に考えているからには、あなたに思い当たる節があるのですね? それとも、何事も初めから否定的に考えておくという、安全弁を作っておく性格なのですか?」私は煙草を取り出し、また肘掛け椅子に戻った。 「きっと、その両方ですわ。私は、何事においても、悪い結果だけ考えますの。そうしておけば、大きな落胆や失望を感じなくてすみますでしょう。でも、このことに関しては、思い当たる節もあるのです」 「お話し下さい」 「最近、リカルドはよくパリに出掛けるようになりました。この半年ほど」 「名目はやはり仕事ですか?」 「ええ」 「御主人の仕事は何ですか?」 「不動産業者です。主にサンチェス家所有の広大な土地を利用して、建売別荘の販売をやっています。ですから、当然、フランスの業者とも付き合いがあるので、パリ出張それ自体は何も不自然ではないのですが、最近、その回数が増え、しかも、取引相手が、パリに支店を持つ日本の観光業者なものですから……」 「なるほど、その辺で怪しいと思ったわけですね。その日本の観光業者とはどんな取引をなさっているのですか?」 「サンチェス家の土地を買ってゴルフ場を建設したいと相手は考えているようです」 「御主人は売る気なのですか?」 「あまり乗り気じゃないようですわ」 「おかしいですね。乗り気ではない人間からわざわざ出向くのは」 「その通りです。この手紙を読むまでは、他の用もあるのだろうと思っていましたから気にならなかったのですが……」 「私が気になっているのは、この手紙の内容が本当でも嘘でも、誰が何の目的でこんな手紙をあなたに出したかということです」 「私もそのことを考えましたわ。金を要求するつもりなら、私に出すのではなくリカルドに書くのが普通だし……」 「あなた方夫婦に恨みを持っている人間、或いは、この話が事実だとすると、相手の女と関係のある人物の仕業だということになる。あなた方の側で、こんな手紙を書きそうな人物に心当たりはありませんか?」 「まったくありません」留美子はきっぱりと否定した。 「ということは、向こうの女のほうに……」 「……ええ。嫌な結果が出る覚悟をしておかなくてはなりませんわね。鈴切さん、改めてお願いします、調査してみて下さい」 「引き受けるのは構いませんが、二日では結果を得られないかもしれませんよ」 「私、そんなに短気ではありませんわ。この二日間でダメなら、今度夫がパリに来る時に調査して下さい。日程については、その都度、私が連絡します」 「御主人の写真を一枚お借りできますか?」 「ええ。二階に行って取ってまいりますので、しばらくお待ちになって」  留美子はゆっくりと応接間から出て行った。  私はピアノの前に坐り、蓋《ふた》を開けた。整然と並んでいる白い鍵盤《けんばん》と黒い鍵盤を見るともなし見た。  何故か白い鍵盤が留美子に、黒い鍵盤が雄司に思えてならなかった。いろいろな点でまったく違う姉弟だが、どちらの鍵盤を叩《たた》いても愉快な音楽は聞こえてこないような気がした。  ほどなく留美子が戻って来て、ポケットから夫の写真を取り出した。  リカルド・サンチェスは精悍《せいかん》な感じのする美男だった。留美子とは逆に、飲み屋で意気投合した見ず知らずの人を、平気で家に連れて来てしまうような明るい感じのする中年を私は想像した。 「相手の女だと言われているマヌカンについてはまったく御存じない?」 「知りません。調べてみようと思ったことは何度もあったのですが……」留美子は落ち着きを取り戻したらしく、少し頬《ほお》を緩ませた。 「まず、マヌカンの住所を突き止め、場合によっては今日から、御主人の尾行をやることにしましょう。御主人の今日の予定はお分かりですか?」 「午後からは、ずっと家にいて、仕事をすると言っていましたわ。夜は、ここで一緒に食事をする予定です。さっき言い忘れましたが、リカルドの娘もパリに来ていますから、三人で食卓を囲むことになっているのです」  リカルドの娘? 妙な言い方だが、私には関係のないことなので、そのことには触れなかった。 「じゃ、尾行は明日だけにしましょう。パリを発《た》つ一日前、もし手紙にあった通りだとすると、御主人が行動を取る可能性がおおいにありますからね」  留美子は「お任せします」とやや緊張した口調で言い、調査料を訊いた。  私は二千フランを要求した。依頼人は、五百フラン札を十枚、私の前に置いた。 「あなたはサルトルみたいな人ですね」私は札には触れずに言った。 「どういう意味ですか?」 「彼は、十フランのコーヒーを飲んでもチップに五十フラン払ったって話ですよ」 「残りの三千フランはチップじゃありません。弟がダメにしたジャケットの弁償金ですのよ」  驚いた。雄司は姉にすべて報告していたのだ。 「私のジャケットは正確には千二百五十フランです」 「じゃ、その分をお取りになって。雄司が弁償するのが筋なのですが、何分、あの子はあまりお金を持っていないものですから」 「昨日、彼に出世払いでいい、と言ったのだから、いつか機会があったら雄司君からもらいます」 「……そうですか。鈴切さんの気の済むようになさって下さい」  私は受取を書き、席を立った。  留美子はまた置き時計に目をやった。 「何とか、夫が帰宅するまでに話が終わりましたわ」 「それで、午前中に、とおっしゃっていたわけですね」 「ええ」留美子が笑った。 「ところで、日本の観光会社の名前を、念のために聞いておきましょうか?」 「東西リクレーション。パリ支店は、モンパルナスのCITタワーの中にあるそうです」  私と留美子・サンチェスは部屋を出、玄関口に向かった。  玄関口で、別れの挨拶を交わしていると、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえた。 「きっと、リカルドですわ。弟のことで来ていただいたことになっていますので、その辺のことを聞かれたら、適当に返事をしておいて下さい」  私は黙って頷《うなず》いた。  ドアが開き、中年男と若い金髪の女が入ってきた。両方ともテニスラケットを持っていた。  リカルド・サンチェスは写真通りの、日焼けした精悍な男だった。とっくに四十を越えているのは分かるが、トレーニング・ジムのコーチといった体格をしていた。白いショートパンツがよく似合っている。少し禿《は》げ上がった額にかいた汗を白いタオルで拭《ぬぐ》ってから、白い歯を見せて妻に笑いかけ、彼女の頬《ほお》に軽くキスをした。なにもかもが芝居臭かったが、それがまたぴったりとくる男でもあった。金持ならではの洒脱《しやだつ》さと経験がもたらした深みを兼ね備えたレディー・キラー。  留美子が私を紹介した。  女は�リカルドの娘�マリアだった。スカートが紺、シャツが白というありきたりのテニスウェアを着ていたが、清々《すがすが》しい感じはしなかった。どこにいても官能というフェロモンを振りまいている女。�テニス・ウーマンの快楽�とでもいうポルノ映画に出てきそうだ。極端に長い睫《まつげ》を二度パチパチさせ、ぶ厚い唇を少し開き、マリアはフランス語で挨拶した。長い睫の分だけ、舌が短くなったようなしゃべり方だった。年は二十前後。留美子との間の子供ではないことは明らかである。 「で、どうですか、ミスター・マーロウ。私の奥様の悩みを解決することが出来ましたか?」リカルドの黒い瞳《ひとみ》が親しげに笑い、白い歯の間から流暢《りゆうちよう》なフランス語が流れ出した。 「さあ」私は笑って誤魔化し、「ペペ・カルバイヨのほうが腕がいいとは思いますがね」  リカルドは怪訝《けげん》な顔をした。アメリカの有名な私立探偵の名は知っていても、自分の国の探偵は知らないようだ。  リカルドにお昼を一緒にと誘われたが辞退し、私はサンチェス家を出た。駐車場には、フェラーリの横に白いプジョー505が停まっていた。  サンチェスの屋敷から笑い声が微かに聞こえた。誰の笑い声かは分からないが絶対、留美子のものではないだろう。  私は、ヌイイ大通りに出て、近くの公衆電話から�毎朝日報�の特派員、タニコウこと谷宏一《たにこういち》に電話を掛けた。  4 「俺《おれ》にマヌカンの住所を調べてくれだと?」  タニコウは電話口で笑った。 「タニコウさんが文学にも音楽にもファッションにも興味のないのはよく承知しているが、あんたも特派員。一応、オールラウンド・プレーヤーだと思って電話してみたのさ。調べようがないんなら、他を当たるぜ」 「ちょっと待て。調べようがないはずはないだろう。俺だって、ファッション記事の取材くらいしてるんだぜ。おまえ、イネスってマヌカン知ってるか?」 「いや」 「ほらみろ。俺のほうがおまえより詳しいだろう。イネスってのは、シャネルとえらい金で専属契約したトップモデルなんだ。俺が取材に行ったんだぜ」 「その時、アシスタントの女の子が病気か休暇中だったんだろう?」 「よく分かったな」タニコウは豪快に笑った。 「俺の探しているマヌカンはワキタ・ノリコっていうんだ。所属のクラブも自宅も分からない。至急何とか調べ出してくれよ」 「何か事件か?」 「いや。私立探偵稼業で一番つまらない調査の上で彼女の住所を知る必要に迫られているだけだ」 「なんだ、浮気調査か」犯罪事件ばかりに熱中しているタニコウは露骨にがっかりした声を出した。 「でも、調べ出してやるよ。クラブと自宅の住所が分かればいいんだな?」 「助かるよ。それにだ……」 「まだあるのか?」 「ああ。西郷連合会という暴力団についても、何でもいいから調べておいてくれ」 「マヌカンに暴力団か、妙な取り合わせだな」 「パリの日本人レストランと同じだよ」 「何だそれ?」 「鮨《すし》カウンターで天麩羅《てんぷら》も食べられるのがこっちの日本レストランだろう?」 「なるほど、そういう意味か」タニコウは冗談には何の反応も示さず、「で、そのマヌカン、西郷連合会と関係があるのか?」好奇心が露骨にあらわれた声。 「残念ながら、全く関係なし」  私は昼を一緒にどうかと誘ったが、タニコウは、他に先約があると断った。 「二時半にサンミッシェルの�カフェ・ド・クリュニー�で会おう。それまでには、マヌカンの住所は調べておくよ」 「西郷連合会のほうも頼むぜ」 「そっちのほうは、調べなくても俺の頭に詰まってるよ」  電話を切った私は、シャンゼリゼのピゼリアでエスカロップ・パネとハウスワインで昼食を取った。そして、暇潰《ひまつぶ》しに、レコードショップ�リド・ミュージック�に寄った。ひやかしのつもりだったのだが、ダイアン・シューアのLPを買ってしまった。  二時二十分。サンミッシェル大通りとサンジェルマン大通りの角にある�カフェ・ド・クリュニー�に着いた。  太陽が雲間から顔を覗《のぞ》かせ、青空が押し上げられたように高みにあった。観光に最適の天気。月並はあくまで月並でなければならないことを示す、お手本のような�五月のパリ�だ。  私はサンミッシェル大通りに面したほうのテラスに座り、ビールを注文した。  タニコウは五分ばかり遅れて現れた。地味な紺のスーツを着ている。きちんとした格好をすればするほど、かえって粗野な感じになってしまう人間がいるものだ。タニコウはそういうタイプの男である。やはり、事件記者には、ラフな格好が似合うのだ。 「どうしたんだい? スーツなんか着て?」 「俺だって、時にはこんな格好をしなきゃならん時があるんだ。似合わないか?」 「似合うよ。胡散臭《うさんくさ》いキャバレーのマネージャーみたいに決まってる」  タニコウは少し眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。そして、おもむろに上着を脱ぎタイを緩めた。  注文したビールが来ると、彼は一気にグラスを空《あ》けた。口髭《くちひげ》に泡が残っている。 「また、ビールの季節が来たな」 「年じゅうビールの季節じゃないか、タニコウさんは」私は皮肉っぽく笑った。  タニコウは大のビール党なのである。何故《なぜ》か彼がビールを飲む姿を見ると、無性にビールがうまく感じるのだ。おそらく、濃い口髭のせいなのだろう、と私は思っている。何事にも、神秘的に見せる小道具があるのとないのとでは大違いだということだ。  私はまたビールを二杯注文した。 「おまえに頼まれたこと、調べておいたぜ」  タニコウは上着のポケットを探ってメモ用紙を取り出し、テーブルの上に置いた。  脇田典子《わきたのりこ》の所属クラブは�リッツ・クラブ�といい、事務所はルーブル通りにあった。自宅のほうは八区のポルタリ通り。 「ポルタリ通りってのはどのへんかな?」 「サン・オーガスタン教会を知ってるだろう。あそこから少しサン・ラザール駅に寄ったところだよ」 「よく知ってるね」 「おまえのためにそこまで調べてきてやったんだよ」タニコウはゴロワーズに火をつけ、一服吸った。やはり、ゴロワーズもうまそうに見えた。これも口髭のせいらしい。「しかし、自宅にいないかもしれないぜ。事務所の話によると、彼女、休暇中だそうだ」 「遠出しているのか?」 「そこまでは分からない。事務所には何も言わなかったということだ」  遠出をしているとすれば、リカルドとの関係はない、或《ある》いは、終わったとみるべきだろう。しかし、休暇にも拘《かか》わらずパリに残っているとなると、話は違ってくる。  私はタニコウに礼を言い、メモを仕舞った。 「それじゃ、西郷連合会について話してくれないか?」 「何故、西郷連合会などにおまえ、興味を持ってるんだ」タニコウの目がブンヤの目付きになった。 「電話でも言ったが、これは仕事じゃないんだ」 「いいから話してみろよ」  私は雄司との経緯《いきさつ》を話した。 「うちの新聞じゃ記事にならないが、週刊誌だったら、ピラニアみたいに飛びつくネタだな」 「口外しないでくれよ」 「分かってる。しかし、西郷喜久蔵なら、殺し屋を差し向けるぐらいのことはするかもな」タニコウはビールを口に含んでから、そう呟《つぶや》いた。そして、西郷会のことを話し始めた。  西郷連合会は関東一円を牛耳っている暴力団で、賭博《とばく》、麻薬、売春、そして、企業恐喝と何にでも手を出している、総合商社ならぬ総合暴力団なのだ。会長の西郷喜久蔵は五十二歳。父の跡目を継いだ二代目。どちらかというと若手の親分である。一見、紳士風なのだが、裏では非情極まりない男ということだ。西郷喜久蔵が関与したと思われる殺人はタニコウの知っているだけで五件あるという。しかし、一度も逮捕されたことはない。大胆にして細心な男というのが、もっぱらの評判らしい。 「娘のことは知っているか?」私が訊《き》いた。 「離婚した妻との間に娘がいて、西郷が引き取り育てているということは知っているが、娘のことは分からない。だが、娘をカタギに嫁がせたいというのは、ほとんどの組長が考えていることらしいぜ。西郷喜久蔵もその点では普通の親と同じってわけだ」タニコウは皮肉めいた笑いを浮かべた。 「殺し屋の笠原恒夫って名前に心当たりはないか?」 「ないな。俺もここ四年、日本を離れてるから、段々そういう情報にはうとくなっているんだ。何だったら本社の若いのに調べさせてみようか」 「そうして貰《もら》えると助かる」 「しかし、その笠原というのは、俺の勘だと単なる鉄砲玉じゃないな」 「違うね。その刈谷という若造の話によると、カナダかアメリカに在住している男らしい」 「なるほどね、じゃアメリカの支局に問い合わせてみる」 「しかし、最近の日本の暴力団は、インターナショナルになったものだな」 「暴力団だけじゃない。日本のオバサン連中も、今や国際的なのだ。俺は、今から�夏のヨーロッパの過ごし方特集�企画のための取材に出掛けるんだ」 「中年婦人向けの企画なのか?」 「そうだ。今や婦人欄の充実していない新聞は、紙クズ同然なんだよ」  詰まらなそうに大きな溜息《ためいき》をひとつつき、タニコウは上着を着た。  私は勘定を済ませ立ち上がった。 「笠原の件、頼んだぜ」 「俺も私立探偵にでもなるかな」 「タニコウさんは失格だよ」 「どうしてだ?」 「婦人欄を馬鹿にするような男は探偵に向いてないんだ」 「そうかな?」  タニコウは私の言っている意味が分からず、タイを締めながら首を傾《かし》げていた。「じゃ、おまえは馬鹿にしていないのか」 「当たり前さ。俺のところに持ちこまれる大半の依頼は、婦人欄の人生相談に書いてあるようなことばかりなんだぜ」  タニコウは不服そうな顔をして顎《あご》を撫《な》でていた。  私は、取材先がすぐ近くだというタニコウと店を出たところで別れ、ポルタリ通りに向かった。シテ島を横切り、リヴォリー通りを西に向かって走った。そして、マドレーヌ寺院のところからマルシェルブ大通りに入った。ポルタリ通りは、タニコウの言った通りサン・オーガスタン教会のすぐ近くだった。  カフェもブティックもない静かな通り。煤《すす》けた感じの堅牢《けんろう》な建物が整然と並んでいた。  脇田典子のアパートはすぐに見つかった。しかし、私は車を止めず、次の角でUターンして、サン・オーガスタン広場まで戻った。そして、広場にあった電話ボックスから脇田典子のアパートに電話を入れた。在宅ならそのまま電話を切るつもりだった。  十五回ほど呼び出し音を聞いたが、受話器を取る者はいなかった。  私は再びマヌカンのアパートの前まで行った。  中に入った。郵便受けを調べる。脇田典子の部屋は五〇一号室。郵便受けには鍵《かぎ》が掛かっていた。私は上部の口から中を覗《のぞ》いた。何も入っていなかった。脇田典子は遠出をしていない可能性が強いと踏んだ。  私は外に出た。  浮気調査は尾行が一番なのだ。妙に周りを嗅《か》ぎ回ると、相手に気付かれる可能性がある。彼女の所属クラブに行ってもっと詳しい情報を得ようとしないのも、管理人に聞き込みをしないのも、そういう理由によるのである。  今日はアパートのロケーションを知っておくだけのために、やって来たのだ。人通りが少なく、道の両側に車を止めて待機していても不自然ではないことが分かっただけでも大きな収穫だった。明日、リカルドを尾行した後、もし彼がここに来たら、どこで待機するかもあらかじめ頭に入れておいた。  車を出そうとした時、バックミラーに長い脚が映った。本当は躰《からだ》全体が映っていたのだろうが、私の目は、見たい物しか見ない癖があるのだ。  女はエメラルド・グリーンのショートパンツに白い大きめのTシャツを着、大きな黒いショルダーバッグを肩に掛けていた。背が高く脚が長い、顔の小さな東洋人。典型的なマヌカン・タイプの女だ。目が大きく、頬《ほお》がこけ、若い頃のミア・ファローに似ていた。髪をショートにしているせいで、顔の押し出しが強く感じられた。  脇田典子なのか?  私は、脇田のアパートに入るかどうか様子を窺《うかが》った。  果たして、女は私の思った通りの行動を取った。  私は、再び広場に戻り、電話ボックスに入った。今度は、脇田典子の受話器が外された。私は適当な名前を言い、間違えたことを詫《わ》び電話を切った。  ハスキーな暗い感じの声だった。先程の女の顔の骨格とその声はマッチしていた。  5  キャバレー�フォーリー・ベルジェール�の近くの地下駐車場に車を入れた。事務所はそこから少し離れたフォーブール・モンマルトル通りにある。  この通りは、プードルのように気取っているオペラ座界隈《かいわい》にも、野犬が群れているような雰囲気のするサン・ドニ街にも、盛りのついた牡犬《おすいぬ》どもがうろついているピガールにも近い。便利なところである。ゴミゴミしていて、これといった特徴はないが、終日、活気に満ち観光客も商人もギャングも娼婦《しようふ》も普段着《ふだんぎ》の顔で歩ける界隈である。  私は途中、マーケットでキャットフード�ロンロン�を買い家路に向かった。  十七番地の前、つまり私の事務所兼住まいの前に、一度見たら忘れられない車が停《と》まっていた。  赤いフェラーリBB512。  都会から田舎の劇場にやってきた売れっ子タレントのような存在だった。赤いフェラーリには、普段着の顔というのはないのである。道行く人、特に男どもが熱い視線を送っていた。  視線を集めているのは車だけではなかった。ドライバーも然《しか》り。  今風の濃紺のサングラスを掛けた女。運転席にゆったりと座り、見て通る人々を意識しているかのように、顎《あご》をちょっと突き出し、いかにも勿体《もつたい》ぶった態度で煙草《たばこ》をふかしていた。  女はリカルドの娘、マリアだった。 「ここは十七番地だけど、警察じゃないぜ。警察はこの先の二十一番地だよ」  私はウインドーの下りているドア越しに言った。 「番地がどうしたというの?」赤いルージュを引いた唇が冷たく訊《き》いた。 「フランスでは十七をダイヤルすると警察に繋《つな》がるってことさ。君は道に迷ったんだろう?」 「私、三十分もあなたを待っていたのよ」  一時間、男を待たせても詫《わ》びひとつ言わないタイプの女に限って、男が、グラスに残っている酒を引っ掛ける時間も待てないものなのだ。 「俺《おれ》は君とデートの約束をした覚えはないけどな」私はとぼけた調子で言った。 「こんなところで話していても、仕様がないわ。早く乗って」  私は言われた通りにした。  マリアは煙草を我が街の路上にポーンと捨て、苛々《いらいら》した様子で車を出した。  車内ではニナ・ハーゲンが歌い、シャネルの十九番が匂《にお》っていた。 「あなた、フランス生まれの日本人なんですってね」マリアのフランス語はかなりうまかった。スペイン語|訛《なま》りは、無論、抜けていないが、それがかえって、耳に心地良かった。 「君の男のコレクションには、入っていないのか?」 「日本人とも付き合ったことないわ。でも、あなたみたいにオールバックが似合う男は私の趣味よ」 「どこへ行くんだ?」 「そんなこと決めてない。あなた、どこへ行きたい?」  車は南に向けて走っていた。 「君はパリの道に詳しいのか?」 「ええ。しょっちゅう来てるから、よく知ってるわ」 「じゃあ高速一〇号線に乗れよ」 「目的地は?」 「考えていないよ。ただ、この車に運動をさせてやるには、高速に乗るのが一番だと思っただけさ」  マリアはライトグレーの丈の短いダブルのジャケットに同色のパンツを穿《は》いていた。ジャケットの下にはブラジャー以外何も身に付けていないらしい。時々、盛り上がった乳房の一部がかいま見えた。 「いつも君のほうから男を誘うのか?」 「いいえ。誘うのは、いつも男のほうよ」  マリアは淡々とした口調で答えた。自分に靡《なび》かない男は、男としての機能に欠陥がある奴《やつ》とゲイと十歳以下の子供だけだと思っているらしい。 「で、男に不自由しない君が俺を誘った目的は?」 「留美子さんって、どう思う?」 「そういう聞き方をするところをみると、君は彼女をよく思っていないわけだな」 「それじゃ答えになってないわ」 「答える義務はないと思うがね」私は、調査中に必ず一度は相手の人間に言われる言葉を言った。何となく妙な気分だった。 「留美子はパパのことで、あなたを呼んだんでしょう?」 「さあ……」 「さあ、ってどういう意味よ」 「さあ、って言うのは、さあ、ってことだよ」 「私をからかうつもり」  高速に入った。フェラーリは急に速度を増した。檻《おり》から出されたチータのように颯爽《さつそう》と走って行く。  マリアは留美子のところにきた匿名の手紙の内容を知っているのだろうか? それとも、そんなものを見るまでもなく、父親の秘密を握っているのだろうか? ひょっとすると手紙を書いたのは、この女なのかもしれない。 「パパのどんなことを、留美子が探ろうとしていると思っているんだい?」 「そんなこと知るもんですか」 「いや、君は知っている。知らないにしても見当はついているんだ」 「…………」  オルリー空港の辺りを過ぎると、めっきり車の量が減った。フェラーリはスピードを上げた。もう少しで時速二百キロに近づこうとしている。 「ね、私と留美子とどっちが魅力的?」 「俺は酒も煙草もやらない女と、うまくいったためしがない」  マリアは正面を見たまま、一瞬にやりと笑った。 「あの人といると、尼さんと一緒にいるような気がするわ」 「しかし、彼女が君とは違った形の魅力を持ってることも確かだ。だから、ああいうタイプを好む男もいるはずだ。例えば、君のパパのように」 「パパが、何故《なぜ》あの女にひかれているのか、私、さっぱり理解出来ない」娘は吐き捨てるように言った。 「きっと、君のようなタイプの女と遊び過ぎたせいじゃないかな」  マリアの顔が私のほうに向いた。頬《ほお》がひきつっていた。サングラスをしていなかったら、目から火をふいていたかもしれない。 「まっすぐ前を向いて運転してくれよ」 「嫌な男ね」 「悪かったな。だが、誘《さそ》ったのは俺じゃないぜ」私は微笑《ほほえ》みながら言った。 「あなたは、いかしてるけど、笑わないほうがいいわ。格好いいと思ってやっているのかもしれないけど、似合わない」 「相手に好かれるように笑えたら、私立探偵なんかにならずに寄席《よせ》芸人になってるよ」私はまた笑った。 「まったく! あなたなんか今すぐ車から下ろして、高速を歩かしてやりたい!」  フェラーリの車体のように、マリアの顔も尖《とが》っていたが、フェラーリほど優雅でも、また迫力があるわけでもなかった。ハンドルを握っている手に力が籠《こも》っていた。  私はフィリップ・モリスに火をつけた。  短い沈黙の後、彼女の手が緩んだ。 「……女のことでしょう? 留美子、パパの浮気に気付いたのね?」 「パパは浮気しているのか?」 「とぼけるのもいい加減にしてよ」もう怒り声は出さなかった。誘うようなおだやかな言い方だった。 「私、一度、偶然見ちゃったのよ、若い女とシャンゼリゼを歩いているところを」 「それだけで、浮気をしているとは限らないだろう?」 「私、後をつけたのよ、そうしたら、ふたりはアパートに入って行ったわ。サン・ラザール駅の近くのね」 「俺は助手を探してるんだ。君、俺のところで働く気ないか?」 「頭にくる人ね! どうなのよ、その調査を頼まれたんでしょう?」眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたが、おとなしい声。 「違うよ、君には悪いがね」私はきっぱりとした口調で嘘《うそ》を言った。 「じゃ、何の調査をしているの?」 「さっきも言ったが、それは言えない」  それからしばらく、双方とも口を利《き》かなかった。私はゆっくりと煙草を吸い外の景色を見ていた。ギア・チェンジをするマリアの左手だけが、時々、苛々しているだけだった。  マリアが突然、大きな溜息《ためいき》をついた。 「どこかで一杯やらない?」 「いいね」  ちょうどシャルトルの近くまで来ていた。パリから九十キロほど来てしまったことになる。  私達は高速を下り、シャルトルの街に入った。午後五時を少し回ったところだが、夕暮までには、まだだいぶ間がある。青空は姿を消し薄い雲が空を被《おお》い、風もなかった。中世から建っている建物がたくさんあるシャルトルにはうってつけの天候だ。博物館に入った時みたいな雰囲気が街を被っている。さすがのフェラーリもすっと、その雰囲気に呑《の》み込まれそうな感じがしていた。  大聖堂のステンドグラスを見に来たらしい観光客が、二、三人ずつのグループを作り、散歩していた。彼等の動きも、どことなくのんびりしている。歴史を飛び越えて中世の僧侶《そうりよ》にでも会って来たような顔である。しかし、マリアのフェラーリを見た途端に現実に戻される者もいた。日本のカメラを首にぶら下げた、王様の僕《しもべ》という感じの男が、じっと私達のほうを目で追っていた。やはり、どんなにステンドグラスが美しくても、現実に物をいう高級車のほうが興味を引くらしい。  私達は大聖堂の近くのカフェに入った。  店は閑散としていたが、カウンターに地元の人間らしい三、四人の男がいて、マダムと雑談を交わしていた。マリアに男達の視線が集まった。美術館並に拝観料を取ったほうがいいような目付きだった。  窓際の席に座った。私はカルヴァドス、マリアはディアボロマントを注文した。 「あなたって見掛けによらず、スクエアな男なのね」マリアはサングラスを取りながら言った。ライトグリーンのアイシャドーを塗った黒い瞳《ひとみ》が笑っている。 「そんなに、留美子さんが頼んだことを知りたいのか?」 「そうよ……でも、もうあなたには聞かないわ。私立探偵って、もっと融通の利く人間だと思っていたわ」マリアはディアボロマントの緑色の液体に少し口をつけてから言った。 「君は向こうでも、車をあんなに飛ばすのか?」 「ええ。それがどうしたの?」 「で、捕まったことは?」 「ないわ」 「君の街の警官達は、融通の利く連中ばかりらしいな」私は笑いながら言った。 「そうよ。悪い?」マリアはあっさりと私の言ったことを認め、挑むような目で私を見つめた。 「いいも悪いもない。ただ、俺は、君の街では、警官になれない人間だということだ」  私はカルヴァドスを飲んだ。マリアはじっとして、外に目をやっていた。  しばし沈黙が流れた。しかし、気詰まりな雰囲気はしなかった。中世の街に相応《ふさわ》しい無色透明な沈黙だった。  私は煙草に火をつけようとした。ライターの乾いた音とともに、マリアが、こちらを見、口を開いた。 「留美子は土地の話をしてなかった? 日本の観光会社が買いたいと言ってる土地のことだけど」マリアは沈黙している間に、違う戦術を思いついたらしい。 「ちょっと聞いたよ。その交渉で親父《おやじ》さんはパリに来ているんだろう?」 「そうよ」 「それと親父さんの浮気の話と何の関係があるんだ?」 「パパの浮気を知ったら、絶対、留美子は離婚したいと言い出すに決まってるわ。私、分かるのよ。ああいう潔癖症の人は、一度でもそういうことがあると、一生相手を許せないものよ」 「君は留美子さんとパパが別れてほしいわけか」 「それもあるけど、もうそんなことはどうでもいいの。それより、パパが離婚するためには、お金がいるでしょう。そうすると、お金を作るために、土地を売るわ。私、それを待ってるの」 「君の言ってることはさっぱり分からんね。パパは金持だろう? 土地を売らなくても、そのくらいの金、何とか出来るんじゃないか……それに、何故、パパが土地を売ると君が得をするのかも分からない」 「日本の観光会社が買いたがってる土地の三分の一は私のものなのよ。パパとパパの弟アントニオ、つまり私の叔父《おじ》とが残りを持っているの。ところが、パパは何故かあの土地を売りたがらないの。パパの土地はちょうど三人の持ち分の真ん中。パパが売らないと、ゴルフ場なんて出来ないのよ。それに金持なのはパパじゃなくて、お祖父《じい》さんのホセよ」 「で、叔父さんはどうなんだ。売る気なのか?」 「ええ。売って金にしたくてうずうずしてるわ。この私も同じだけど」 「少しずつ分かってきた。つまり、パパの浮気が留美子さんに知れると、彼女は離婚を申し入れるだろう。もし離婚が成立すると、パパは慰謝料を払わなければならなくなる。お祖父さんは金持だが、パパは違う。そこで、やむなく土地を売ることになる。そうすると君と叔父さんの土地も売れ、君に大金が転がり込む」 「そういうこと」マリアは右眉《みぎまゆ》を少し吊《つ》り上げ、意味ありげに笑った。 「ところで、アントニオ叔父さんは、一体何をやってるんだ?」 「パパの会社の副社長で他にカジノを経営してるわ」 「何故、そんなに手広くやっているのに土地を売ってまで金を欲しがるんだ」 「よくは知らないけど、パパと同様、アントニオ自身もそんなに金は持ってないの」 「皆、お祖父さんのホセが牛耳ってる?」 「そうよ。それにアントニオの場合は、うちのパパにだって頭が上がらないの。カジノの帳簿はパパの部下が見てるのよ。それが条件で、お祖父さんは、アントニオに金を出したんですもの」 「相当に信用がないらしいな、君の叔父さんは」 「何せ遊び好きだから、しようがないわよ」 「君と同じか」  マリアは、ふん、と鼻をならして、そっぽを向いた。私はその顔を見てただ笑っていた。 「あなた、私に雇われない?」こちらに向きなおったマリアが、商売女が男を誘惑するような目付きで訊いた。 「御免だね」 「金は幾らでも払うわよ」 「で、俺に何をしてもらいたいんだ?」 「パパの浮気の証拠をつかんでほしいの。留美子があなたに何を頼んだのか聞き出すよりも、こっちのほうが手っ取り早いでしょう」 「君は留美子さんだけではなく、パパも憎んでいるらしいな」 「憎んじゃいけない?」 「好きにするさ。俺には関係ない」 「あの女と一緒になってから、パパは私なんかほったらかしだったのよ、いつもあいつ、いちゃついててさ」マリアは、吐き捨てるように言った。 「もし、土地が売れて金が入ったら、どうするんだ?」 「街を出るわ。マドリードに行こうと思ってる。あそこで商売でもやろうかと思ってるの」 「商売って、何をやるつもりなんだ」 「そんなことまだ決めてないわ」 「君が客に�グラシアス�なんて言っている姿は、君が乳母車を押している姿と同じくらい想像しにくいことだな」 「グラシアス、なんて使用人に言わせるわ」 「フェラーリを乗り回し、スピード違反で捕まったら、警官にウインクし、親父夫婦を恨みながら、お祖父ちゃんの金を使い、マッチョの熊《くま》みたいな手に尻《しり》を撫《な》でられているほうが君にはお似合いだぜ」 「畜生!! 人を馬鹿にして!!」  マリアはいきなり立ち上がった。テーブルが揺《ゆ》れ、ディアボロマントの入ったグラスが倒れた。グラスは割れなかったが、緑色の液体が零《こぼ》れた。マリアの細められた目、まっ赤な耳、への字に曲がった唇、怒った肩、鼓動の動きを的確にとらえた胸が私の前に立ちはだかった。しかし、それは一瞬のことだった。マリアは風を切ってカフェから出ていった。  ただの男と女の喧嘩《けんか》も、端《はた》から見れば、痴話喧嘩に見える。そして、常に痴話喧嘩は、観客を楽しませるものだ。カウンターに居た男達が私とマリアの後ろ姿を交互に見て、にやにやしていた。  マリアは、こちらを振り向きもせず、フェラーリに乗り、爆音を残して中世の街から姿を消してしまった。私はパリから九十キロも離れた場所にひとりで残されてしまったわけだ。だが、何故だか腹は立たなかった。  再びカフェに静けさが戻った。金を払う時、私はマダムに国鉄の駅の場所を訊《たず》ねた。酒焼けした頬《ほお》を緩《ゆる》ませ、眉をへの字にしてマダムは教えてくれた。  行きはフェラーリで帰りは電車。カウンターの客達は、一時間ほどの間に株が暴落し、金持から一文無しに転落した男を見るような、ざまあ、みろ! という目付きで私を見ていた。  車中、私の隣の席には、ひどい匂いの香水をつけた老婆が座っていて、私に話しかけてきた。同じアパートに住む、アラブ人の寝言のせいで、自分は毎日、寝不足なのだと老婆は言い、長々と、その男と寝不足の話をした。どこが寝不足なのか分からないくらい、目はぱっちりと開かれ、欠伸《あくび》ひとつしなかった。欠伸をしたかったのは私のほうだったが、噛《か》み殺していた。口の中に安香水の匂いがまとわりつきそうな気がしたのだ。なにはともあれ、来る時は天国だった、と車中ずっと思っていた。  6  事務所に戻った時は七時半を過ぎていた。  ドアを開けると、クマが擦り寄って来た。クマの顔を見た途端、マリアの車の中に、レコードとクマの餌《えさ》を忘れてきたのを思い出した。この時間ではもうスーパーは閉まっている。  私は上着を脱ぐとすぐにキッチンへ行き、冷蔵庫を覗《のぞ》いた。無論、クマも私について来た。トマトファーシーを作ろうと思って買っておいた挽肉《ひきにく》がある。  私はクマの顔を見た。クマは流しの下の戸棚に前脚をつき、背伸びをするような格好で私を見ていた。きょとんとした目。 「分かったよ、クマ。トマトファーシーは今度にするよ」  クマ用のボールに挽肉を入れてやった。喉《のど》をならして餌に食いついているクマを見ていたら、猛烈に腹が空《す》いてきた。  私は、留守番電話のテープを聞いてから、近くのレストランに出掛けることにした。  登録されていたメッセージは一本で、留美子・サンチェスが午後三時過ぎに掛けて来たものだった。 「……お帰りになり次第、すぐにお電話を下さい。重要な話があります……」  留美子は、胃袋が空の時に話して愉快な相手ではない。何故《なぜ》だか分からないがそう思った。しかし、留美子の元気のない声が、やはり気になり受話器を取った。 「どうしたんですか?」 「モデルの住所は分かりました?」 「ええ」 「リカルドがそこに行っている可能性があります」 「でも、今夜はそこで夕食をとるはずだったんじゃないですか?」 「ところが、午後、どこからか電話が入り、急に予定を変更したのです。明日の朝、ニューヨークに発《た》つ大事なお客に会わなければならなくなったと申しまして……」 「御主人は何時頃に出掛けたのですか?」 「六時頃です。突然で申し訳ないのですが、女のアパートを見張ってはくれませんか?」 「やはり、外出は車で?」 「ええ。プジョー505です。鈴切さん、きっと主人は、その女のところにいると思います。調べてみて下さい」  私は、車の中でサンドイッチをぱくつき、冷えていないビールを飲む自分の姿を想像しながら承諾した。  事務所を出て二十分ほどでポルタリ通りに着いた。途中、オペラ座の近くでツナサンド二袋とコーラを買った。ビールを買う暇はなかったのだ。  ポルタリ通りには街路灯はなかった。代わりに、建物の壁に照明灯が取り付けられていて、石畳の通りに青白い光を投げかけていた。午後に来た時と同様、人気《ひとけ》はなく、死んだような雰囲気が漂っていた。  私は、まずリカルドの車を探した。白いプジョー505は、脇田典子のアパートを十メートルばかり通り過ごしたところに停《と》まっていた。リカルドは、匿名の手紙に書いてあった通りのことをしているらしい。  私は、車を、脇田のアパートがよく見える反対側の歩道のわきに停め、アパートの中に入った。念のために、部屋の中の様子をドア越しにでも探ってみたいと思ったのだ。  五階には三つのドアがあった。エレベーターと階段の正面が五〇二だった。その部屋を中心にして左右に三メートルばかりの廊下がある。私はまず左端のドアの番号を見に行った。そこは五〇三だった。私が踵《きびす》を返そうとした時、右端のドアが開いた。私は思わず、また五〇三のほうに向きなおった。相手がリカルドだったら、まずい。思ったことはそれだけだった。板張りの床《ゆか》にかなり慌てている足音が響き、やがて、階段を大股《おおまた》で上がって行く音に変わった。私はすぐに階段の手すりのところまで駆け寄り、上を見た。鍵《かぎ》が開く音がした。滑り止めのために段の中央に敷かれている絨毯《じゆうたん》の上を、音を立てないように気をつけながら、私も上に登った。ちょうど、左奥のドアが閉まるところだった。  私は、再び五階に下りた。その時、刈谷雄司が私を襲った時と同じように、廊下の電気が切れた。五〇一のドアは半開きになっていた。室内の電気はつけっ放しだ。暗闇《くらやみ》に五〇一の室内の一部が間接照明の光を受けて、淡く浮かび上がっていた。白っぽい感じのソファーのサイドが見えた。その上に載っているものが私の興味をそそった。黒い靴下を穿《は》いた足が二本、こちらに足の裏を見せていたのだ。  私は部屋に入り、ドアを閉めた。短い廊下の向こうがリビングだった。  足の持ち主はリカルドだった。ケーブルストライプの白いシャツにブルーのタイ。人がよく本を読む時にそうするように、ソファーに寝そべり、脚を肘掛《ひじか》けに載せていたのだ。だが、リカルドは本など読める状態ではなかった。心臓の辺りに二発、弾をぶち込まれ、死んでいた。死んでまだ、そんなに時間は経《た》っていないようだ。  私はリカルドから目を離し、部屋全体を見回した。  白い天井。白いブラインド。白いソファー。白いカバーの掛かった椅子《いす》。白い大きな壺《つぼ》。白い電話機。絨毯は、グレーがかった白で、壁は薄く青みがかった白だった。メタル・グレーのステレオ、テレビ、それに淡いベージュのサイドテーブルと背の低いガラス張りの大きなテーブルがあるだけで、普通のサラリーマン家庭が、通信販売のカタログで選ぶような�ルイ十五世風�の家具などは全く見当たらないし、殺伐とした夫婦関係や親子関係を慰めてくれるペットも観葉植物の類《たぐい》もなかった。まさに、インテリア雑誌に出ているリビングそのものだった。リカルドの胸を伝って流れ出た血ですら、こんな部屋で見ると、単なる赤インクとしか思えなかった。  リビングの奥に白い大きな引き戸があった。開けてみた。中に入った。そこはベッドルームだった。やはり白が基調になっていた。ベッドカバーが定規で測ったように寸分の乱れもなく掛かっている。壁に大きな姿見。その姿見にサイドボードが映っていた。整然としたリビングを乱していたのがリカルドの死体ならば、ベッドルームに人間の居た痕跡《こんせき》を残しているのはそのサイドボードだった。すべての引き出しが開けられていたのだ。ボードの上に宝石箱が載《の》っていたが中は空だった。  ナイトテーブルの上の二つの写真立てに目が止まった。そのひとつの中で、リカルドが枠からはみ出しそうな笑顔を浮かべていた。遺影にもってこいの写真だ。  もうひとつの写真立ての中では、午後、この通りで出合った女が控え目に微笑《ほほえ》んでいた。女はゴールドとホワイトゴールドを交互に繋《つな》げたネックレスをしていた。  私はリビングに戻った。ブラインドの下りた窓際の椅子に男物のジャケットが掛けてあった。私はポケットを探った。  内ポケットからアンドリュー・グリマで統一された財布とカードケース、それに手帳が出てきた。思った通り、カードも現金も姿を消していた。手帳には、予定がびっしりと書かれていたが、今日のところには何も書かれていなかった。末尾のアドレスの欄に載っている名前で、私が知っているものは東西リクレーションだけだった。  表のポケットには、ハンカチとキーホルダー、それに、鍵が一個入っていた。他の鍵と一緒にキーホルダーに繋ぐことの出来ない鍵は、戸籍に入れられない愛人宅のものに違いない。鍵の表面はにちゃにちゃしていた。セロテープか何かで、どこかに張ってあったらしい。  私は出した物をもとに戻した。その時、手帳の間から、雑誌を切り抜いたような文字がふたつ落ちた。 �W�と�E�。  私はそれをポケットに仕舞い、部屋を出た。そして、六階に上がって行った。先程、脇田典子の部屋から、慌てて出て来た人物の顔を拝んでみたいと思ったのだ。  六階は、いわゆる屋根裏部屋が集まっている階だった。ドアも五階のものより幾分、小ぶりで、厚さも薄いようだ。  目的の部屋は六〇五号室。表札は出ていない。B・B・キングのブルースがドアの向こうから聞こえている。私はドアに耳をつけて中の様子を窺《うかが》った。板張りの床の歩く音とともに、B・B・キングに合わせてハミングしている男の声が聞こえた。  ノックをした。B・B・キングは歌い続けていたが、ドアが開く気配はなかった。もう一度、強く叩《たた》いてみる。  チェーンを掛けたまま、ドアが開いた。  小柄で痩《や》せた男だった。少々、猫背気味。ドアの隙間《すきま》ほど、開いている鼻。大きな鉛色の唇の間から酒臭い息が匂《にお》った。その鼻で吸い込まれ、酒臭い息とともに吐き出されたら、アフリカ大陸まで飛んで行きそうな気がした。男は黒人だった。  とろんとしたぎょろ目が私の頭からつま先までをゆっくりと舐《な》め回すように見ていた。 「何の用だ?」 「俺《おれ》は五〇一の女の友人だ」 「それがどう俺と関係があるんだ?」  男は黄色い歯を出して笑った。 「俺を中に入れるか、俺を警察に行かせるか、決めるのはあんただぜ」  黒光りしているオデコに三本|皺《しわ》を寄せ、何とも情けない顔をした。だが、口は開かなかった。 「答えは分かったよ。せいぜい遠くまでずらかんなよ。強盗殺人で捕まると二度とライオンとも象とも遊べないぜ。檻《おり》に入るのは動物ではなく、あんただからな」  私は後ろを振り向かず一歩下がった。  一旦《いつたん》、ドアが閉まり、すぐに開いた。 「入れよ」男は面長のナスビのような形の顔を部屋の方に向けた。  廊下も何もない一間だった。ベッドの端にキャンピングガスと冷蔵庫があり、その横にフライパンや鍋《なべ》が吊《つ》り下がっていた。窓際に小さなボックスがあり、そのドアが開いていた。後で取りつけられたシャワールーム兼トイレ兼炊事場である。その回りの壁は湿気におかされひびだらけだった。ベッドのわきの床にラジカセが置いてあり、壁にアコースティックギターが立て掛けてあった。  五階と六階では、天国と地獄の差がある。物理的には六階のほうが天国に近いのだが、法則通りにならないのが人の世であるらしい。相変わらずB・B・キングが歌っている。曲は�NO MONEY NO LUCK�。  黒人は窓際のスチームに腰掛け、横に置いてあったビールを飲んだ。 「あんたもやるかい?」黒人はまたにっと笑った。  私は、黙って首を横に振った。  何故だか分からないが、こいつがリカルドを殺《や》ったとは思えなかった。しかし、手のうちを先に見せる必要はない。 「リカルドを何故殺った?」私は凄味《すごみ》を利かせて訊《き》いた。 「俺は殺しなんかやらねえよ。あいつの名前さえ知らなかった」  私はまた黙って首を横に振った。 「本当だってばよ。俺があそこに入った時は、もうおっちんじゃってたんだ」黒人は目をさらに丸くして、両肩を竦《すく》めた。そして、今度は、そうはしたくないのに無理矢理そうしたという感じで私に笑いかけてきた。 「あんたの名前は?」 「モンゴ。……な、信じてくれよ。俺、人を殺す顔してねえだろう? 俺は平和主義者なんだ。暴力は俺の性に合わねえんだ」 「ハイエナみたいに死体を漁《あさ》るのは性に合ってるのか」 「どうせ例えるなら、クロマルコガネとでも言ってもらいたいな」 「何だ、それは?」 「死体に群がってくる美しいコガネムシだよ。俺みたいに黒くて、こうボディーが引き締まってるんだ」モンゴは胸を張り、上半身を右手で撫《な》でた。 「平和主義者のあんたが、五〇一に、極めて平和的に盗みに入る。合鍵か何かを使ってな。部屋を物色している最中に男が入って来て、あんたを捕《つか》まえようとする。普段、おとなしい熊《くま》も、襲われれば逆襲する。バーン、バーン、あんたは、護身用の拳銃《けんじゆう》で、男を撃つ。ありうることだろう?」 「あんた一体、何者だい? デカじゃなさそうだし……」 「私立探偵。名前はスズキリ」 「ちえ、妙な野郎に睨《にら》まれたもんだな、ついてないぜ。ちょっと出来心で盗みをやっただけなのに……」モンゴはベッドに腰を下ろした。 「あんた煙草《たばこ》、持ってるか?」  私は自分の分を一本先に抜き取り、パッケージをベッドの上に投げた。  モンゴは煙草に火をつけ、鼻からゆっくり煙を出した。 「見逃してくれよ、探偵さん。本当に殺しはやっちゃいないんだってば」眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて真剣な口調で言った。  私も煙草に火をつけ、入り口の近くにあった椅子に腰を下ろした。  モンゴは上目遣いで私の反応を窺っている。その顔つきからはもう真剣な表情は消えていた。庭木の枝を折り、叱《しか》られた子供が、親の顔色を窺っているのに似ていた。モンゴにとって、盗みは、いつまでたっても木の枝を折る程度のことでしかないようだ。 「事情を話してみろ」 「話したら、目を瞑《つむ》ってくれるかい?」 「俺に条件をつけるな。まず、話してみろ」 「男をやったのは、あの女だぜ」 「あの女って脇田典子のことか」 「確か、そんな名前だった。ともかく、あのえらくイカした女がやったのさ」モンゴはまた煙を鼻から出し、ベッドの下からコカ・コーラのマーク入りの灰皿を出した。その灰皿には、マクドナルドで使われているようなストローが載っていた。  どうやらモンゴはコカインをやっているらしい。 「で、何故、あの女がやったと思うんだ。目撃したのか?」 「撃つところは見なかったが、あの女が血相を変えて、部屋を飛び出してくるところは見たぜ。ちょうど、俺が階段を降りてきた時、部屋から駆け出して来たんだ。カモシカみたいなアンヨがふらふらしてたっけ。女はエレベーターを使わずに、下に降りて行った。俺は、何気なく部屋のほうを見たんだ」 「そうしたら、ドアが開いていた」  モンゴは大きく頷《うなず》き、「俺は、一旦一階まで降りて、女が出て行ったことを確認してから、五〇一に入ったんだ。普段から、派手な暮らしをしているようだったから、金目の物があると睨んだのさ」 「で、宝石を失敬し、男の上着から現金とカードを抜き取ったんだな」 「ああ。でも、俺、部屋に入った時は、おったまげたぜ。男が撃たれて倒れてるんだからな。俺、血を見るのが、ダメなんだよ」モンゴは顔を歪《ゆが》めて、ホールドアップにあった時のように、両手を顔の辺りまで上げた。 「死んでいた男に、以前会ったことはないか?」 「何度か、あの女のところに来ていた男だよ」 「ノゾキもやるのか、モンゴ」 「冗談はよしてくれ。表とかエレベーターで一緒になったことがあるだけさ。あれだけの女だろう、毎日、朝立ちがある男なら、誰だって、一度はお付き合い願いたいと思うのが人情だぜ。だから、よく覚えてるのさ」 「さて、出してもらおうか?」 「何を?」モンゴは目をぱちくりさせている。 「決まってるじゃないか。盗んだ物だよ」 「それはないぜ。何の調査をやってるのか知らないが、殺しの犯人を、あんたに教えてやったのは、この俺だぜ。�私立探偵、ポルタリ通りの殺害犯人を挙げる!�。いい宣伝になるよぉ。客がわんさか来て、ビルが一軒建つかもしれないぜ。サツだって、重要な情報を提供すると、小さな悪さには目を瞑《つむ》ってくれるよ」 「じゃ、警察に話しに行きなよ。なんなら、俺が連れてってやろうか?」  モンゴは何度も首を横に振りながら、立ち上がり、トイレに入った。そして、すぐに水滴のしたたるビニール袋を持って戻って来た。 「それで全部じゃないだろう? 金とカードも出せよ」  ビニール袋をベッドの上に放り投げ、床の隅に置いてあるカセットテープ入れを手に取った。そして、ボブ・マーレイのカセットを開け、ベッドの上で振った。クレジットカードが五、六枚、パラパラと散った。金は緑色のハンカチに包まれて、枕《まくら》の下から出て来た。  私はベッドの端に移動し、ビニール袋を開け、ハンカチを使って宝石を調べた。  高価な物と安物が混じっていたが量が少ない。 「まだあるだろう?」私は、モンゴを睨んだ。 「これだけさ、本当だよ」 「世話を焼かせるな。早く出せ」 「…………」  今度は、洗濯物を入れた袋の奥から赤いスカーフにくるんだ塊が現れた。それも調べてみた。二箇所から出て来た宝石の量を合わせると、あの宝石箱に入りきれないほどあった。量はこんなものだろう。 「これだけか?」私は念を押した。 「ああ、もうないよ」  私はモンゴの言葉を信じた。宝石はふたつに分けられていたが、何かの基準があってそうなっているわけではなかった。値打にも種類にも依《よ》っていないのだ。ただ、半分ずつに分けたというだけだった。金は六千フランとちょっとあった。 「上着のポケットを探った時、手紙のようなものは出て来なかったか?」 「知らねえな、そんなもの」黒人はそっけなく答えた。  私は、モンゴの盗んだ物を全部、洗濯物の入っていたビニール袋に入れ、彼に渡した。 「へーえ、俺に返してくれるのかい?」黒人は顔をふたつに割ってにっこりとした。 「違うよ。元の場所に返して来い、という意味だ」 「ば、ばか言うんじゃないぜ。また、あの死体の転がっている部屋に入れってのかい。サツが来ていたらどうするんだよ。御免だよ、俺は。返したければ、あんたが行けよ」モンゴは上っ調子の声で抗弁した。  私は電話機を黙って取り、脇田典子の番号を回した。二十回鳴らしたが誰も出なかった。 「今なら返せる。殺しの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられたくなかったら、返して来い」 「……ひとりじゃ嫌だよ。あんたも一緒に来てくれ」 「分かった。あんたが、途中で猫ババしないようについて行ってやる」私は苦笑し立ち上がった。  モンゴは革手袋を出し、それをジーンズのポケットに入れた。  五階には人の気配はなかった。五〇一号室に入る。  リカルドは以前のままの姿で横たわっていた。こころなしか皮膚の色が変化したかもしれないが、気のせいかもしれない。  モンゴは死体のほうを見ないようにして寝室に入った。 「何で、こんな運命になっちまったのかね、神様」  そう言いながら、モンゴは手袋を嵌《は》めた手で、袋の中の宝石を元に戻した。その手付きは、司教が信者に聖水をかけるのに似ていた。 「宝石箱はどこにあったんだ」 「二番目の引き出し」 「元に戻しておけ」 「せっかく、チャンスが舞い込んだと思ったのによ」愚痴りながらモンゴは私の命令に従った。  金とカードをリカルドの上着のポケットに入れた私達は、部屋を出た。  私はモンゴの後について、再び六階に上がった。彼は、私がついて来ることを不思議とも、嫌だとも思わないのか、何も言わなかった。むしろ、一仕事を一緒に終えた仲間とでも錯覚しているようで、部屋に入るとビールを飲もうと私を誘った。 「モンゴ、五〇一の女が部屋から飛び出してくるのを見たのは何時頃だい?」 「八時ちょっと前だよ」 「拳銃の発射音なんかは聞かなかったのか?」 「聞かなかったな」モンゴはビールを一気に空《あ》けてから答え、「探偵さんよ、あんた何を調査しているんだい?」 「もう調査は終わったよ」  尾行するはずの相手が死んでしまったのでは仕事にはならないのである。しかし、そのことはモンゴには言わなかった。 「あんたはマリ人かい?」私は訊いた。 「いや、俺はヤウンデから来たんだ」 「ということはカメルーン人ってわけだな」 「ああ。もう少しパリは暮らしやすいところだと思ったんだが、間違いだったよ。俺ははっきり言って、フランス人は好きになれない。あんたはどうだ?」 「好きも嫌いもない。俺はここで生まれたんだ」 「でも、あんたは……?」 「俺がフランス人の顔をしていない、ってことか?」  モンゴは黙って頷《うなず》いた。 「俺は日本人だよ」 「日本人も好かないな。黄色い西洋人だからな」 「好きじゃなきゃ無理に好きになることはないよ」 「でも、あんたは気にいったぜ、何となく」モンゴは黄色い歯を見せてにっと笑った。 「俺、あんたの助手にしてくれよ」 「血を見て卒倒するようじゃ雇えない」 「じゃ、肉屋にでも勤めて、血に慣れたら雇ってくれるかい?」 「そうなったら、考えてみよう。しかし、黄色い西洋人に使われてもいいと思うところをみると、あんたは失業中だな」 「御明察。地下鉄工事とか、街の清掃とかやって食い繋いでいるんだ。でも、それまでは、或《あ》る黒人バンドでギター弾いてたんだよ。ところがさ、グループのリーダーと大喧嘩《おおげんか》しちまって、それで、この様《ざま》よ」  モンゴはギターを手に取り、ブルースの触りを弾いた。アンプに繋がれていないアコースティックギターで弾くブルースは、余計に悲しい感じがした。発散する場のないひ弱な音。この黒人もアンプさえあれば、結構やれるのかもしれないと思った。  私は立ち上がりざまに言った。 「あんたの鼻の穴の大きさだと、コークの量も人の倍はいるんじゃないのか?」 「何故、分かった?」 「そのストローが本物のコークじゃないコークも吸い上げるのは有名な話じゃないか」私は、灰皿の横に置いてあったストローを見ながら言った。 「俺の楽しみはあれしかないんだよ、ほっといてくれ」 「ほっとくさ」  今のモンゴはコカインにしか接続できないのだ。好きにするさ。私は自分の名刺をベッドの上に放り投げ、何かあったら連絡してくれ、と言い残し部屋を出た。  車を出そうとした時、助手席に置いてあったツナサンドの包みとコーラが目に止まった。無論、もう車中で食事をする必要はなくなっていた。  私は、深夜まで営業しているキャプシーヌ大通りに面したレストラン�グラン・カフェ�で魚料理を食べた。  食事をとりながら、リカルドの手帳の間から出てきた、文字のことを考えた。リカルドも、匿名の手紙を貰《もら》っていたらしい。私のポケットに入っているのは、その手紙から剥《は》がれた�W�と�E�。おそらく間違いない。私は、�E�のほうはさておき、�W�が気になった。  その手紙がフランス語で書かれたにしろ、スペイン語で書かれたにしろ、�W�の入っている言葉は極端に少ない。ということは、WAKITAの�W�と考えるのが一番妥当な推理である。  しかし妙だ。リカルド宛《あて》の手紙は切り抜いた文字が使用されていて、留美子の貰った手紙はタイプされていた。それぞれ違った人間が発送したということだろうか?  私は白ワインを一本空け、警察に電話でポルタリ通りの殺人事件を知らせ、帰宅した。  部屋に入ってすぐに、電話が鳴った。だが、私は受話器を取らずに、机の一番下の引き出しに入れた。  相手が誰だか察しがつく。今夜は留美子・サンチェスとしゃべらないほうがお互いのためなのだ。  7  ドアベルが鳴り続けている。枕元《まくらもと》の置き時計は九時四分前を指し、ベッドの端で丸まっているクマは、夢心地で眠っていた。  相手に愛想笑いが出来るかどうか考えてみた。到底出来そうになかった。  しかし、しつこいベルだ。時間から考えて依頼人のはずはない。可能性は五分五分、留美子・サンチェスか警察である。  あと三回鳴ったら出ようと決めて、毛布を被《かぶ》ったままじっとしていた。  一回、二回、そして、ちょっと間をおいて二回たて続けに鳴った。  私は上半身、裸のまま、スリッパも引っ掛けずに事務所に行き、ドアを開けた。 「お休み中、申し訳ないのだが……」と相手は言い、言葉を切った。そして、にやっと笑い、「君だったのか……」と呟《つぶや》くように言った。  その男の隣に、顔を両側から押さえたような頬《ほお》をした小柄な若者が立っていた。若者は、大きな目で私と男を交互に見ていた。何にでも興味を示す子猫のような目。 「まあ、お入りなさい」  私は、ドアを大きく開き、ふたりを中に通した。  私に声を掛けた男が客用の肘掛《ひじか》け椅子《いす》の前に立ち、事務所を見回すと若者も同じ仕種《しぐさ》をした。 「コーヒーは如何《いかが》です? 僕はコーヒーを飲まないと、自分の母親の名前も忘れてしまうんです」 「頂くよ」  私は奥のキッチンへ行き、フィリップスのコーヒーメーカーに豆と水を入れ、スイッチをオンにした。大きさのわりには騒音が凄《すご》い。私はコーヒーが沸く間に歯を磨き、髭《ひげ》を剃《そ》った。  男の名前を私は知らない。だが、彼が射撃の名手だということだけは知っている。私は時々、イタリア広場に近いジャンヌ・ダルク通りにある銃砲店に出掛ける。その地下が射撃練習場になっているのだ。男とは、そこで四、五回あったことがある。いつもマニューリン38スペシャルで撃っている。一度、自分のターゲットを見るために取りつけられている望遠鏡で、彼のターゲットを覗《のぞ》いてみたことがあるのだが、その腕たるや、鷹《たか》が空中から獲物をとらえるのに等しいくらい凄《すご》かった。  しかし、射撃のうまさだけのせいで、印象に残っていたのではない。その射撃練習場に屯《たむろ》している連中は、大概、マッチョタイプの、パリが戦場になることばかり夢みているか、アルジェリア独立に、武力をもって反対した極右集団OASを懐かしんでいるような男達ばかりなのだが、彼は違っていた。柔和で冷静で、仕種もスマートだった。  コヨーテと荒くれ者しかいない西部の街に、東部からやって来た男。腕と度胸だけではなく人徳も兼ね備えた保安官という感じなのである。  私は、ジーンズにシャツを引っ掛け、出来上がったコーヒーを彼等の前に並べ、自分の椅子に座った。 「さて、朝っぱらから警察のおでましとは、一体どうしたんです?」私は、コーヒーに口をつけ、煙草《たばこ》に火をつけながら訊《き》いた。 「警察が来るのを予知していたみたいな言い方だね」鋭いがどことなく人好きのする目が笑っている。  細長い顔で、髪は短いブルネット。目と眉毛《まゆげ》の間が極端に狭く、せり出した骨のせいで、瞼《まぶた》が存在していないように見える。そして、立派な口髭《くちひげ》のせいで上唇もあるのかないのか分からない。眉間《みけん》と目尻《めじり》に皺《しわ》が曲線を描き、余計な肉のついていない頬《ほお》には不精髭が残っていた。地味な縦縞《たてじま》のスーツに黒っぽいタイをしている。私は改めて彼の胸に保安官のバッジがついているところを想像してみた。あまりにもピッタリなので、思わず顔を綻《ほころ》ばせてしまった。 「何が可笑《おか》しいのかね?」  男は、皿ごと手に持ちコーヒーを少し啜《すす》った。 「いや、あなたを見ていると、西部の保安官を想像してしまうんですよ。あなたほど銀のバッジが似合う警官はフランスにいないんじゃないかな」 「君の言ってることは、よく分からんね」男はそっけない返事を返し、先程の質問をもう一度繰り返した。 「警官が来るなんて想像もしていなかったんですよ。男ふたりが、こんな時間につるんでやってくるとなると、刑事しかいないんじゃありませんか。それに、あなたの使ってる拳銃《けんじゆう》は、よく警官が持っているものですよ。お名前を聞かせていただけますか、刑事さん?」 「失礼。私はゴデック警視。彼はジャノ刑事だ。まさか、君だと思わなかったものだから、驚いてしまって、つい言い忘れてしまったんだよ」 「私はスズキリ、シンゴ・スズキリ。もう私のことは調べてあるでしょうから、自己紹介は必要なかったかな?」 「よく、顔を見とけよ、アルベール。こちらは、一筋縄では行かない私立探偵なんだよ。こっちらさんは」とゴデックは、ジャノをちらっと見て言った。 「はい、警視」ジャノは素直に、はきはきと答えた。 「ジャノ君は、刑事になりたてなんだ。ひとつ勉強させてやろうと思って連れて来たんだ」 「しかし、私立探偵研究のための実習トレーニングに来たわけじゃないでしょう、シェリフ?」私は二杯目のコーヒーを注《つ》ぎながら訊いた。 「君は留美子・サンチェスから夫の尾行を頼まれたそうだね」 「ええ。それが何か?」私は淡々と答えた。 「死んだよ」 「サンチェス夫人が?」 「いや、夫のほうだ」 「いつ?」私の口から煙草の煙がゆるりと上がった。 「昨夜、殺されたんだ。二十二口径の拳銃で射殺された。君は、昨夜、ノリコ・ワキタというモデルのアパートを張っていたという話じゃないか。それとも、依頼人にそう言ったが、どこかで女とよろしくやっていたのかね?」 「行きましたよ。リカルド、つまりサンチェス氏の車がアパートの表に停《と》まっていた。俺《おれ》は食事もせずに、ずっと見張っていたが、ついに出て来なかった。きっと泊まりだろうと思い引き揚げましたがね」 「何時から何時まで見張っていたのかね?」 「えーと、八時少し過ぎた頃から十時過ぎまでです」 「それから、どうしたのかね?」 「食事をして帰りましたよ」 「依頼人には、調査報告はしなかった?」 「今日になってすればいいと思いましてね。夜遅く、報告して依頼人の睡眠を妨げることはないでしょう?」 「夫が浮気をしているかどうか、気を揉《も》んでいる妻が十時過ぎからベッドに入ると思うかね」ゴデックはぐっと顔を私のほうに近づけて訊いた。目から優しさが消え、射撃場でターゲットに狙《ねら》いをつけている時の目付きになった。私は鷹に狙われた小鼠《こねずみ》というところらしい。 「一体、何が気に喰《く》わないんですか。ゴデック警視? 俺《おれ》が殺《や》ったとでも?」 「いや、君が犯人だとは考えておらんよ」 「分かりませんよ。俺が依頼人から金をもらい、ズドーンなんてことだって客観的に考えればありうるじゃないですか?」私は冗談めいた口調で言った。 「君のことは調べさせてもらったよ。誠実な探偵。しかし、警察に協力するのは趣味に合わない。違法と分かっていても、独自に調査をするタイプ。金を貰《もら》って殺し屋を引き受けるとは考えられんね」 「じゃ、何が……」 「君のようなきちんとした探偵は、普通、調査の内容をすぐに依頼人に知らせるものだ、何か変わった事情がない限りはね」  ジャノは、私達の会話を一言|洩《も》らさず、書き取っていた。おそらく、速記の技術を持っているのだろう。整理能力に秀で、それなりに頭もいいのだが、想像力に乏しい男のように思えた。  私は煙草を消し、椅子に寄りかかってから口を開いた。 「警視。俺はサンチェスの浮気の現場を押さえたわけではないが、ほぼ間違いなく、彼がモデルの女のアパートにいることだけはつかんだ。離婚のネタを探しているわけではなかった妻に、悲観的な成り行きを報告するのなら、直《じか》に会って話したかった。身の上相談係を引き受けるのが嫌で、なるべく浮気調査は引き受けない。だが、一旦《いつたん》金をもらった以上は、愚痴のひとつやふたつは聞くつもりでいるんですよ」  私の言ったことは本当だった。半分は。だが残りの半分は嘘《うそ》。もし、警察より先に、リカルドの死を留美子に知らせたとする。そうすると、警官の尋問を受けた際、どうしても留美子の態度が不自然になり、痛くもない腹を探られたりする。警察に疑われずに、驚いてみせたりすることが出来る人間は、取り調べ室が第二の故郷みたいになっている奴《やつ》か、私のように、守るものが何もない人間だけなのだ。ともかく、留美子が不自然な態度を取らないためには、私が黙っていることだと判断したのだ。それに、私としても第一発見者が私だということも隠しておきたかったのである。  私の処置は正しかったと改めて思った。この冷静沈着な警視は、ウソ発見機より正確に容疑者や参考人の心臓の動きをキャッチしそうだから。  上品な手付きでカップを持ち、ゆっくりと味わうようにコーヒーを飲み終えたゴデックは、口髭を二度|撫《な》でた。 「筋の通った嘘をつく奴が一番手ごわい相手なんだ。まさに君は、そういう男らしいな。ジャノにはいい勉強になるよ」  ジャノはメモ帳から丸い顔を上げ、丸い目を私に向けた。勉強の成果は、早くてもゴデックが引退する頃にしか現れないような気がした。  そのことにゴデックも気付いているらしい。皮肉な目で新米刑事をちらっと見、苦笑した。 「警視、俺が昨夜のうちに依頼人に報告しなかったのが、何故《なぜ》、そんなに気になるのですか?」 「道理に合わないと思えることは、一応、疑ってみることにしているんだ。君の言っていることは本当かもしれんが、我々のところに匿名電話があったものでね……」ゴデックの目の奥がきらっと光った。 「よかったら初めから話して下さいよ。犯行現場はどこで、死亡推定時刻は?」 「アルベール。話してやってくれ」  ジャノ刑事は、一瞬ゴデックを見た。参考人にべらべらしゃべってはいけないと、学校で習いましたが、とでも言いたげな目付きだった。  ゴデック警視は、ジャノを見てにやっと笑い、大きく首を縦に振った。  ジャノは顔に似合わない甲高い声で、メモを読み上げた。 「犯行現場はパリ八区、ポルタリ通りにあるノリコ・ワキタ、女性二十四歳の居間。死亡推定時刻は、昨夜の午後六時半から八時くらいの間。被害者は二十二口径の拳銃で、至近距離から、心臓を二発撃たれ、即死。現場には争った跡はなし。現金、貴金属はそのまま。顔見知りの犯行の可能性強し。なお、ノリコ・ワキタの職業はモデル。現在、行方《ゆくえ》不明。被害者のリカルド・サンチェスは四十六歳、職業は……」 「もういい。ありがとう」ゴデック警視が左腕を軽く上げて言った。 「じゃ、僕が現場に行く前に殺されていた可能性が強いわけですね」 「君は何も見ていないんだね」 「いいえ、何も……」  電話のベルがくぐもった音でなった。私は、一番下の引き出しから電話を取り出し、受話器を取った。  相手はリカルドの秘書、ミゲル・寺本だった。彼が、事情を説明しようとしたので、今、警察が来ていて、話を聞いているところだ、と答えた。 「……そうですか。それでは、警察が帰り次第、こちらにいらっしゃっていただけませんか、奥様が、鈴切さんにお会いしたいそうで」ミゲル・寺本は、落ち着き払った調子で言った。 「彼女は大丈夫か?」 「昨晩は、かなり興奮なさっていましたが、睡眠薬のおかげで、今はぐっすりお休みです。もうしばらくすると、お目覚めになると思います。とにかく、こちらにいらっしゃって下さい」 「分かった」  話し終えた私は、電話機を所定の位置に戻した。 「君は、いつも電話機を隠してから眠るのかね?」ゴデックが皮肉な笑いを浮かべて訊いた。 「ええ。テレホン・セックスを楽しみにしているオバアチャンがいて、煩《うるさ》いものですから。ジャノ刑事のところには掛かってこないかい?」  突然、質問を自分に向けられたジャノは、遣《や》り手弁護士に突っ込まれ、言葉に詰まった証人が、判事を見つめるような感じで、ゴデックを見た。 「君は、臨終の際にも、今、命を引き取っていいかどうか、医者にお伺いを立てそうな人だね」私はからかった。  ゴデックも思わず笑った。 「いえ、僕にはテレホン・セックスなど掛かって来たことはありません。もっとも、掛かってきているのかもしれませんが、僕には分かりません」 「何故?」私が訊いた。 「僕は両親と一緒に暮らしていて、受話器を取るのは、ほとんど母ですから」 「じゃ、お母さんに掛かってきている可能性はあるわけだ」 「あると思います」  凶悪犯が年々、増えているというのに、こんな刑事を雇って役に立つのだろうか。警官予備軍の若者は、皆、ある時期転向して、ヤクザになってしまうのかもしれない。 「鈴切君、単刀直入に訊くが、匿名電話の主は、君ではないんだね?」 「違います」 「まあ、いいだろう。今のところはそういうことにしておこう。邪魔したな」  ゴデックは立ち上がった。ジャノも弾《はじ》かれたように腰を上げた。 「ところで、そのモデルはどうしたんです? 行方不明ということですが」 「分からん。現在、必死で行方を追っているところだ。君も何かつかんだら、すぐに私に連絡を取るんだよ」 「ええ、分かってます」 「コーヒー、御馳走《ごちそう》さま。署のコーヒーはとても不味《まず》いんだ」 「いつでも、ここに飲みに来て下さい」 「ありがとう。そうさせてもらうよ。だが、君のほうは、署の不味いコーヒーを飲みに来ないように気をつけたまえ」  そう言い残すとゴデックは出て行った。ジャノ刑事が、慌てて後を追った。  彼等がいなくなると、すぐにクマに餌《えさ》をあたえ、トースト三枚とカリカリに焼いたベーコンエッグを食べ、サンチェス家のあるヌイイに向かった。  8  屋敷に着いたのは午前十一時五分だった。  マリアのフェラーリのボディーに、陽光が戯れていたが、プジョー505は見当たらなかった。代わりにその場所には、オイルの零《こぼ》れた跡が残っていた。  ドアを開けたのは、この前と同様、ミゲル・寺本で、通された部屋も同じだった。違っていたのは、部屋には誰もおらず、秘書がすぐに退散しなかったことである。 「奥様は、まだお休みなのです。やはり、ショックが大きかったようで……。お呼び立てしておきながら、申し訳ないのですが、もうしばらくお待ちいただけますか?」  私は黙って頷《うなず》いた。  ミゲルも寝不足なのか、前にあった時よりも、顔が膨れ、目の隈《くま》もはっきりしていた。 「まあ、お座り下さい」  ミゲル・寺本は、結んだ唇を、ほんの少し開いて私に椅子《いす》をすすめ、自分もきびきびとした動作で、ソファーのところまで歩み寄った。  女とよろしくやっている時に、突然、ボスから電話が掛かっても、絶対に、ちょっと待って下さい、なんて言う男ではなさそうだ。パンツなんか穿《は》いていなくても、会議場で書類を読み上げるような調子で、相手と話せるに違いない。 「で、留美子さんは、俺《おれ》にどんな用があるのかな?」肘掛《ひじか》け椅子に腰を埋《うず》めた私は訊《き》いた。 「鈴切さん、スペイン語のほうはどうですか?」 「リセ時代、選択していたよ」 「その程度ですか?」 「試験をしてもらってもいいが、その前に、何故《なぜ》、そんなことを訊くのか教えてもらいたいね」と私はスペイン語で言った。  ミゲル・寺本はにやっと笑った。「リセで習っただけにしてはうまいものだ」 「色気も食い気もそっちのけで勉強したんだよ」  無論、本当は、当時の恋人に仕込まれたのである。 「実は、弟さんをスペインに連れて行ってほしいと、奥様はおっしゃっているのです」 「なるほど。君は、前から弟の話を聞かされてたんですか?」 「いいえ。昨夜、警察が帰った後に初めて聞かされました。正直な話、�コンコルド・ラ・ファイエット�にお泊まりと聞いてびっくりしました」 「まあ、そうだろうね。この屋敷に来るのが普通だからね」 「ええ、まあ……」ミゲルは曖昧《あいまい》に答え短く笑った。 「君の他に、弟のことを知っている者はいるかい?」 「マリアさんもフミエさんも知ってますよ、奥様が私に話した時、ふたりとも傍《そば》にいましたからね。しかし、一体何が……」 「いや、大したことはないんだ。ちょっとあってね……」私は笑って誤魔化した。  秘書はそれ以上質問することは控え、「本当は、奥様が向こうにお連れする予定だったらしいのですが、あんなことが起こってしまったものですから、奥様だけではなく私も、明日はとても向こうに帰れないと思うのです。それで、鈴切さんにお願いするようにと申されまして」  断る理由はなかった。私は引き受けることにした。 「エアーチケットのほうは私どもで用意しますが、料金のほうはいかがいたしましょう? 当座の費用として一万フラン用意してあるのですが……」 「それで充分です」  秘書は、てきぱきと薄茶の手帳に何か書き留めた。そして、財布から五百フラン札を二十枚取り出し、テーブルの上に置いた。  私は受取を書きながら、口を開いた。 「サンチェス氏の秘書になって長いのかい、君は?」 「三年です」 「これから、どうするんだい?」  私は受取を渡しながら、ミゲルの顔を見た。 「これからって?」 「ボスがいなくなれば、秘書の仕事もなくなるんだろう?」 「そのことですか。この件が落ち着き、サンチェス氏の跡を誰が継ぐのか決まるまでは、ここに残っているつもりですが、その後のことは何も考えていません」秘書は受取に目を通しながらそう言い、「でも、きっと、サンチェス家から出ることになると思いますね」とさりげなく呟《つぶや》いた。 「それは、またどうして?」 「僕はサンチェス氏が好きだった。彼の片腕でいることが楽しくて仕方がなかったんです。だから、他の人の秘書をやる気にはなれないかもしれない、と思っているんです。別にサンチェス家の他の人が嫌いだとかいう意味ではないのですよ」 「どんな人だったのかな、ボスは。俺は一度、立ち話をしただけだからよく分からないんだ」 「一言で言うと遣《や》り手の野心家でしたね」 「俺の見た感じでは遣り手のプレーボーイという感じだったがね」  ミゲルの顔から笑みが零れた。 「仕事と賭事《かけごと》以外のことでは、ボスほどスマートで、優しい人はいませんでした。ですが、一旦《いつたん》、金が絡むとシビアな人でした。決して、汚い奴《やつ》というわけではなかったんですよ。ルールをきちんと守るのですが、相手にも、そのことを強いるところがありました。悪く言えば、情にほだされない冷たい実業家、良く言えば、合理的な精神の持ち主でした。僕は、そういうボスのきちんとしたところが好きでした」 「じゃ、敵も多かった?」 「まあ、少なくはなかったですね。ですが、ボスを抹殺したいと思っているような敵はいなかったと思いますよ。鈴切さんのいう敵というのは、そういう人のことでしょう?」  私は黙って頷《うなず》いた。 「東西リクレーションの連中はどうだい? 土地売買のことで、ボスとはうまくいっていなかったんだろう?」 「誰が、その話を鈴切さんにしたのか知りませんが、うまくいっていなかったというのは大袈裟《おおげさ》です。確かに、ボスは、あの土地を売りたがってはいなかったが、東西リクレーションの支店長とは結構仲が良かったみたいでした」 「すると、やはり、ボスを殺《や》ったのは、脇田典子というマヌカンかな?」私は、独り言のように言った。 「鈴切さんは、ボスの浮気調査をなさっていたんだそうですね」 「留美子さんがそう言いましたか?」 「直接、私に言ったわけではないのですが、昨晩、刑事達がやって来た時、僕も傍《そば》にいました。それで、奥様の話を聞いてしまったんです」  私はフィリップ・モリスのパッケージを取り出し、何気なく両手で弄《もてあそ》んでいた。 「お吸いになって構いませんよ。この家で、煙草《たばこ》を吸わないのは奥様だけですから」  秘書は、私が吸おうか吸うまいか迷っていると勘違いしたらしい。私は微笑《ほほえ》みを返しながら、煙草に火をつけた。 「君は知らなかったのかい? ボスの浮気のことを?」 「警察にも同じことを訊かれましたよ」  ミゲルは、やや不貞腐《ふてくさ》れたような笑いを浮かべた。そして、マルボローに火をつけた。眉間《みけん》に皺《しわ》が寄った。 「誰でも、そういう質問をしたくなるのは当然だろう。ボスと秘書が、或《あ》る種の共犯関係を持っていると考えるのは、常識だからね」 「それはそうですね。だが、サンチェス氏は、ことプライベートなことになると、僕にも何も言わなかった」 「だが、変だと思ったことは何度もあるはずだ。違うかな?」 「変て、どういうことです?」 「例えば、留美子さんには、仕事だと言って出掛けたが、君はその仕事のことを知らないとか……」  ミゲルは大きく二、三度頷いた。 「それはありましたよ。だが、僕には関係のないことです」 「見たくないものは、見えなくなる優秀な秘書ってわけですね」 「厭味《いやみ》は言わないで下さい。僕はサンチェス氏に雇われた秘書です。仕事のことだけをケアーしていればいい」 「その通りだね」 「しかし、何故《なぜ》、僕にそんな質問をするのです?」 「匿名の手紙のことは知ってるだろう?」 「ええ」 「そのことが気になってね」 「僕が出したとでもお思いなんですか?」  私は黙って肩を竦《すく》めた。 「サンチェス氏の、或《ある》いは脇田典子の周りの人間のひとりが、おそらく、あの手紙を出した、と思っているだけだよ」 「なるほど。そして、手紙の差出人が、ボスを殺したと考えているわけですね?」 「いや、そこまでは分からない」 「誰かに調査を依頼されてるんですか、この殺人事件の?」 「いいや」 「じゃ、鈴切さんの個人的な興味?」ミゲルは、ヘの字に曲げた唇の間から、白い歯を覗《のぞ》かせた。 「ああ。悪いかい? 留美子さんが来るまでの雑談としては、持って来いの話題じゃないか。それとも、ふたりでスペイン市民戦争の話をするほうがより自然だとでも……?」  ミゲルの潤んだ目が鋭く私を見た。潤んでいる分だけ、かえって冷たい感じがした。  顎《あご》の骨はぷくっと膨れ、頬《ほお》がぴくっと二度動いた。  ミゲルは、自分が疑われていることに憤慨しているのだろうか。それとも、尊敬と愛情を感じていたリカルドのことを根掘り葉掘り訊かれることに腹を立てたのだろうか。だが、ともかく、彼の怒り方は三十を越えた秘書にしては子供っぽいように思えた。  白けた雰囲気を救ったのはドアの開く音だった。  つかつかと入って来たのは、留美子ではなくマリアだった。 「ミゲル、ルミコが呼んでるわよ」スペイン語でそっけなく言うと、彼女はバタッと倒れるようにソファーに座った。  さすがのマリアも、げっそりとして疲れ切っていた。事が事だから、マリアも派手な格好はしていなかった。黒のフレアースカートにダークグレーのTシャツ姿。だが、どんなに色を地味にしても、彼女の持っている派手な雰囲気を消し去ることは不可能だった。悲しくても涙の出ない人が、他人《ひと》から冷たく見られてしまうように、彼女も喪服が似合い過ぎて、哀れを誘わないタイプの人間なのだ。  マリアは、股《また》を大きく開き、フレアースカートの真ん中を両手で押さえ、俯《うつむ》き加減にしていた。 「昨日は、御免なさい」ポツリと乾いたか細い声が言った。 「大丈夫か、君は?」 「ええ。何とか、持ち堪《こた》えているわ」 「…………」  私は煙草をすすめると、マリアは、黙ってパッケージから一本抜き取った。私はその煙草に火をつけた。 「パパが何時頃、殺されたか、鈴切さん知ってる? 昨日、ここに来た刑事に訊いたんだけど、まだ分からないと言われたのよ」 「何か気になることがあるのか?」 「いいから、知ってるんなら教えてよ」 「警察の話によると、午後六時半から八時の間だそうだ」 「やっぱりね」マリアは放心したように呟き、いつものように煙草を思い切りふかした。 「犯人は、きっと留美子よ」 「そう思う根拠があるのか?」 「私、昨日、七時過ぎに、ここに戻ったの。そうしたら、留美子はいなかった。どこに行ったのかミゲルもフミエも知らないというのよ。変じゃない?」 「で、何時に彼女は戻って来たんだ?」 「十分か十五分してからよ」 「それだけじゃ、犯人だとは言えないな」 「でも、可能性はあると思わない?」 「それはある。だが、そういうふうに考えれば、君だって怪しくなるぜ。六時半から七時すぎまで、どこに行っていたんだ?」  私は質問口調ではなく、子守歌でも歌うような調子で訊いた。 「私、シャルトルを出てからドライブして帰ったのよ」 「証人はいる?」 「いないけど、本当よ」 「でも、犯行時間に、どこに行っていたか分からないことでは、留美子さんも君も同じだぜ」 「あなた、私を疑ってるの? それはヒドイ! 私、パパに頭来てたけど、殺したりするわけないじゃない!」  マリアは切れ切れに訴えた。 「俺は、君も留美子さんも同じ条件だと言いたかっただけさ」  私は、彼女の隣に座り、そっと肩に手を掛けたが、マリアは私の腕を撥《は》ね除《の》けた。 「鈴切さん、嫌いよ、私。なんのかんの言いながら、いつも留美子の肩ばかり持つんだから」 「肩を持っているわけじゃない」 「嘘《うそ》ばっかり。今日も、あの女に呼ばれたから来たんでしょう? 犯人でも見つけて、とでも頼まれたの?」 「いや、留美子さんの弟をプエルト・サンチェスの屋敷に連れて行くことにしたんだ」 「留美子の弟ね。昨夜、ちらっと話を聞いたわ」 「彼女の弟と連れの女は、しばらく向こうの屋敷に滞在するんだ」 「パパが死んだら、すぐに身内を引き入れようってわけね」 「いや、違う。君のパパも、承知していたことなんだ」 「パパが死んだのよ。そんな時に観光旅行だなんて非常識だわ。私、絶対、反対よ!」 「彼等は観光旅行に来たわけじゃない。これには、ちょっとした事情があるんだ」 「どんな事情よ?」マリアは私に喰《く》って掛かった。 「聞きたければ留美子さんから聞いてくれ。俺が話す話ではない」 「気にいらない、あの女、きっと何か企《たくら》んでるのよ」と低く呻《うめ》いた。そして、私の顔を睨《にら》むように見、がらりと調子を変え言った。 「鈴切さん、お金はいくらでも払うから、パパを殺した犯人を見つけてよ」 「犯人が留美子さんじゃなかったら、どうするんだ?」 「それでも構わない。引き受けて」 「無理だね。俺は明日、プエルト・サンチェスに行かなければならない。パリで起こった事件をスペインで解決するのは無理だ。俺はアームチェアー探偵じゃないんだぜ」 「キャンセルなさいよ、その仕事。彼女が出す金の倍払うわよ、私」  私は優しく微笑み、今にも噛《か》みつきそうな虎《とら》の子を相手にしているような手付きでマリアの頭を撫《な》でた。 「分かった。出来るだけ調査してみよう。だが、金はいらん。一度にふたつの仕事は引き受けない主義なんだ」 「……金を支払わないで人に物を頼むな、というのが私のお祖父《じい》さんの口癖よ。無料の仕事はすべて半端だって言っていたわ」 「それはおおむね、正しい。でも、ごく稀《まれ》にただでも半端な仕事をしない人間もいるんだよ」 「鈴切さんは、そういう人かしら?」マリアは顎を突き出し、横目で私を一瞥《いちべつ》した。 「賭《か》けてみたらいい。どうせ、元手はいらないんだから」 「分かったわ。でも、絶対、あの女が……」  マリアがそう言った時、ノックの音がして、ミゲルが戻って来た。  マリアは、すっと立ち上がり、「あなたのレコードとキャットフード、車の中よ。ドアに鍵《かぎ》は掛かってないから、勝手に持って帰って」と言い残し、だらだらとした足取りで部屋を出て行った。 「マリアともお知り合いだったんですか?」ミゲルが明るい声で訊いた。怒りは治まり、元の秘書の顔に戻っていた。 「不思議かね?」 「いいえ。彼女は誰とでも親しくなる子ですから」 「そして、誰とでも喧嘩《けんか》するか……」 「え?」 「いや、こっちの話だ。ところで、留美子さんは起きました?」 「起きたことは起きたのですが、とても、お会い出来る状態ではないんです。今、医者を呼んだところで」 「じゃ、雄司君のことは何も心配いらないと伝えて下さい」 「分かりました。これは奥様からの伝言なのですが、弟に会って、事情を説明するのも鈴切さんにお願いしたい、とのことですが」 「いいでしょう。後でホテルに寄ってみます」  私は立ち上がり、ドアに向かった。 「先程は、失礼しました。ちょっと興奮しすぎたようです」ミゲルは静かに言った。 「相手を怒らせるのは、俺の癖でね。気にしなくてもいい」 「そうだ、大事なことを忘れていた。明日は、午前八時三十分発のエアーフランス511便に乗って下さい。それでマドリードまで行き、イベリア航空353に乗り換えて下さい。生憎《あいにく》、明朝は直行便がないのです。マラガ空港には、十四時ちょうどに着きます。切符のほうは、オルリー空港のAFカウンターで作らせて下さい。予約は、先程入れましたから」  玄関口までミゲルが見送りに出て来た。 「ところで、アントニオ夫妻もここに寝泊まりしているのか?」 「いいえ。コリーヌさん、つまり奥さんの実家のほうにお泊まりです」 「アントニオ氏の妻はフランス人なのか?」 「ええ」  私は、この住所と電話番号を聞きノートした。  屋敷を出た私は、駐車場に寄った。フェラーリの横をハチが一匹通り過ぎた。羽音がよく聞こえた。突然、私の耳がよくなったのではない。まわりが、それほど静まりかえっていたのだ。  一瞬、私は人里離れた原っぱに来ている気分になった。  だが、ハチはすぐにどこかに消えてしまい、私の脳裏からも原っぱが消えた。  私は車の後部座席に横たわっていたレコードとキャットフードを手に取ると、サンチェスの屋敷を出た。遠くで車の音がしていた。絨毯《じゆうたん》を無理矢理、引きずるようなその音は、ハチの羽音よりも、数倍親しいものだった。  9  ホテル�コンコルド・ラ・ファイエット�に立ち寄り、刈谷雄司にホールから電話を入れた。だが、彼もフィアンセも外出中だった。大方、近くで食事をしているのだろうと思ったが、念のためにキーを預けてあるかどうかフロントで確かめてみようとした。  フロント係は、やけに、きちんとした発音をする痩《や》せた女だった。  言葉の間に仕切りがあるのだ。しかも、飛び出してくる言葉自体、製氷皿で作った四角い氷みたいだった。愛を囁《ささや》く時も、この調子じゃ男がかなわないだろう。  氷のような言葉の説明によると、刈谷の滞在している一七三二号室には、いわゆる鍵《かぎ》はないとのことだ。代わりにキーカードなるものがあり、それを差し込んで開けるのだそうである。そして、そのカードは、チェックアウトするまで客が持っていて、外出の際にもフロントに渡す必要はないのである。  これでは、彼等がホテル内のどこかにいるか、それとも、近くまで出掛けたのか分からない。  中央の柱に取りつけられている時計は午後十二時十六分を指していた。  私は、パリ郊外、クレテイユに住むジャック・デルクールに電話を入れた。  ジャックは数年前に、税務署を退職し、今は年金で余生を送っている老人なのだ。彼は自宅の納屋と中庭を改造し、ペットホテルをやっている。妻に先立たれ、ふたりの娘も嫁いでしまい、ひとり暮らしの彼にとって、ペットを預かるのは、金のためというより、生き甲斐《がい》なのである。  長く家を空ける時は、大概、彼のところにクマを預けることにしている。これからのスケジュールを考えると、今夜、クマを預けに行けなくなるかもしれない私は、今のうちにジャックのところへクマを連れて行くことにしたのだ。  ジャックは、元税務署員とは考えられないくらい、愛想《あいそ》のいい口調で、私とクマの来訪を待っている、と言った。  事務所に戻った私は、クマを厚手のボール紙で出来たペット用のボックスに入れ、再び車を走らせた。  ボックスに入れられたまま助手席に置かれたクマは情けない声を出して鳴いていた。とても団体生活の出来る猫ではないが、たまには、競争社会で揉《も》まれるのも悪くはないだろう。  ジャックのところには三十分ほどで着いた。動物好きのジャックはクマを抱き、二、三言、愛想を言い、それから中庭の大きな檻《おり》の中にクマを入れた。  その檻には、すでに六匹の猫が入っていた。クマは緊張していた。他の猫達も警戒している。一匹の大きな灰色の猫が歯を剥《む》いた。クマも尻尾《しつぽ》を下げ、目を吊《つ》り上げている。 「喧嘩《けんか》をするのなら、勝つんだぞ、クマ」  私は檻に近づき、クマにハッパを掛けた。クマがちらっと私を見た。とても勝てそうな気はしなかった。親が甘やかせすぎているらしい。  私はペットホテルのオーナーに前金として二百フランを渡した。ジャックは、先月預かったポケットモンキーについての話を始めたが、私には動物談義をしている暇はなかった。ちょっと寂しそうな顔をしたジャックを残して、私は彼の家を出た。  私にも、日長《ひなが》、動物の話をして暮らせるような時がくるだろうか、とふと思った。よく分からない。分かっているのは、朝、気持ち良く起きられ、煙草《たばこ》がうまく、十キロの鉄アレーを何回も持ち上げられ、女の子をからかう元気のあるうちは、絶対に、カフェに座って、一杯のワインをちびちび飲みながら、ポケットモンキーの話などに興ずることはないということだ。そして、そのような状態がいつまでも続く、となんの根拠もなく信じていることも確かだった。  パリに戻った私は、エドガー・キネー広場の近くに車を止め、モンパルナス大通りに面したレストランで遅めの昼食を取った。  食事を終えた私は、歩いてモンパルナス・CITタワーに向かった。  東西リクレーションに顔を出してみることにしたのだ。タワーのロビーには受付嬢が置物みたいに座っていたが、私はそれを無視し、掲示板で東西リクレーションの部屋番号を探した。  東西リクレーションは、私の商売敵の事務所のある三階にあった。私が黙ってエレベーターに乗っても、受付嬢は何も言わなかった。三階の廊下は、店仕舞いしたショッピングアーケードのように静まり返っていた。  東西リクレーションの事務所は、モンパルナス駅側に位置していた。私はドアをノックし、中に入った。  ドアの正面に、水玉のワンピースを着た日本人の女が座っていた。下で見た案内嬢のように置物みたいではなかった。私の顔を見た途端、マジシャンが帽子から鳩《はと》を出した後に、客に見せるような笑い顔を浮かべた。拍手を期待しているような笑いなのだ。しかし、拍手する理由はなにもない。私は拍手の代わりに名刺を出して、支店長に会いたいと言った。  彼女は電話を入れ、「はい」と二回言ったあと、受話器を右の掌《てのひら》で押さえたまま、 「御用の向きは?」と私に訊《き》いた。 「リカルド・サンチェス氏のことについてお話があると言ってくれ」  受付嬢は、私の言ったことを伝え、もう一度「はい」と言い電話機に向かって軽く頭を下げた。 「支店長がお会いになるそうです。一番奥の左手が支店長室です」  私は礼を言う代わりに片手を上げ、言われた通りに廊下を進んだ。他に部屋が三つあり、壁には、東西リクレーションがフランス国内で経営しているホテルとゴルフ場、それにポルトガルの別荘地のポスターが貼《は》ってあった。  私はノックをしてから、ドアを開けた。支店長は電話中だった。  支店長室は、ベージュの絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた広い部屋だった。壁には廊下で見たのと同じポスターが見られ、左奥に、パット練習用の模造グリーンが置いてあった。窓際に牛革のソファーがあり、その右側に、両袖《りようそで》の重々しい机があった。  机の後ろにパネル写真が飾られている。写真にはふたりの男が写っていた。ひとりは控え目に微笑《ほほえ》み、もうひとりは扁桃腺《へんとうせん》が見えるくらいに大きく口を開け笑っていた。扁桃腺を見せていないほうがバレステロスで、もうひとりのほうは、私の前にいる男だった。  パネルにはバレステロスのサインがあり、�我が友、コウジロウ�とフランス語で書いてあった。  受話器を置いた�コウジロウ�は、写真とは打って変わって、私に扁桃腺どころか前歯の一本も見せてはくれなかった。名刺を交換する時も、いかにも不機嫌そうだった。  名刺には、東西リクレーション パリ支店長 滝口幸次郎《たきぐちこうじろう》と書かれてあった。  滝口は机のところから、ゆっくりとソファーに移った。  年齢は四十くらい。長身。多少縮れ毛で揉《も》み上げが長かった。目は大きく、世界中の光を吸収してしまいそうに黒く輝いている。唇は薄く、スライスハムのような色だった。ライトグレーの縦縞《たてじま》のスーツに同系色のタイを締めていた。 「まあ、お座りになって」もったいをつけた低い声が言った。  私は滝口の正面に座った。 「日本人の私立探偵がパリにいるとは知らなかった」感じの悪い目付きが私をじろじろ見ている。 「私も、日本人が経営するゴルフ場がフランスにあるとは知りませんでしたよ。あなたのところがパイオニアですか?」 「いや。うちは三番目だよ。ところで、私立探偵証を見せてもらえるかね?」 「そんなものはありません」 「じゃ、モグリか」 「フランスでは、私立探偵に特別な身分証は発行されません。疑問があるなら、警察に電話をして聞いてみて下さい。ついでに私の名前が登録されているかどうかも確かめてみるといい。登録番号は八二一です」 「分かった。君が私立探偵だということは信用しよう。だが、私立探偵を信用するかどうかは分からんよ。で、用件は? サンチェス氏に関することだという話だが……」  滝口幸次郎は、ソファーに深々と座り、脚を大きく組んだ。黒い靴《くつ》が窓から入って来る日ざしを受けて、きらりと光った。靴底の革はまったく傷んでおらず、犬の糞《ふん》もチューインガムもくっついていなかった。 「サンチェス氏の殺された部屋の住人、脇田典子のことを伺いたくてやって来たんです」  私はいきなり憶測していたことをぶつけてみた。 「何故《なぜ》、私がその女を知っていると思うんだね?」 「リカルドが教えてくれました」私は嘘《うそ》をついた。 「君はサンチェス氏を知っていたのか?」 「ええ。友人でした。もっとも、彼に会ったのは、二度、しかも、いずれも短い時間でしたがね」 「それじゃ、友人というのは大袈裟《おおげさ》じゃないかね」 「支店長はバレステロスに何度お会いになりました?」 「一度だが…」 「たった一度ですか!」私は驚いてみせ、パネル写真に目をやった。「あそこには、我が友、幸次郎とサインが入っていますね。一度会っただけで、友人なら、二度会えば、もう親友じゃありませんか」 「屁理屈《へりくつ》はもういい。で、何だ? 彼女の何が知りたいんだ?」  滝口は組んでいた脚を元に戻し、揉み上げの辺りに手をやった。  私の憶測は見事に的中した。  滝口は終始、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せている。鼠《ねずみ》の糞《ふん》ほどの威厳は感じられたが、脳味噌《のうみそ》の足りない男のモデルが、自分の本当の姿を見破られないように、無理矢理寄せた皺のほうに似ていた。 「やはり、あなたが、リカルドに彼女を紹介したわけですね」 「紹介したわけじゃない。今年の初め、サンチェス氏と私、それに社員の宮入《みやいり》君が或《あ》るレストランで食事をしている時、彼女が偶然、入って来たんだ」 「それで、一緒にテーブルを囲んだわけですか?」 「そうだ」 「あなたと脇田典子は、どんな関係なんですか? 彼女は、社員名簿には載っていない、支店長のポケットマネーからボーナスを頂いている特別社員?」 「冗談、言っちゃ困る。私には、そんな社員はひとりもおらんよ。彼女は宮入君の従姉妹《いとこ》だ。私も、その日、初めて顔を見たんだ」  滝口はテーブルの上の煙草入《たばこい》れから煙草を取り出し、ゴルフボールの形をした卓上ライターで火をつけた。 「なるほど。で、見ず知らずの、しかも部下の従姉妹を商談中に同席させたわけですか?」 「招いたのは、君、サンチェス氏だよ」 「だが、誘いたくなるように仕向けたのは、あなた方じゃないんですか?」 「何のために?」 「|+《プラス》の電流同士じゃ交流しない。その間に|−《マイナス》の電流を挟むと、摩訶《まか》不思議。スムーズにことが運ぶってこともありますからね」 「何かね、我々が宮入君の従姉妹をホステス代わりに呼んだと言いたいのかね?」 「違いますか?」 「馬鹿らしい」滝口は吐き捨てるように言った。 「彼の所有地が手に入らないと、マリアとアントニオの土地を購入してもゴルフ場建設は不可能。ところがリカルドは土地を売るのを渋っていた。どんな手だって使ってみる気になるんじゃないですか?」 「君は大きな間違いをしてるよ。サンチェス氏は、値段さえ折り合えば、売る気はあったんだ。我々はその交渉中だった。女をひとりあてがうかあてがわないかの問題じゃなかったんだ」 「交渉は難航していたという噂《うわさ》ですが……」 「正直に言って、うまくいっていなかった。我々が提示した額の三倍の値をつけてきたんだからね。しかし、時間を掛ければ何とかなると私は踏んでいた。金の代わりになるものを、こちらが提出する用意もあったしね……」 「例えば、どんな?」 「それは、話せない。企業秘密だよ。だが、断っておくが女を世話するなんてケチ臭い話じゃないよ」 「サンチェスが死んだ後は、サンチェス夫人と交渉するわけですか?」 「そうなるだろう。土地を相続するのは彼女だろうから。まったくタイミングの悪い時に、サンチェス氏は死んでくれたもんだよ。交渉は一からやり直しだし、それに、取りようによっては、この会社が色仕掛けのために送り込んだ女が、客を殺して逃走中ってことにもなりかねない」 「まだ、彼女が犯人と決まったわけじゃないでしょう」 「そんなこと、どっちだって同じことだよ、我々にとっては。私は日本のマスコミの出方を、今、一番心配しているんだ。君の下らない質問に貴重な時間をさいているのも、もし君が、マスコミの連中と親しかったら、と考えたからだよ。妙に隠しだてしたり、逃げ回ったりすると、痛くもない腹を探られるからね」  自分の読みは鋭いだろう、という顔をして、滝口は皮肉な笑いを口許《くちもと》に浮かべた。  私は、見て見ぬふりをした。滝口にどんな思惑があろうが、私の知ったことではない。質問したことに答えさえしてくれれば、それでいいのだ。 「じゃ、貴重な時間をもうしばらく下らない質問にさいてもらいましょうか。支店長は、リカルドとマヌカンの関係を御存じでしたか?」 「いや、知らなかった。大体、私は、その日以来、あのマヌカンには会っていないよ」 「部下の宮入さんからも何も聞いていない?」 「レストランで会った翌日、サンチェス氏が従姉妹を大層、気にいったみたいだ、という話を彼から聞いた記憶はあるが、その後は、まったく話題にも出なかった」 「宮入さんは、今、いますか?」 「いや、仕事で出ている」 「何時頃、戻って来るか御存じですか?」 「今日はもう、ここには戻って来ないだろう。郊外まで出掛けているからね。しかし、彼に会って、どうするんだ?」 「従姉妹の話を聞こうと思っています。いけませんか?」 「君は、一体、誰に頼まれて調査しているんだ?」滝口は煙草を、叩《たた》くようにして消しながら、上目遣いで私を見た。 「それは、こちらの企業秘密です」 「人の秘密を暴き、それをネタに飯を喰《く》っている人間に、そんな大層な権利があるとは知らなかったな。まあ、もっとも、五流のマスコミ連中にも、�言論の自由�とか言う伝家の宝刀があるのだから、驚くことはないとも言えるがね」 「支店長は、マスコミを恐れているようですが、御心配なく。あなたと会ったことも、私にとっては企業秘密です。他言はしませんよ」 「どうだかね。他人のことを根掘り葉掘り嗅《か》ぎ回る連中は、信用できん」 「幼い頃、海で溺《おぼ》れかかった経験のある人間は、大人になっても、必要以上に海を怖がるものだ。あなたは、昔、そういう連中に傷めつけられたことがあるようですね」 「私は、そんな連中に追い回されるほど、有名人じゃないよ」  滝口は投げ遣《や》りな調子で言った。  机の上の電話が、くぐもった音で鳴った。支店長は「失礼」ともなんとも言わず、立ち上がり、机の前の椅子《いす》に座った。  受付係の女が相手の名前を告げたらしい。滝口は抑揚のない声で「繋《つな》いでくれたまえ」と言った。相手が電話口に出たらしい。急に滝口の口調が変わり、相好《そうごう》を崩した。私の前では見せなかった笑顔。パネル写真の中の滝口が蘇《よみがえ》ったのだ。この男にとっては、笑顔は金と同じらしい。使えば減るものなのだ。  私も立ち上がり、窓際に歩み寄り、外を見た。  窓からはモンパルナス・タワー、駅、そして、バス発着所が見える。モンマルトル行きの95番のバスの周りに人だかりがしていた。CRS(国家保安機動隊)の装甲車がバス停を占領し、カービンAMDを持った、濃紺のユニホーム姿の隊員が三、四人、男を取り囲んでいた。何かあったらしい。  私は音声が切れているテレビを見ているような感覚で、犯罪の総合商社となったパリの一シーンを見ていた。私の背中では、滝口の流暢《りゆうちよう》なフランス語が、快活に受話器と戯れている。この対照的なふたつの光景に挟まれた私は何故か、とても居心地が悪かった。やはり、フランス国籍を持つ日本人の宿命だろうか?  滝口が受話器を置いた。私は時間をさいてくれた礼を言った。滝口も通り一遍の挨拶《あいさつ》を返して来たが、山の天気が一瞬にして変化するように、私を見る彼の表情は、先程と同様、歯痛を耐えているみたいなものになっていた。  私が出口に近づくと、受付嬢が微笑《ほほえ》み、軽く会釈をした。私は、支店長があなたに訊け、と言ったと嘘《うそ》をつき、宮入の自宅の住所を訊き出した。宮入|昇《のぼる》の住所は、ランジスというパリ郊外だった。  廊下には相変わらず、人気《ひとけ》がなかった。  エレベーターが一階に着いた。開いたドアの前に、茶色のスーツを着、濃いサングラスを掛けた大柄な男が立っていた。東洋人には違いないが、日本人かどうか分からなかった。一昔前なら、着ている服や、動作で日本人かどうかの判断が簡単についたのだが、最近は難しくなった。物にしろ情報にしろ、流通が目覚ましく進歩した結果、民族性なんて、もう一見しただけでは分からない、胃に出来た腫瘍《しゆよう》みたいなものになってしまったのだ。  男は無表情のまま、私と入れ違いにエレベーターに乗った。エレベーターの数字を見た。男は三階で下りた。  10  モンパルナス大通りを地下鉄ヴァヴァン駅のほうに向かって歩き、カフェ�ドーム�に入り、テラスに座った。  ビールを頼み、薄暗い地下に下りた。マダム・ピピと呼ばれているトイレの番人が、編み物に余念がない。私は電話機に一フラン玉を入れた。  まずコリーヌ・サンチェスの実家に電話を入れたが、誰も出なかった。  今度はタニコウのダイアルを回した。  タニコウはすぐに電話に出た。 「シンゴ、よく電話をくれた」タニコウが、毛虫が二匹|逢引《あいびき》しているような口髭《くちひげ》を撫《な》でながら、受話器に向かって微笑んでいるのが想像出来た。 「喜んでいるところをみると、リカルド・サンチェス殺しを追っ掛けているんだな」 「当然だろう! 逃亡中のマヌカンに心当たりがあるもんな。シンゴ、この件を調査しているのか?」 「今日一日は調査している。だが、明日からしばらくお休みだ」 「なぜだ?」  私は、明日、スペインに行く話をした。 「だが、むこうには、サンチェス殺しと関係のある人間がたくさんいるわけだろう?」 「その通りだが、ともかく、俺《おれ》の第一の仕事は、刈谷雄司達を無事に送り届けることなんだ」 「おまえ、現場を見て来たか?」 「俺はオマワリとも、プレスカードさえ出せば、ボンジュールも言わずに大概のところに顔を突っ込めるブンヤさんとも違うんだぜ。どうして、俺が現場を見せてもらえるんだ?」 「見せてもらったなんて思ってない。おまえは昨日、マヌカンのアパートに行ったんだろう。偶然、現場を見た可能性があったんじゃないかと思っただけさ」 「表までは行ったが、中には入ってない」 「本当かな?……まあ、いいや。そのうち、俺に真実を語りたくなる時も来るだろう」 「あんたが聴罪司祭にでもなったら、何でも話してやるよ。ところで、東西リクレーションについて知ってることを話してくれないか?」 「簡単に頼んでくれるな。ギブ・アンド・テイクといこうぜ。おまえ、何かネタを握ってるんだろう?」 「今は何もない。本当だ。東西リクレーションがサンチェスの土地を欲しがっていた。俺はそのことだけしか知らない」 「そんなことなら、俺だって調べ上げてある」 「こうしよう。もしスペインのサンチェス家で、あんたの役に立ちそうな情報を手に入れたら、電話をしよう。特派員をひとりただで送り込んだと思えばいいだろう」  受話器の向こうでタニコウは考え込んでいるらしい。一瞬、沈黙が流れた。 「よし。何かあったら本当に連絡を寄越すだろうな」タニコウは、釘《くぎ》を刺す意味で、大袈裟《おおげさ》に疑ってみせているようだ。 「約束は守るよ」 「じゃ、前金の代わりに、情報を流してやる……」  タニコウは話しだした。  東西リクレーションは、本社が東京にある中堅どころのレジャー企業。現在、日本各地で、ゴルフ場、テニス場、ボーリング場、スケートセンターなどを経営している会社なのだそうだ。社長は、滝口|英太郎《えいたろう》、七十二歳。専務は長男の雅則《まさのり》。次男の幸次郎は、今年三十九歳である。パリに支店を出したのは約十二年前。パリ郊外にゴルフ場を造り、ニースの三つ星ホテルを買収した。ホテルはのちに転売したが、ゴルフ場は現在も持っている。幸次郎がパリ支店長になったのは三年前とのこと。遅ればせながら、フランスにもゴルフが流行《はや》り始めたこともあって、ここ数年の営業成績は抜群に良い。ゴルフ場の他にパリとリヨンでホテルを経営し、ポルトガルで別荘を売りに出している。 「……といったところだ」一気に話したタニコウは話し終えると溜息《ためいき》をついた。そして、思い出したように一言つけ加えた。 「これは噂《うわさ》だが、東西リクレーションは総会屋と癒着しているらしいんだ」 「社長の滝口英太郎という男は、そういう連中とくっつきそうな奴《やつ》なのか?」 「いや、業界じゃ堅い男として通ってるよ。だから、噂だけなのかもしれん」 「滝口幸次郎という人物の評判はどうなんだ?」 「なかなか切れ者という噂もあるが、押し並《な》べてみると、可もなく不可もないというところだ。奴のことで何か気になることでもあるのか?」 「さっき、ちょっと会って来たんだが、マスコミ嫌いなのが気になったんだ」 「おそらく、奴が憲民《けんみん》新党の実力者、朝比奈一郎《あさひないちろう》の次女と結婚した四年ほど前の話だが、マスコミに叩《たた》かれたことがあったんだ。おそらく、それが原因なんだろう」 「スキャンダルでもあったのか?」 「大したことじゃないんだ。独身貴族を気取っていた幸次郎は、単に女にもてたんだ。奴も調子に乗り、いろいろな女に手を出した。そのひとりが、某週刊誌に手記を書いたのさ」 「そんなものがネタになるほど奴は有名だったのか?」 �私はそんな有名人じゃない�と言って言葉を濁した幸次郎を思い浮かべながら訊《き》いた。 「彼自身は有名じゃないが、奴の姉が新劇出身の女優でね。千草《ちぐさ》エミって聞いたことないか?」  聞いたことあるようなないような名前だった。 「それに、ちょうど運が悪いというのか、その頃、千草エミのベンツが盗難に遭い、その車が人を轢《ひ》き殺して逃走した事件があったんだ。犯人はすぐに自首したんだが、週刊誌の連中は、ネタがダブルで転がり込んできたものだから、一斉に書き立てたのさ。幸次郎は有名人の弟だから、巻き込まれただけだよ」 「なるほど。ところで、笠原のことは何か分かったか?」 「まるで情報がないんだ。偽名をたくさん持っている、一匹狼《いつぴきおおかみ》の殺し屋の線が強いな」  私が礼を言って電話を切ろうとすると、タニコウは、何かつかんだら必ず電話を寄越せ、と念を押した。  テーブルに戻った。ビールは生温《なまぬる》くなっていた。紙のコースターが水を含んでいた。  私はそのビールを一気に空け、お代わりを注文した。  11  ホテル�コンコルド・ラ・ファイエット�の西側、外環状線に沿った通りに、運良く、駐車出来るスペースを見つけた。  夕方のラッシュ時、外環状線は混んでいて、クラクションが数珠つなぎに鳴り響いていた。  エンジンを切り、ドアに手を掛けた時、はっとする光景が目に入った。  私の車の前方、約三十メートルほどのところで、黒い革ジャンに黒いジーパンを穿《は》いた若者が刈谷雄司の肩をこづいて、車に乗せていたのだ。  若者のジャンパーには鎖がぶらさがっていて、俗に�バナナ�と呼ばれるツッパリヘアーの突き出た部分は、金色だった。そいつが辺りを一、二度見回してから運転席に乗り込んだ。車は、五〇年代に活躍していたシトロエン11BLのようだ。  クラシック・カーで日本のチンピラをフランスのチンピラがお出迎えとは。まさか、両国のチンピラの親善を図ろうというのではあるまいが、奇妙なことに違いない。  シトロエンが走り出した。私も車を出す。刈谷の他に後部座席には男が乗っているようだ。  シトロエンは外環状線に乗り、クリニヤンクールの方面に向かって走り出した。それほど急いでいる様子はない。職安の前に並ぶ、無気力な失業者のように、列を乱すこともなく走っていた。  車はポルト・ド・クリシーで外環状線を下り、すぐにパリ市を出た。  嫌な予感がする。彼等は、パリの北の郊外に向かっているのだ。北の郊外は犯罪多発地区である。シトロエンのハンドルを握っている若者のような、腐ったバナナの皮を頭上で揺らせ、日本人のフランス通にでも、何のことを言っているのか、チンプンカンプンのスラングを使って粋がっているお兄さん連中がうようよいる場所なのだ。しかし、北郊外にも上品なところもある。例えばアンギャン。高級カジノがあり、別荘もあるのだ。確か、かのアルセーヌ・ルパン氏が忍び込んだ別荘もアンギャンにあったはずである。  シトロエンは、セーヌ川を渡り、国道三一〇号線を走っている。車の感じからすると、アンギャンのカジノに行ってもおかしくないのだが、運転手の格好を考えると、その手前あたりのスラム街に消えるような気がした。  アニエール、ジェンヌヴィリエを過ぎ、再び蛇行しているセーヌ川にぶつかった。  エピネー・シュール・セーヌの街に入ったシトロエンは、セーヌに沿って右に曲がった。そして、五百メートルほど走り、今度は左に折れた。私は、気取られないように充分に距離を置いて後をつける。どうやら、思った通り、アンギャンに行くのではないらしい。  シトロエンは路地の向こうに聳《そび》え立つHLM(低家賃団地)の中に入って行った。通りに車を停《と》めた私は建物の陰に隠れて彼等の様子を窺《うかが》った。  そのHLMは、建物が、コンクリートの中庭を囲むような形に造られていた。ちょっと見には、日本の学校の造りに似ている。窓ガラスがところどころ壊され、竹を編んだ安物の簾《すだれ》が下りている窓が目立つ。瓦解《がかい》寸前のHLMなのだ。住人は、鼠《ねずみ》と浮浪者と酒の空き瓶だけのようである。  シトロエンは中庭の右奥で停まった。  ドアが開いた。黒い革ジャン姿の若者が由起子の二の腕をつかみ、後部座席にいた男が、雄司の背中に拳銃《けんじゆう》らしきものを突きつけていた。私の場所からでは、男がグレーのスーツを着ていることしか分からなかった。 「嫌よ! 離してよ。私達をどうするのよ!」由起子の悲鳴に似た叫び声が、建物に響き渡った。  沈黙。ふたりの男は、雄司と由起子を連れて、右奥の入り口の向こうに消えた。  私は足音を忍ばせ、建物に沿って問題の入り口に近づいた。彼等が、階段を上がっていく音が聞こえる。 「嫌! 嫌! こんなの嫌!!」 「あんたは、俺《おれ》に用があるんだろう? 由起子はホテルに帰してやってくれよ」雄司の声は上擦《うわず》っていた。 「君に頼まれなくても、お嬢さんには、指一本触れる気はない。無事に父親の手に引き渡すのが私の義務でね」  太い落ち着いた声。アナウンサーがニュースを読んでいるようなモノトーンな口調だ。どうやら、相手は笠原という殺し屋らしい。  私もゆっくり階段を上がった。懐から拳銃を抜く。  建物全体がゴミ箱だった。こういうHLMがパリ郊外には、たくさんあると聞いていたが、それはひどいものだ。酒の空の瓶、食い残した食べ物が臭いを発している缶詰、くしゃくしゃの衣類、割れたレコード、小便の跡、スプレーで壁一面に書かれた意味不明の落書き……。  階段の踊り場の明かり取りから、暮れかかった力のない光が射し込んでいた。当然、国がこんな廃墟《はいきよ》に電気を供給するはずがない。もし、明かり取りがなかったら、身動きが取れなかったことだろう。  私が二階に達した時、上の階でドアが閉まる音がした。割れたガラスを踏まないように用心しながら、私も三階に上がった。廊下は真っ暗だった。そのことが、かえってどの部屋に彼等が入ったかを調べる手間を省いてくれた。  奥から二番目のドアがほんの少し開いていて、そこから光が漏れていたのだ。奴等《やつら》は、用意周到、あらかじめ、自家発電の装置を用意しておいたらしい。  私は、明かりの漏れているドアに近づいた。途中、二度、ガラスのかけららしきものを踏んだ。ぞっとした。まさか。奴等に気付かれたからといって、猫の泣き真似《まね》をして誤魔化すわけにもいかない。しかし、何とか無事に、ドアの横の壁にへばりつくことが出来た。 「奥の部屋で眠らせておけ」殺し屋がフランス語で命令した。流暢《りゆうちよう》なフランス語だが、微かに訛《なま》りがあった。 「嫌! 嫌! さわんないでよ!」由起子の声が聞こえ、それに続いて唾《つば》を吐き掛ける音がした。 「このスベタ! 何しやがる」若者がいかにも、郊外の人間らしいアクセントで悪態をついた。  それぞれ違う言葉を使っているのに、ふたりの会話はうまく繋《つな》がっていた。 「いいから、早く向こうに行って眠らせろ」殺し屋がフランス語で言った。  由起子のわめき声が遠のいた。 「刈谷さん。ヤクザのお嬢さんに手を出したのが、運の尽きでしたね。フランスのこんなゴミ溜《た》めで死ぬのは不本意でしょうが諦《あきら》めて下さい。実は私も、君のようなチンピラを殺すのは不本意でね。だが、仕方ありません、私もプロ。客の希望を叶《かな》えるのが義務でしてね」殺し屋は日本語も流暢にこなした。 「由起子はどうなるんだ?」 「御心配なく。ちゃんと父上のところにお届けしますよ。地獄から彼女がどういう人生を歩んでいくか見ていて下さい」  今、踏み込まなければ雄司が危ない。そう思った時だった。  再び足音が聞こえた。若者が戻って来たらしい。 「眠らせたか?」殺し屋の声。 「へえ」 「どれ俺が調べてみよう。一緒に来い」  足音が遠のく。そして、すぐに、くぐもった感じの銃声が二発聞こえた。  私は思わず部屋に飛び込んだ。殺し屋が、奥の部屋の扉越しに撃《う》ってきた。転がるようにしてリビングに飛び込んだ。  リビングルームの、いや、かつてリビングだった部屋の隅に、雄司が椅子《いす》に縛られたまま座っていた。その横がキッチンで、ドアはなく、二メートルばかり引っ込んでいた。  私は斜めから、思い切り椅子にタックルした。椅子と雄司が一回転してキッチンの中に転がった。銃声が背中で二発した。私もキッチンの陰からリポストした。足音が遠ざかった。殺し屋は逃げ出したのだ。  後を追う。撃った。しかし、黒い影は、一瞬早く階段の角に姿を消した。空き瓶を蹴散《けち》らしながら出口に向かっている音をさらに追った。だが、中庭に下りた時には、シトロエンはHLMを出ようとしているところだった。  私は拳銃を仕舞い、部屋に戻った。  雄司は、キッチンのタイルに頭をつけた格好で倒れていた。  縄を解いてやると、雄司はリビングを出、物も言わず奥の部屋に飛んで行った。私も後に続いた。 「由起子!!」雄司は、彼女の躰《からだ》を揺すっていた。 「大丈夫さ。クロロホルムでも嗅《か》がされたのだろう」  私はそう言いながら、心臓も撃ち抜かれ、仰むけに倒れている若者を見た。もう息はなかった。周りに鳥の羽が散らばり、焼け焦げのついた汚いクッションが横に転がっていた。笠原は用済みの人間をあっさりと殺してしまったのだ。 「俺はここに車を回す。君は由起子さんを担いで下まで下りてくれ。廊下と階段には気をつけろよ。障害物競争のトラックみたいだからな」私はそう言って雄司に笑いかけた。  雄司は頷《うなず》いたが、笑わなかった。  車を中庭に入れた。雄司は由起子をおぶったまま入り口に立っていた。  後部座席に彼女を寝かせた。陽《ひ》はすっかり落ち、廃墟には相応《ふさわ》しい青黒い色に変化していた。建物の一箇所から、ほんの少し明かりが漏れていた。外から見れば、そこにだけ生き物が棲《す》んでいるように見えるだろう。だが、その部屋には、金色のツッパリヘアーを血に染めた若者の死体が転がっているだけなのだ。  車を運転しながら、殺し屋のことを考えた。私は或《あ》ることが気になっていたのだ。  *  ホテルに戻ったのは八時半を少し回った時刻だった。  私達は裏のショッピングセンターのほうからホテルに入った。気を失っている由起子をあまり人目に晒《さら》したくなかったのだ。しかし、裏から入っても何人かの人と擦れ違った。由起子をおぶった雄司を、皆、好奇の目で見つめていた。  運の悪いことに、エレベーターの中で、日本人の中年女、二人と一緒になった。 「まあ、お嬢さん、どうかなさったの?」  紫色のワンピースを着た女が雄司に訊《き》いた。雄司は返事をする代わりに、私を見た。 「ちょっとワインを飲み過ぎて眠っているだけです」私が言った。 「でも、ワインを飲んで、男性ふたりに介抱されるなんて、羨《うらや》ましいわ」ステッチの入ったオレンジ色のブラウスを着たもうひとりが口を挟《はさ》んだ。「私なんか、犬の糞《ふん》に足を滑らせ、転んでしまいましたのよ。膝小僧《ひざこぞう》は擦り剥《む》くし、ハイヒールの踵《かかと》はダメになるし、散々でしたのよ。私パリには失望したわ。こんな汚い街だと思わなかった」  そう言って女は、擦り剥けた膝小僧と傷んだハイヒールの踵を私に見せた。 「あんなに犬の糞を路上に放っておいて、市民から文句が出ないのかしら?」もうひとりが、初めから歪《ゆが》んだ顔をさらに歪めて、吐き捨てるように言った。 「日本だったら新聞|沙汰《ざた》ね。私、日本に帰ったら、新聞に投書しようかしら……」  ふたりとも身につけているものは、新品だった。新品じゃないのは、洋服の部分から食《は》み出したところ。皮膚のたるんだ四本の腕には高級ブランドの大きな袋が垂れ下がっていた。厚化粧をしたふたりは、大福を食べ過ぎて腹痛を起こしたような表情で、パリに腹を立てていた。  やっと、エレベーターが十七階に着いた。 「ゆっくりと介抱してあげて下さいませね」ひとりが意味ありげにそう言い、どんなに頭の悪いオームでも、すぐに覚えられそうな甲高い声でふたりは笑った。  雄司は相当、頭に来ているようだった。由起子をおぶっていなければ、すごんでいたところだろう。 「パリの犬に排便をさせない方法をお教えしましょうか?」エレベーターを下りた私は、ドアが閉まらないようにボタンを押さえたまま言った。 「そんな方法があるの?」 「おふたりの、その顔で犬を威《おど》かせば、相手は必ず、神経を患い便秘になりますよ」  私は押していたボタンを外した。  売れ残った桃みたいな顔が口を開けたまま、私の前から消えた。 「笠原が待ち伏せしているかもしれないぜ」部屋の前につくと、雄司が小声で言った。 「キーカードはどこだ?」 「ジーパンの後ろのポケットだ」  由起子をおぶっている雄司の代わりに、私がポケットに手を突っ込んだ。 「由起子さんのキーカードはどうした?」 「バッグの中だ」 「笠原に奪われてはいないだろうな?」 「いや、大丈夫だ」  それでも、念のために拳銃を出し、ドアを開けても、すぐには中に入らなかった。  数秒後、私が電気のスイッチを押した。  人の隠れられる場所と言えば、入ってすぐ右にあるバスルームとベッドの横のクロゼットだけだ。一応、その中を調べてみたが、誰もいなかった。  雄司と私は、由起子をツイン・ベッドのひとつに寝かせた。由起子は、深い眠りに落ちていた。泣きわめいたせいで目の化粧が乱れてはいたが、そのことを除けば、寝具店のコマーシャルに出てもおかしくないやすらかな寝顔だった。 「医者を呼ばなくても大丈夫かな?」 「そのまま寝かせておけば、数時間後には目が醒《さ》めるさ」  小さいが居心地のよさそうな落ち着いた部屋。紺とスカイブルー、それにライトブルーの三色が縦に繋《つな》がっているカーテン。壁は白。  私は、椅子の上に載っていた由起子の衣類をベッドの端に置き、そこに座った。煙草《たばこ》に火をつける。  由起子をおぶっていたせいで、雄司は肩が凝ったらしい。立ったまま、しきりに首筋を揉《も》んでいた。そして、突然思い出したかのように冷蔵庫のところに行った。 「ビール、飲むだろう」 「いいね」  ビール瓶を私の前のテーブルに置いた雄司は、ベッドに腰を下ろした。 「済まない、迷惑かけちまって」  子供のように、ぶっくり突き出た唇の間から、礼の言葉が素直に出た。 「額から血が出てるぞ」  雄司は手の平で傷口を軽く撫《な》でた。 「間一髪。すげえタックルだったぜ」 「ともかく、皆、無事で良かった」 「どうして俺達の居所が分かったんだ?」雄司がビールを喇叭飲《らつぱの》みしてから訊いた。 「偶然、君があの車に乗せられるところを見ただけさ」 「俺達も運がいいな」 「それより、何故《なぜ》、ここが笠原に分かったかだ」 「俺もそのことを考えたさ。さっぱり分からん」 「君達は、どんな具合に拉致《らち》されたんだ?」 「妙なメッセージに引っ掛かったんだ」 「妙なメッセージ?」  雄司はベッドから起き上がり、小机の前にある椅子に座った。 「ああ。留美子の旦那《だんな》が昨日、死んだ。話があるから、すぐ屋敷に来てほしい、という内容のメッセージだった」 「語学がさっぱりの君が、よく内容を理解できたな」 「今になって考えれば、それが、そもそも変だった。相手は男でフロント係だと名乗った。たどたどしい日本語でな。そして、俺達が外出している間に電話があり、留美子・サンチェスさんが、メッセージを残したと言い、その内容を、やはりたどたどしい日本語で伝えたのさ。俺だって、少しは怪しんださ。で、サンチェス家に電話を入れた。そうしたら、秘書の男、名前は……」 「ミゲル・寺本」 「そう。そいつが電話に出て、姉貴は警察に行っているが、じきに戻るだろう、と言った。俺は仕方ないから、秘書にメッセージの内容を教えたんだ。秘書は、姉貴が、そういうメッセージをホテルに残したかどうかについては知らないが、サンチェスが死んだのは本当だと言ったんだ。だから、俺はそのメッセージが姉貴からのものだと信じてしまったのさ」 「それで?」 「俺達は、すぐにサンチェス家に行くことにした。服を着替えて、外に出た。その途端、笠原とあのチンピラに捕まって、部屋に戻されたんだ」 「部屋に戻ってどうしたんだ?」 「由起子が馬鹿をやったんだよ、東京を出る時に」雄司は、どうしようもない、と表情をして眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「何をやったんだ?」 「親父《おやじ》の秘密の金庫から金と書類を失敬したんだ。笠原は、俺がやったと思い込んでいて、それを出せ、とすごんだ」  私は、背筋を伸ばし、いかにも紳士然とした笠原が、おだやかな口調ですごんだ姿を想像した。 「ところが、今も言ったように、由起子が勝手にやったことだから、俺は知らないと答えた。俺と笠原が押し問答をやっていると、突然、由起子がスーツケースに入ったままになっていた衣類の間から、現金と書類が入っているらしい封筒を出したんだ。そして、言ったよ。�私が盗んだのよ。雄司が秘密の金庫のありかなんか知るわけないでしょう�。  笠原は、にやりと笑い、親父さんが知ったら嘆きますよ、とかなんとかお説教じみたことを言いながら、それをポケットに仕舞ったんだ」 「大金が入っているようだったか、その封筒には?」 「いや。大判の封筒だったが、意外と薄かったな。大した金額じゃないと思う」 「じゃ、書類のほうが大事だったんだな」私が呟《つぶや》いた。 「そうだろう。会長の秘密の金庫に入っていた書類だから、ケチな貯蓄の誤魔化しの証拠なんてものじゃないに決まってるさ」 「それから、どうしたんだ?」 「奴等は、由起子にパスポートと身の回りのものを持たせて、俺達を外に連れ出した。由起子に手を出すとは思えなかったが、ともかく、相手はふたり。ジタバタしても始まらないと思い、俺はおとなしくついて行ったんだ」 「君は、東西リクレーションという会社を知っているか?」 「東西リクレーションね……どこかで聞いたことがあるような気もするが……よく分かんねえ。でも、その会社がどうかしたのか?」 「今日の午後、笠原らしい男を見たような気がするんだ。東西リクレーションのあるビルの玄関ホールでね。その東西リクレーションは死んだリカルド・サンチェスと取引のあった会社なんだ」 「じゃ、その会社が笠原と関係があると思うのか、鈴切さんは?」 「分からん。そのビルにはたくさんの会社が入っているし、また、東西リクレーション以外の日本の会社もある。だから、そう言い切れない。それに、撃ち合っている時に、ちらっと見ただけで、笠原と俺が見た男とが同じ人物と断定は出来ないんだ。ただ似ていたような気がする。今はそうとしか言えない」 「しかし、どこから秘密が漏れたのかな?」雄司がぽつりと言った。「東西リクレーションの誰かが嗅ぎつけ、笠原に教えたのかもしれないぜ」 「ありうるが、なんとも言えないね」 「留美子の旦那が死んだことも知っていたし、絶対、その会社が怪しいぜ」 「それと同様にサンチェス家の人間が洩《も》らした可能性も考えられる。ところで、君は、サンチェスの死因は知らないんだろう?」 「病死じゃないのか?」  私は黙って首を横に振った。「殺されたんだ。拳銃で撃たれてね」  私は簡単に何が起こったか話し、明日、私が留美子の代わりにふたりをスペインに連れて行くことも伝えた。 「姉貴、どうしてるんだ?」 「今日、俺が屋敷に行った時は、ショックで寝ていたよ」 「明日のスペイン行きは、中止だ。身内の誰かが、彼女についていてやらなきゃ……」 「気持ちは分かるが、予定通りに明日、発《た》ったほうがいい。君は笠原という爆弾を抱えてることを忘れるな。君がパリでうろうろしていると、それだけ姉貴に心配をかけることになる」 「しかし、もう笠原はここを突き止めた。きっと、俺達が明日、スペインに行くこともつかんでいるはずだ。どこにいたって同じじゃないか」 「そうかもしれない。だが、そう思ってるのは君と俺だけだろう。少なくとも留美子さんは知らない。今日のことも話さず、黙って君が発つほうが彼女のためになると思うがね」  雄司はしばらく黙りこくっていた。手に持ったビール瓶が右に左にと揺れていた。 「分かった。あんたの言う通りにするよ」  私達はルームサービスを頼んで、簡単に食事をとった。雄司はあまり食べる気にはなれないようで、注文したローストビーフを半分以上残した。 「俺は、今から一旦《いつたん》、アパートに戻るが、すぐに引き返してくる。今夜は、君達のベッドのひとつを借りるよ」 「そうしてくれると、心強い」 「俺が戻って来るまで、絶対、何があっても、ドアを開けるんじゃないぞ。それに電話にも出るな。俺が君に電話をする時は、二度切ってから、もう一度掛けなおす。それが俺からだという合図だ」私はそう言い残し、ルームサービスで取った皿類と一緒に部屋を出た。  私は辺りに気を配りながら、ロビーに下り、かなり遠回りをして、事務所に戻った。後をつけてくる車はなかった。  事務所に戻った私はすぐに、身支度をした。クマをあらかじめ、預けておいてよかったと思った。シャツを着替え、ジャケットもサマージャケットにした。目的地コスタ・デル・ソルは、もう夏に違いない。  カルヴァドスが三分の一ほど残っていた。私は、その瓶をバッグの一番上に入れ、部屋の明かりを消した。その時、暗闇《くらやみ》で電話が鳴った。  12  相手はディスコみたいなところから電話をしているらしい。声がよく聞き取れなかった。 「誰だって!」私は受話器に向かって大声を出した。 「モンゴだよ。俺《おれ》のこと覚えてるだろう?」 「何だ、モンゴ。今、俺は出掛けるところなんだ。あんたとしゃべくってる暇はない」 「女にでも会いに行くのか?」 「用はなんだ。俺は忙しいんだ」 「そうつれないことを言うなよ。女なんか明日にでも会えるさ。待ちぼうけを喰《く》わせたほうが、相手からがっついてくるってもんだぜ」 「俺に女の扱い方をわざわざ教えに電話をしてきたのか」 「俺は、あの女をめっけたんだよ」 「あの女って、脇田典子をか!?」 「そうだよ。あのマヌカンが、ここにいるんだ」 「場所はどこだ?」 「興味あるかい?」 「決まってるじゃないか」 「幾ら出す。俺は昨日から今日にかけて、あんたの助手をやってやったんだぜ。それなりの報酬を頂かなくっちゃ」 「おまえを助手にした覚えはないぜ、調子に乗るな」 「じゃ、アバヨ。警察に協力して、滞在許可証の優遇措置でも願い出ることにするかな」 「三百出すよ」 「千フラン。相場だろう」 「五百でしゃべれ。場合によってはボーナスを払ってやる」 「まあ、いいだろう。あんたは、立派な絨毯《じゆうたん》の上で仕事をしているようには見えないから。それで手を打ってやるよ」 「場所はどこだ?」 「ポンドルリーにあるディスコだ。店の名前は�マルポリ�」  私は、三十分以内にそちらに着くと言って電話を切り、今度は刈谷雄司に、交換を通しての面倒な合図を送った。三度目の電話に雄司は飛びつくように出た。  向こうに異常がないか確かめた上で、簡単に遅くなることを伝えた。雄司は、起きて待ってると答えた。  バッグを盗難に遇《あ》わないように後部座席の下に押し込み、車を出した。  今日はやけに郊外と縁がある日だ。今度は南に向けて車を走らせた。南の高速に乗るとポンドルリーまではあっと言う間についた。  ポンドルリーのディスコには、昔来た記憶がある。記憶が正しければ、その頃は�ヌーバ・クラブ・インターナショナル�とか言って、何となくブラジリアンっぽい音楽をやっていたはずだ。  ところが、しばらく来ないうちに、何もかも新しくなっていた。  赤や青のチューブネオンが至る所に取りつけられていて、�スター・ウォーズ�の主人公ルークが持っているレーザー剣のような感じで光を発していた。スポットが、フロアを照らし、トランポリンで戯れる子供のように、ロックが店中を飛び跳ねている。それに合わせて、大勢の若者達が踊っていた。すこぶる人気のあるディスコらしい。  モンゴはフロアにいた。ライトブルーのワンピースを着た太った黒人女と踊っていた。女のポリバケツといった感じの大きな胴体の陰から、モンゴの躰《からだ》が見えた。まるでゴミ箱を漁《あさ》っている痩《や》せた野良犬みたいだった。しかし、この野良犬は、キリギリスのような性格をしているらしく、失業中だというのに、派手なギンラメのシャツを着て、踊り狂っていた。首に赤いスカーフを捲《ま》いている。そのスカーフには見覚えがあった。マヌカンのところから盗んだ宝石をくるんでいたものらしい。  私もディスコは嫌いではない。機会さえあれば、いつでも踊りに行きたい人間なのだが、今夜は、当然、浮かれるような気分にはなれない。私は、放蕩《ほうとう》息子をディスコまで探しに来た親父《おやじ》のような気分で、踊り狂っている若者達にぶつかられながら、フロアに入った。 「やあ、早かったな、探偵さん」とモンゴは、大きな鼻をこちらに向けて叫んだが、一向に踊りを止《や》める気配はない。 「どこにいるんだ、女は?」 「金は持ってきたか?」 「腰を一振りすればするほど、値を下げるぜ」 「分かったよ。女は腰を一振りすると金になるってのに、まったく男は損だぜ」  モンゴは腰を振り振り、女の手を引いてフロアを抜け出し、柱の陰まで行った。 「踊りながらでも、俺はちゃんと女を見張ってたんだぜ」と私を見て言い、「そうだろう?」と女に相槌《あいづち》を求めた。  図体のわりには顔の小さい女が頷《うなず》き、「この人、ずっと見張ってたわよ。私もだけど」と金魚がパクパクやっているみたいに口を開いて言った。  私は五百フラン札を奴《やつ》の手に握らせた。 「あの奥の暗がりにいるよ」モンゴは目で柱の後ろを示した。「俺も一緒に行こうか。女は男と一緒だぜ」 「どんな奴だ?」 「ウッディ・アレンみたいな顔をした東洋人。多分、日本人だろうがね」  おそらく、その男は宮入昇だろう。このディスコのある地区はランジス。宮入の住所と同じなのである。 「会うのは俺ひとりでいい」 「じゃ、俺達はボーナスをうんと弾《はず》んでもらえるのを期待しながら、踊ってるよ」  モンゴとガールフレンドはまたフロアに戻って行った。私は柱の陰から、モンゴの教えた辺りを盗み見た。暗くてよく分からないが、ふたつの影がしきりに話をしているのが見て取れた。  私はゆっくりと、そのテーブルに近づいた。 「失礼、脇田典子さんですね」  ストロボが点滅する中で、マヌカンは私を見つめ茫然《ぼうぜん》としていた。こけた頬《ほお》、大きな目、半開きの口。お化け屋敷の人形か、B級スリラー映画のヒロインみたいな表情だった。黒いスカートに黒いサマーセーター姿だったので、余計に青白い顔が強調されて見えた。  私は、断りもせず、彼女の正面にあった背凭《せもた》れのない椅子《いす》に腰を下ろした。 「君は、一体……」  隣にいた男が声を出した。確かに、モンゴの言う通り、ウッディ・アレンに少し似ていた。まだ、三十ぐらいなのに、髪はかなり薄かった。時代遅れのマイクみたいな大きな耳。細面。黒縁の眼鏡。その眼鏡を取ったら、そのままとれてしまいそうな鼻。 「俺は私立探偵の鈴切という者だ。お嬢さんに話がある」 「何だと! いきなり、人の席にやって来て、君、失礼だぞ!! 妙な言い掛かりをつけると……」  男はそこまで言うと言葉を呑んだ。自分の言おうとしていることの愚かしさに気づいたのだ。 「警察を呼ぶって言うのか?」 「…………」男は私を睨《にら》みつけた。  ディスコで口論するのは、周りに注目されなくていい。大声を張り上げても、睨みあっても、狂乱と喧噪《けんそう》の中では、都会の片隅でトカゲが決闘しているようなものだ。 「脇田さん、俺は警察の手先ではありません。あの事件の真相を知りたいと思って調査しているだけです。もし、あなたが犯人ではないなら、昨夜のことを話していただきたいのですが……」 「君は人違いをしているようだ。この人は、脇田なにがし、という人じゃない。さあ、もうここを出よう」  男は脇田典子の手を引いて立ち上がった。男はどこにでもあるポロシャツに白いコットンパンツを穿《は》いていた。膝《ひざ》の裏側のあたりに激しく皺《しわ》が寄っている。長い時間、同じ姿勢で座っていたらしい。  私が彼等の後を追おうとすると、柱の陰からモンゴが現れ、黙って彼等の前に立ちはだかった。  和製ウッディ・アレンは肩をいからせ、立ち竦《すく》んだ。 「俺はあなたの写真を見たことがある。もう一度座っていただけませんか、脇田さん」  私はマヌカンの後ろに立ったままそう言った。  いきなり、彼女が振り向いた。 「私じゃありません。私が部屋に入った時には、もうリカルドは死んでいました!」  曲がジョージ・ベンソンに替わり、ストロボが止まった。 「話を聞かせてくれますね」  脇田典子はこくりと頷いた。 「話す必要はない、ノリちゃん」 「黙っていてくれませんかね、宮入さん」 「どうして僕の名前を?」 「そんなことはどうだっていい。さあ、席に戻《もど》って」  脇田典子はゆっくりと席に戻った。宮入はテーブルの前につっ立ったままだ。ずり落ちそうになった眼鏡を人差し指で上げた。 「見下ろしてると、また眼鏡が下がりますよ。座ったら、どうです。あんたにも聞きたいことがあるんでね」 「僕にも聞きたいことが……?」宮入はそう言いながら、糸が切れた操り人形のように、腰を下ろした。  モンゴはまたフロアに取って返した。どうやら、私はモンゴにボーナスを弾んでやらなくちゃならないようだ。 「鈴切さんとおっしゃいましたね。あなたは誰に頼まれて彼女を追っているのですか?」宮入は観念したのか、落ち着いた調子で訊《き》いた。 「彼女を追っていたわけじゃない。さっきも言ったが事件の真相を知りたいだけです。そのために、どうしても脇田さんに会いたかった。彼女はパズルの大きな部分ですからね」  マヌカンはテーブルの上のグラスを取り、一気に空けた。そういう酒の飲み方が似合わない女だった。一度も落ちぶれたことのない女が落ちぶれた役を演じているようにしか見えなかった。 「昨日はどこにいたのですか? 宮入さんのところ?」 「いいえ。同じ仕事をしている女友達のところに一泊しました……。私、本当にリカルドを殺したりは……」切迫した声が、再び訴えた。  彼女が私に言いたいのは最後のフレーズだけなのだ。何度もこの台詞《せりふ》を吐かれては面倒だ。 「君の言葉を信じるよ。だから、俺の質問に少しつきあってくれないか?」私はそう言って話を先に進めようとした。 「ええ、いいわ」 「君が部屋に帰った時、リカルドは死んでいた。触ってみたのか?」 「私、夢中で彼の躰を揺すったの。でも、目は開いたままだった」 「それから、君はどうしたんだ」 「よく覚えていない。知らないうちに逃げ出してたわ」 「逃げ出すまで、どのくらい部屋にいた?」 「それも、よく覚えてない。多分、四、五分かしら」 「それから、友達のところへ行ったんだな?」 「ええ」 「落ち着いてからも、警察に出頭する気にはならなかったのか?」 「もちろん、警察に行くつもりになったわ。友達にもそうしろとすすめられたし……」 「じゃ、何故《なぜ》、すぐに行かなかったんだ?」 「やっぱり、あなたも私を疑ってるのね」マヌカンの声が涙声になった。 「そうじゃない。警察に出頭しようと思っていた君が二十四時間以上|経《た》っても、こんなところにいるのは何故なのか知りたいだけさ。どうやら、君の従兄弟《いとこ》に関係があるらしいな」私は宮入を見つめた。彼はフランセーズに火をつけ、溜息《ためいき》を隠すように、ゆっくり吸い込み大きく吐《は》き出した。 「私とリカルドの関係は、公に出来るものではなかったものだから……」  脇田典子はそう言って、ちらっと宮入を見た。 「ずいぶん、古風なんですね」私はたっぷり皮肉をこめて言った。  それまで壁に凭れかかっていた宮入が躰を起こし、諦《あきら》め切った口調で言った。 「話してもいいよ、ノリちゃん。どうせ警察には言わなくちゃならなくなるんだ。そうしたら、必ず支店長の耳に入る。今さら隠しても時間の無駄だよ」 「…………」 「俺の推理を聞かせてやろうか?」私はフィリップ・モリスに火をつけながら言った。ふたりは黙っているだけだった。曲がスローになり、一段と周りが暗くなった。 「今日の午後、俺は滝口支店長に会った。その時、�取引をスムーズに運ばせようとして、女を使ってるのか?�と率直に訊いてみた。彼は言下に否定した。満更、嘘《うそ》のようには思えなかった。リカルドが彼女に会うように細工したのは、あんただったんですね」 「ええ」宮入は、また眼鏡を人差し指で上げ、弱々しい声で言った。 「典子さんは、警察にリカルドとの出会いのことを聞かれたら、君があらかじめ計画したものだったことを話さなくてはならないだろう。警察で話せば、いつか滝口支店長の耳に入る。マスコミにそういうことを暴かれるのを極度に恐れている、滝口は会社に泥を塗ったと激怒し、君を解雇するかもしれない。典子さんは、君のことが気掛りで、一度、その話をしてからでないと警察に出頭する気になれなかったんだろう?」  私はマヌカンを見つめて話し終えた。  彼女は深々と頷いた。 「しかし、そんなことをして、あんたにどんな得があったんだい?」私は宮入を見つめて訊いた。 「この件はうまく纏《まと》めたら、支店長が僕を本社採用の人間にしてやる、と言ってくれたんだ。鈴切さんも知っているだろうが、現地雇いは、出世の道が少ない。僕は�ホームスタッフ�になりたかった。サンチェスさえ承諾してくれれば、ことは簡単に運ぶはずだった。ところが、彼は、法外な値段をつけて、なかなか、うんと言わなかった……」 「それで色仕掛けなんて子供じみた手を考え出したわけか」 「……そんなはっきりとした意図はなかった。確かに、僕はリカルドに接近してくれ、とノリちゃんに頼んだ。彼女が仲良くしていてくれれば、こちらに都合のいい情報が入ってくるかもしれないと思ったからね」 「で、君は、その申し出を簡単に引き受けたわけか」私は脇田典子を見て訊いた。 「ええ。女スパイみたい、なんて面白がりながら、気軽な気持ちで、指定されたレストランに出掛けて行ったの。それに、私、昔マタドールと恋をしたことがあったの。だから、相手がスペイン人だということに少なからず、興味を持っていたのよ」 「で、女のスパイは成果を上げたのか?」 「初めのうちは、昇さんが知りたがるようなことを、それとなく聞いたりしていたんだけど……」 「そのうち、君達は本気で愛し合うようになった……」 「ええ」マヌカンはまたちらっと従兄弟を見た。 「スパイとして送りこんだ女に裏切られた君はどうしたんだ?」 「どうもこうもない。大した情報をもたらしてくれたわけではなかったから、ノリちゃんに、サンチェスとの関係を打ち明けられても、動揺したりはしなかったよ」 「私、正直に昇さんの望みをリカルドに話し、正面から正々堂々と、リカルドを説得したのよ」 「で、リカルドの反応はどうだった?」 「やはり、商売に関することとなると、私が頼んでも、なかなかいい返事を返してはくれなかったわ。でも、仕事に口出すな、なんて高圧的な態度は、一度も取らなかった」  マヌカンは優しくて包容力のあった愛人を思い出したのか、目を遠くにやった。 「君には、妻の話はしなかったろうね?」 「時々、話したわ。でも、決して悪くは言わなかった。初めのうち、それが癪《しやく》で、嘘《うそ》でもいいから、彼女の悪口を聞きたいと思ったけど、しばらく経つと、何となく、リカルドの気持ちが理解できるようになったわ。彼、留美子さんを尊敬してはいたけれど、愛してはいなかったの。無論、結婚した当初は愛していたかもしれないけど、もうとっくに愛は醒《さ》めていたのよ」 「君はリカルドと結婚したかった?」 「…………」典子は俯《うつむ》いたまま黙っていた。 「妻の留美子さんに匿名の手紙を出したのは、君か?」 「…………」 「そうなんだね」  脇田典子は、一度宮入を見てから、こくりと頷いた。「ど、どうしても、私、私達の関係を公にしたかったんです。それには、まず、奥さんに知ってほしい。そう思いました」 「留美子さん、いや妻が知れば、離婚になると踏んだわけか?」 「そこまで、具体的には考えていませんでした。たとえ離婚出来なくても、私達の関係に新たな展開が生まれる、と思ったのです」 「例えば、別居とか?」 「ええ」 「しかし、リカルドは向こうで手広く商売をやっている人間だ。たとえ、別居したとしても、彼がパリに住むわけにはいかなかっただろう。その場合、君は、仕事を捨て、スペインに行くつもりだったのか?」 「……そのつもりでした」 「リカルドが君に、サンチェス家の人間について話したことはなかったかい?」 「あります」 「どんなこと?」 「リカルドは家族のことで頭を痛めていたようでした。弟のアントニオと彼は全くうまくいっていなかったし、娘のマリアは、再婚した父を嫌い、義母にも冷たかったそうです。それに、アントニオの妻のコリーヌは浮気女で、金目当てでアントニオと結婚した……そんな話をしていました」 「弟のアントニオとは、どううまくいっていなかったんだ?」 「詳しいことは聞いたこと、ありません。ただ、小さい時から仲が悪かった、とリカルドは言っていました」 「で、リカルドのほうはどうだった、離婚を考えていたのか?」 「おそらく、その事は考えないようにしていたらしいわ。私と一緒になりたがってはいたけれど、離婚には金が掛かるでしょう……」  脇田典子は、マリアが言っていたことと同じことを言った。 「リカルドを恨んでいた者を知らないか?」 「知りません」 「取引の相手にもいなかったか?」 「さあ……でも、誰かに威《おど》かされていたようで……」 「威かされていた? 誰に?」 「それは分からない。でも、私のところに、リカルド宛《あて》の封書が届いていたのよ、差出人不明のね。リカルドは私の前で、その封筒を開いたんだけど、すぐに隠すようにして、寝室に持って入ってしまったの。その手紙は、新聞や雑誌の活字を張り合わせたものだったわ。ちらっとしか私は見ていないんだけど、スペイン語だったわ。私、スペイン語なんかからっきしダメだから、彼に何よ、それって訊いたんだけど、悪い冗談だ、と彼は答えるばかりで、何も教えてもらえなかった」 「リカルドは、それをどこにしまったか覚えてるか?」 「確か、手帳の間に挟んでたような気がするけど、はっきりしない」 「昨日、リカルドが君の部屋に来ることは知っていたのか?」 「いいえ。昨日は、私のところに来る予定はなかったわ。私、或《あ》るモデル・クラブの人に会う日だということは、リカルドも知っていたはずなのに……」  典子のいない間を利用して、リカルドはあの部屋で誰かに会っていたらしい。おそらく、匿名の手紙を送りつけた奴が、その相手だろう。金を要求され、リカルドが拒否する。そして、警察に知らせると脅す。怒った相手がリカルドを射殺……。案外、こんなつまらない、三流ポルノの台本でも使わないような筋書きだったのかもしれない。 「で、いつ君は警察に出頭するつもりなんだ?」 「明日の朝に行くつもりよ」そう言ってマヌカンは目を伏せた。 「ところで、宮入さん、妙なことを訊くが、君の会社に最近になって出入りしている人間はいないか?」 「客、それとも、社員?」宮入はそっけなく訊き返した。 「どちらでも構わないんだが……」 「社員には最近入った人間はいないし、客となると分からないね……」 「長身で、茶のスーツを着て、よくサングラスを掛けている男なんだがね……」 「それだったら、支店長を頼ってやってきた笠原という人じゃないかな? カナダ在住の日本人なんだが、あの人が何者なのか、僕には分からない」  やはり、エレベーターで擦れ違った男と雄司を殺そうとした男は同一人物だったのだ。一応東西リクレーションと刈谷雄司が繋《つな》がったことになるのだが、どのような繋がりなのかは、まったく見当がつかない。それに、リカルド殺害の件が、以上のふたつに繋がっているのかどうかもさっぱり分からない。 「今夜の会見のことは、秘密にしておきましょう。お互いのために。そして、明日は必ず警察に行きなさい。これ以上逃げ回っていると、本当に犯人にされてしまいますよ」  暗がりに黙ったまま座り込んでいるふたりから離れ、私はモンゴを探した。彼の姿はフロアにはなかった。  私の背中を指で叩《たた》いた奴がいた。 「だいぶ収穫があったようだな。あんたにとっても俺にとってもいいことだ」  振り向くと、モンゴが大きな鼻を開いて笑っていた。右の掌《てのひら》が私に差し出された。  私は五百フランを取り出した。 「どうやって、彼女を見つけたのか言ってみろ」 「情報源は秘密。この商売の常識だろう」モンゴはにっと笑った。 「じゃ、三百しか払えんな」私は五百フラン札を仕舞いかけた。 「ち、ちょっと待てよ……。話したら、絶対五百フランくれるかい?」 「約束するよ」 「よし。あんたを信じて本当のことを言っちまおう。神様のおかげなんだ」 「なるほど。あんたがここに来たら、彼等が来ていた?」 「いや、その逆だ。俺が踊っていたら、彼女達が入ってきた。さあ、早く約束を果たしてくれよ。どうやって見つけようが、結局は同じことだろうよ」  私はそっぽを向いて、五百フラン札を奴の掌に落とし、出口に向かった。 「また、神様がウインクしてくれたら、連絡するよ」  私は後ろを振り向かず、右手を上げた。ホイットニー・ヒューストンのスローナンバーが聞こえていた。  ホテルに戻ったのは午前二時すぎだった。雄司は起きていた。由起子は一旦《いつたん》、起きたがまた眠ったとのことだった。  私は東西リクレーションと笠原恒夫が繋がっていることだけを雄司に教えた。  事務所から持ってきたカルヴァドスをふたりで空にして床についた。  ベッドの寝心地は良かったが、眠りは浅かった。  13  定刻に離陸したAF511は定刻にマドリードに到着し、乗り継ぎもスムーズにいった。イベリア航空353は目的地マラガに午後二時一分に着いた。  オルリー空港でもマドリードのバラハス空港でも、笠原の姿はなかった。SPのような仕事は疲れる。こんな仕事を長くやっていると、自然に目が悪くなり、へたをするとカメレオンのようにそれぞれの目玉が独立した動きをするようになるかもしれない。  機内アナウンスでは、気温は二十四度とのことだった。だが、空港にはすでに初夏の匂《にお》いがしていた。  空港ロビーに出ると、制服制帽の年の頃三十くらいの男が�タクシー、タクシー�と声を掛けてくる男達を掻《か》き分け、私達に近づいて来た。  男はカルロスと名乗った。オルリー空港から留美子に電話を入れた際、この名の運転手が出迎えることを私は知らされていた。しかし、私は彼の身分証明証を求めた。カルロスは怪訝《けげん》な顔をしたが、文句は言わなかった。確かに本人だった。笠原が偽の運転手まで手配しているとは思えなかったが、念には念を入れたかったのだ。  空港のキオスクでコスタ・デル・ソルの地図を買った私は空港を出た。表にリムジーンが、太陽の光を受けて黒光りしていた。雄司達はすでに車中にいた。  今朝起きた時から、ずっと由起子は機嫌が悪かった。何をあたえても喜ばず、何もあたえないと泣きわめく子供のような態度を取っていた。 �こんなガキのために……�という気持ちを私は何度も抱いた。だが、相手がどんな人間であろうと、無事にサンチェス家に送り届けるのが私の役目なのだ。それに、雄司のことがある。この若者は、そんな由起子とでも一緒にいたいらしい。これは是非を論ずるような問題ではないのだ。 「マフィアになったような気分だぜ。ウインドーは防弾かな、兄貴」しばらくリムジーンの内部を見回していた雄司が、突然言った。  今朝から、雄司は私のことを�兄貴�と呼ぶようになり、ヤクザの兄貴分を見るように私を見つめるようになった。昨日の一件ですっかり私を信用したらしい。  すぐに人を疑い簡単に人を信用するタイプの人間なのだ。この裏のない目付きを利用して、手の汚れるヤバイ仕事を雄司にやらせていた連中が大勢いたに違いない。 「この運転手も手が早そうな顔をしてるぜ、そう思わないか、兄貴」 「サンチェス家はヤクザじゃないぜ。姉貴を見れば分かる」 「そりゃそうだ。だが、これが防弾で腕っぷしの強いのがいたら助かる、と思っただけさ」雄司はウインドーを軽く叩《たた》きながら言った。ギャングのボスが頼もしい用心棒の肩を叩いているような雰囲気だった。  リムジーンは凄《すご》いスピードで走っていた。プエルト・サンチェスはマラガ空港から六十五キロ以上離れているのだが、この調子で走れば、一時間も掛からないで着きそうだ。  やたらと不動産屋の立て看板が目立ち、建設中の白い建物が、薄茶色の土の上にぽつりぽつりと建っていた。  私は買ったばかりの地図を拡《ひろ》げた。  トレモリノスという街を過ぎたあたりから、左側に地中海が見えて来た。ちょっとした天候のいたずらで、道路のほんの数十メートルだけに霧が掛かっていた。  私は後方の車に、時々注意を払い、リムジーンを追い抜いて行く車のドライバーの顔をいちいち確認した。  黒いリムジーンは人目を引く。どのドライバーもちらっとこちらを見てから追い抜いて行った。  やがて、マルベージャのメインストリートに出た。人通りはほとんどなく、店もすべて閉まっていた。 「ゴーストタウンみたい」由起子がつまらなそうに言い、ハンドバッグの中から手鏡を取り出し、化粧直しを始めた。 「スペインの店は昼間は休みなんだ。夕方にならないと開かないんだ」 「変なの」由起子がそっけなく言った。 「よくそんなで商売がやれるな」雄司が驚きの声を上げる。 「働くのが美徳の日本人から理解できない場所だよ」  十分も走らないうちに、街並は消え右側に銀色に光る山並が現れた。  それからさらに十分ばかり走ったところで、リムジーンは幹線道路をはずれ、左に曲がった。正面に、周りを木立に囲まれた白い大きな門が見えた。リムジーンはその前に停《と》まった。門番小屋が右手にあり、そこからレイバンを掛け、臙脂色《えんじいろ》の制服を着た警備員が出て来た。だらだらと歩いて、リムジーンに寄って来た警備員は、運転手と一言二言、言葉を交わした。警備員の腰には、S&W357らしい拳銃《けんじゆう》がぶら下がっていた。  まるで、大統領官邸かマフィアの邸宅に着いたような感じだった。雄司が思ったこともあながち間違いではないかもしれない。このリムジーンのウインドーガラスは防弾になっている可能性はおおいにあり得る。  車は門を通り、舗装された一本道をまた走り出した。道の両側は鬱蒼《うつそう》とした樹木に被《おお》われ、その何本かは道のほうにかしいでいた。まるで、この道を通る人達に敬意を表しているように見える。リムジーンに警備員、そして、ブローニュの森に迷い込んだとしか思えないこの敷地。これだけのものを所有している人間なら、樹木に最敬礼させることも不可能ではないだろう。  雄司も由起子も黙っていた。由起子が関東一のヤクザのひとり娘で、数億円もする家に住んでいたとしても、この屋敷に来たら、単なるメイドのような気持ちになるに違いない。  道の前方に屋敷が見えてきた。赤茶色のスペイン瓦《がわら》と白い壁。兵隊を一個連隊、駐屯《ちゆうとん》させてもおかしくないほどの広大な屋敷である。建物の正面が広場になっていて、中央がちょっとした庭園になっていた。背の高い赤や黄色の花が咲き、棕櫚《しゆろ》の樹が、ショーのフィナーレを飾る�リド�のダンサーのように葉を拡げている。  リムジーンは、その庭園を回り、玄関に続くスロープを上がった。玄関の前はアーケードみたいになっていて、柱はすべて大理石だった。日ざしが遮られ、車内が暗くなった。  車が止まると、木製の大きなドアが開き、正装した執事が現れた。  車のドアが自然に開いた。といっても自動ドアではない。執事が、音もなく、するすると近寄り、音を立てずにドアを開けたのだ。執事は、中年の小柄な男で、笑みを浮かべることもなく�ようこそ�とスペイン語で言った。  私は�グラシアス�と答えた。だが、雄司も由起子も、大きな屋敷、機械仕掛けの人形めいた執事に圧倒されたのか、ただ茫然《ぼうぜん》とした様子で車を降りた。  ホセ・サンチェスなんて表札は、コテ跡の残る白壁のどこにも出てこなかった。おそらく、この街の役場よりも大きな建物に住んでいるサンチェス一家には表札も番地も必要ないのだろう。この一家のことは誰でも知っていて、誰もが本当の生活ぶりを知らない。そんな一家のような気がした。  執事に導かれ、私達は中へ入った。ドアが閉まり、リムジーンが再び出て行く音が微《かす》かに聞こえた。  小暗い玄関ホール。私の事務所兼住まいの四倍はありそうだ。天井は、曲芸師に空中ブランコをやらせることができるほど高かった。明かり取りの窓には、細かく桟《さん》が嵌《は》めこまれている。壁一面に絵が描かれていた。図柄はよく分からないが、アラブ風のものだった。右手に大きな階段がうねり、左手は奥に続いているらしい廊下だった。  私達は玄関の正面に位置している部屋に通された。 「どえらい金持なのね」由起子が部屋を見回しながら溜息《ためいき》を洩《も》らした。 「なんか悪いことしてなきゃ、こんなところに住めないぜ」と雄司が独り言のように言う。自分の姉の嫁ぎ先だということなど、すっかり忘れてしまっている様子だ。 「私の親父《おやじ》、悪い奴《やつ》だけど、まだまだ小悪党なのね」 「悪いことをしているとは限らんよ。この辺は、今でも大地主がたくさんいるんだ」  私はそう言いながら、ルイ十六世様式の肘掛《ひじか》け椅子《いす》に腰を下ろした。脚部に溝彫りがしてあり、張り地は赤やピンクの花が咲いていた。三人掛けのソファーの両側には、ギリシャ風の彫刻が置いてあった。左側が女で、右側が男。ふたりとも、地中海の乾いた陽《ひ》の光を求めているような顔をしている。  壁は大理石。天井はアーチを描き、部屋は半円形をしていた。細かい桟の入った窓があった。そして、窓の向こうは中庭らしい。噴水が力なく水を噴き上げているのが見えた。  全体に沈んだ雰囲気が漂っている。この家の長男、リカルド・サンチェスが死んだこととは関係なく、以前から陰鬱な家らしい。  雄司達は、部屋の中を動き回り、そこらじゅうにある装飾品を触ってみたり、ライティング・ビューローの扉を開けてみたりしていた。興味があってそうしているのではないことは、一目瞭然《りようぜん》だ。空気が淀《よど》み、時間が時を刻むのを忘れてしまったような部屋の居心地が悪いらしい。 「落ち着いて、その辺に腰を下ろして」私はフィリップ・モリスに火をつけながら言った。ふたりは、言われた通り、ソファーに腰を下ろした。  と、その時、私の後ろでドアが開いた。  ドアを開けたのは執事だった。女が車椅子を押して入ってきた。その椅子には痩《や》せた老人が座っていた。  私が立ち上がると、それにつられるように雄司と由起子も腰を上げた。 「お客様はソファーのほうへ」執事が、ワープロで文字を弾《はじ》き出すような無味乾燥な口調で言った。  私は、雄司の隣に行った。  車椅子を押している女は、長身で、年格好は三十を少し回ったくらいだった。暗いベージュ色の巻きスカートに同色のジャケットを着、衿《えり》のない白いブラウスが豊かな胸を被《おお》っている。ブルネットの髪は、ソバージュ風に緩くウエーブがかかっていた。車椅子を持った手の先が銀色のマニキュアで光っている。 「スズキリです」私はスペイン語で、車椅子の老人に自己紹介した。 「ホセ・サンチェスだ」当主は嗄《しわが》れた声で言い、「彼女はコリーヌ。次男の嫁じゃ」  私は型通り、刈谷雄司と西郷由起子を紹介した。こういう場を、おそらく経験したことのないはずのふたりは、やや緊張した面持ちで、無言のまま握手を交わしていた。  コリーヌは昨日のうちにこちらに戻って来たらしい。ということは、アントニオも一緒なのだろうか? 「まあ、座りたまえ」ホセが静かに言った。そして、コリーヌにも席に着くように言った。 「シェリーはどうかな? セニョール・スズキリ」 「いただきます」  ホセは執事に何も命令を下さなかった。代わりに、コリーヌが用意するように言った。  ホセ・サンチェスはとっくに七十歳を越えているらしい。神父が着るような黒っぽい服を着、膝《ひざ》に、羊毛百パーセントに違いない茶の毛布をかけていた。顔は細く顎《あご》がしゃくれている。顎から首にかけての皮膚も、のび切ったアコーデオンみたいだった。頭は禿《は》げていて、両側に白髪混じりの髪がほんの少し残っているだけだった。どこを見ても生気のない老人という感じだが、大きな目だけは、鷹《たか》のように鋭かった。 「わしの街に来るのは初めてかな?」 「ええ。コスタ・デル・ソルに来るのも初めてです」 「そうか、そうか……」老人は、意味もなくそう言い何度も頷《うなず》いた。そして、一瞬沈黙した後、またゆっくりと話し始めた。 「ところで、彼等は私達が理解出来る言葉を話せるのかね?」ホセ・サンチェスは視線を雄司達に移しながら訊《き》いた。 「彼等に通じるのは日本語だけです」 「フランス語もダメかね?」  私は首を横に振った。 「そうか、そうか……それは残念なことだ。わが家の人間は、皆、フランスに居たことがあるんでな……もしかしてと思って聞いてみたんじゃが……」 「そのうち彼等もスペイン語を覚えるでしょうよ」 「それまで待てるかな? 老人になると、段々短気になるものだ。余命いくばくもない人間の宿命じゃよ」ホセは弱々しく笑った。  執事が酒瓶とグラスを持って戻ってきた。グラスをホセ以外の人間の前に並べた。 「わしは飲まないんじゃ。医者に止められてる。どうぞ、勝手にやってくだされ。特製のシェリー酒なんじゃ。わしが街の或《あ》る人間に作らせているものなんだ」  確かに焦げ茶の瓶にはラベルが貼《は》ってなかった。  執事は、給仕をし終わると、また音もなく扉の向こうに姿を消した。  私は一口飲んでみた。辛口のシェリー。旨《うま》いと思った。 「あんたはリカルドに会ったことはあるのかね?」 「一度だけ、ヌイイの屋敷で会いました」 「そうか、そうか……」ホセは肩を落とし、目を伏せた。 「お父様、お兄さんの話はなさらないほうがいいわ」コリーヌが言った。 「何故《なぜ》、息子の話をしていけないんじゃ?」か細い声が鋭く訴えた。 「だって、興奮なさってはいけないって先生がおっしゃっていたでしょう」 「いい息子じゃった」ホセはコリーヌの言葉を無視して呟《つぶや》くように言った。「頭も良かったし、わしに似て野心家でもあった。冗談をとばしてふざけている間に、さっと商談をまとめ建売の別荘なら十件まとめて、売ってしまうような男じゃった」 「お父様。アントニオだって、お父様の息子ですよ。お忘れになったの」そう言ったコリーヌの顔は笑っていたが、言い方には刺《とげ》があった。普通にしていても上向き気味になっている鼻の先がいっそう天井を向いていた。 「忘れるはずはなかろう? アントニオも可愛《かわい》い息子じゃ。だが、リカルドは死んだ。もうわしの思い出の中でしか生きておらん人間になってしまったんじゃ……」 「お客様がお困りですわよ。皆さんは、リカルドの死と関係ないんですから……」 「……そうだったな。失礼した。しかし、ルミコもリカルドも、彼等がパリ経由でわしの街へ来るなど、ここを出る時は言っておらんかったな。昨日、ルミコからの電話で、初めて聞かされたんじゃ」 「突然、こちらに来るようになった、ということのようです。そして、しばらく、あなたの屋敷に滞在することになっているらしい」 「その話、リカルドは知っていたのかしら?」コリーヌがスペイン語で訊《き》いた。 「ルミコさんの話では、知っていたとのことです」 「彼女の話ではね……」コリーヌは含みのある笑みを浮かべて言った。 「ルミコはいい女だ。私は初め日本人との結婚には反対じゃったが、今はリカルドの妻がルミコで良かったと思っとる。その人の弟じゃ。好きなだけいるといい。大歓迎じゃ」  私は、その旨を雄司達に伝え、�グラシアス�と礼を言うように小声で示唆した。  ふたりは、取ってつけたような口調で、礼を言った。  ホセ・サンチェスは上着の胸ポケットから片眼鏡《モノクル》を取り出し右目に嵌《は》めた。  時代物らしいモノクルだった。そして、それを支えている肉も、モノクルに負けず劣らず年代物である。しかし、モノクルのほうは時が経《た》てば経つほど、値打を増すだろうが、ホセ・サンチェスの肉は、壁を伝わるひびのように、時が進むにつれて、疎むべき代物に変化するだけなのだ。  モノクルを嵌めた当主は、愛する切手を鑑賞するマニアのような感じで、雄司を覗《のぞ》き込んだ。 「目の辺りがルミコにそっくりじゃ」  何を言われているのか分からない雄司は居心地が悪いらしく、脚を二度組み換え、シェリー酒を一気に空けた。 「ところで、セニョール・スズキリ。リカルドに愛人がいたというのは、本当かね?」  私は黙って頷いた。 「何故、その女は息子を殺したのじゃろう。やはり……」 「まだ、その女が犯人と決まったわけじゃありませんよ、セニョール・サンチェス」 「しかし、その女は逃亡中だという話じゃろ」 「逃げ出したからといって、殺したとは限らない」 「セニョールは他に犯人がいると思っておられるのかな」モノクルがじっと私を見つめた。 「何も思ってはいません。ただ結論を出すのは早いと言いたかっただけです」 「犯人が誰にせよ、男であろうが女であろうがじゃ、そいつを殺してやりたい、この手で。だが、この年じゃ、それもできん」ホセの歯の間から息が漏れた。 「興奮は禁物ですよ、お父様」  コリーヌが立ち上がり車椅子の後ろに行き、ホセの右肩に手をおいた。だが、ホセは邪険な手付きでその手を払った。コリーヌの銀色のマニキュアを塗った爪《つめ》が、一瞬、茹《ゆ》でた蟹《かに》の足のように硬直した。 「さあ、そろそろお休みになる時間ですわよ」  ホセ・サンチェスは壁掛け時計に目をやった。午後三時四十分。 「じゃ、そろそろわしは失礼するよ。君達の部屋は用意させてある。執事のアルベルトに案内させる」  老人は終始、一度も車椅子の背凭《せもた》れに寄り掛からなかった。寄り掛かったら最後、そのままあの世に行ってしまうと危惧《きぐ》しているかのように、常に躰《からだ》を前屈みにしていた。  ドアの向こうに姿を消すまで、その姿勢は変わらなかった。  ホセ達と入れ替わりに、執事が入って来て部屋に案内すると言った。私達は長い廊下を渡った。左側にドアがずらりと並んでいた。そのひとつが開いている。ビリヤードの台が見えた。そこはゲーム室らしい。右側は中庭《パテイオ》である。 「御主人は足が悪いのか?」私がアルベルトに訊いた。 「いえ、心臓がお悪いのです。なるべく安静にしているために車椅子を利用なさっているのです」  それぞれの部屋にインターホーンか電話が設置されているのだろうが、廊下を歩く時はウォーキートォーキーを持っていたほうがいい。もし、ホセが発作をおこしたら、同じ屋根の下にいても、死に目に会えない可能性があるくらい長い廊下なのだ。  リカルドと留美子の住まいは屋敷の裏手にある一軒家で、雄司達はそちらに寝泊まりすることになっていた。きっと、留美子がそう指示したのだろう。  ちょうど私が泊まる客室の横に、裏手に通ずるドアがあり、そこから雄司達は出て行った。ドアの向こうに瀟洒《しようしや》な家が二軒、向き合うように建っていた。どうやら、もう一軒のほうはアントニオ夫婦の住まいらしい。  私は自分にあてがわれた部屋に入った。  あらかじめ、客用に作られた部屋らしく、超高級ホテルも顔負けの室内だった。テレビ、ステレオ、冷蔵庫、酒瓶のいっぱい詰まったキャビネット……。  私は窓を開け、外を眺めた。微風に操られて海の香りが入ってきた。私は目を瞑《つむ》り、その香りを嗅《か》いだ。海辺にやってくるのは、二年ぶりのことなのだ。去年の夏は、経済的な理由でバカンスが取れなかった。いや、去年に限らず、バカンスが取れないのは、いつだって経済的な理由によるのだが……。  私は再び目を開けた。  芝生が張り巡らされた庭に大きな瓢箪《ひようたん》形のプール、その横にガラス張りの建物、といったものが、いっぺんに私の目に飛び込んできた。ガラス張りの建物は、ガーデンパーティーの時などに使われるホール兼ダイニングらしい。  プールの向こうに階段があった。それを下りていくと、浜辺なのだろう。無論、プライベートビーチだということは調べなくても分かる。樹木の間から、薄く雲のかかった空に溶け込んでいる海が見えた。毎日、こうやって地中海を眺めていると、地中海全体を所有している気分になるのではなかろうか?  窓から離れた私は、着ているものを脱ぎ、シャワーを浴びた。そして、昼寝をすることにした。  昨夜、あまり眠っていなかった私は、すぐに眠りに落ちた。  14  トランクス一丁で寝ていた私は、少し肌寒さを感じ、自然に目が覚めた。  午後七時十二分前。  私はベッドから出て、また外を見た。男がひとり芝生に水をやっていた。男の動きは日光浴しすぎたミミズのように鈍かった。昼寝《シエスタ》をしている時が一番元気がいいタイプの雇い人らしい。  枕元《まくらもと》の電話が鳴った。  執事がアントニオ・サンチェスからの伝言を伝えてきた。カジノのレストランに私達を招待したいので、七時半に、用意した車に乗ってほしいとのこと。  リカルドの弟がどんな男なのか興味があった私は、招待を受けることにした。雄司と由起子にその旨を伝え、私は身仕度に取り掛かった。  七時半すぎに雄司と由起子が、私の部屋にやって来た。  雄司はフォーボタンの黒いダブルのジャケットにライトグレーのパンツを穿《は》いていた。由起子のほうは、アイボリーブルーのスペンサージャケットにサスペンダーで吊《つ》るした白いロングスカート。ブラウスはシルク。それに紺色のネクタイを緩めに締めている。 「ふたりとも決まってるじゃないか」 「だって、カジノってきちんとした格好じゃないと入れてくれないんでしょう? 雄司ったらジーパンで行こうとしたのよ。この人、何も知らないんだから」  そう言った由起子は相変わらず、ツンとした冷たい表情をしていたが、不貞腐《ふてくさ》れたような様子は消えていた。  由起子の頬《ほお》が多少なりとも、緩むのはカジノやディスコ、それにファッション・ブティック、宝石屋に顔を出す時だけのようだ。 「俺《おれ》は苦手なんだよ、こういう格好は」 「でも、ちゃんと用意してきてるじゃないか。似合ってるぜ。とても、何とか組のオニイサンには見えない」  雄司は片方の手をパンツのポケットに突っ込み、照れ臭そうに顔を歪《ゆが》め笑っていた。 「俺は足を洗ったんだぜ。着る服も変えようと思って買ってきたんだよ、兄貴」 「兄貴、なんて呼ぶうちは、おまえはまだヤクザだよ」 「口癖さ。今に言わないようになるよ」  私は執事に電話を入れ、長い廊下を渡り玄関ホールに向かった。  私達の乗ったリムジーンは、国道三四〇を西に向かって十分ばかり走り、山側に弧を描いてカーブしている舗装道路に入った。なだらかな勾配《こうばい》をリムジーンはゆっくり上がって行く。貸し別荘の看板の出た小奇麗な建物やアパートメントが木立の間にぽつりぽつりと見えた。やがて、回教寺院を思わせる重厚な建物が、黄昏《たそがれ》がかった山並を背にして現れた。しかし、回教寺院と間違う者はひとりとしていないだろう。 �カジノ・アントニオ�という黄色いネオンとルーレットをかたどったオレンジ色のネオンが煌々《こうこう》と輝いていたのだ。  そのネオンの下にリムジーンは止まった。制服制帽姿の男がやってきて車のドアを開けた。階段を上る。先程の男が入り口のドアを開けた。  玄関ホールの左側はゲーム場になっていて、スロットマシーンが並んでいた。そして、右側は、フランスで�ブール�と呼ばれているルーレットに似たゲームをやる場所になっている。�ブール�のほうには観光客らしいグループが溜《た》まっていて、小さなゲームに一喜一憂していた。  カジノのエントランスは突き当たりにあった。中に入った。  タキシード姿の小柄な男が思い切り背伸びをしているような歩き方で私達のほうへ近づいて来た。 「セニョール・スズキリで」 「そうだ」 「こちらにどうぞ」  私達は黙って後に続いた。  普通なら、パスポートか身分証明証を提示するのだが、流石《さすが》にオーナーの招待客とあって、そんなことをしなくても、すんなり奥に通された。  ギャンブルルームには客の姿はなかった。まだ、時間が早いのだ。  四台あるルーレットの台も、ブラックジャックのコーナーも神妙な雰囲気で、これからやってくるギャンブル好きをスッテンテンにしようと待ち構えていた。  シャンデリアに大理石の柱、幾何学模様の大きなタペストリー……。 「凄《すご》いわ! 映画みたい」由起子が感嘆の声を上げた。「私、一度でいいからこんなところに来てみたかったのよ」 「俺は、由起子の親父《おやじ》が開く花札|賭博《とばく》のほうが性に合ってるよ」  雄司は私にウインクしながら、由起子をからかったが、彼女は何も答えずルーレット台の端を男の頬でも撫《な》でるかのように軽く触れていた。  レストランは奥にあり、ギャンブルルームを見渡せるような造りになっている。私達は、ルーレット台がよく見える端の席に案内された。テーブルの用意はすでに出来ていて、皿が五枚並んでいた。  二組の客がすでにテーブルに着いていた。蝶《ちよう》ネクタイ姿の白髪頭の紳士。それに、いかにもアタッシェ・ケースが似合いそうな若者がふたりにその連れの女。 「私、一度、東京の秘密クラブでやったことあるのよ、ルーレット。親父にバレてぶん殴られ、目のあたりがボコボコに膨れちゃったけどさ」由起子はキャスターに火をつけながら、一瞬|眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。 「今夜はどこも膨れないですむぜ。無論、財布もな」私がからかい口調で言った。 「まあ、見てらっしゃい。絶対、勝って帰るから……」由起子が戦闘的な目で私を見ていた。  彼女の目が私の後方に向けられた瞬間、 「ボンスワール」と突然、私の背中でフランス語が聞こえた。  振り向くと、コリーヌ・サンチェスが立っていて、にこやかな笑みを浮かべていた。半分肩の見える黒のブラウスに同じ色のリーム・ボトムのスカートを穿いている。 「紹介しますわ。夫のアントニオです」  コリーヌの後ろにいた男が、やはりフランス語で挨拶《あいさつ》した。私は、雄司と由起子をアントニオに紹介した。  アントニオは、リカルドより体格は良くなかったが、かなりの長身だった。濃い眉《まゆ》と黒い瞳《ひとみ》が印象的な、女好きのする顔をしていた。兄を失った悲しみの影は、どこにも見当たらない。 「あんなことがあったものですから、屋敷のほうは陰気でしょう。主人と相談して、こちらにいらしていただいたわけですの」コリーヌが薄い唇から白い歯を覗《のぞ》かせながら、軽い口調で言った。 「お兄さんの死を悼《いた》んで、カジノも喪に服しているのかと思ってましたよ」私が言った。 「兄は一流の実業家でした。彼に敬意を表する意味でも、そういうことは行わないことにしたのです」アントニオがしめやかな声を出した。 「なるほど。そういう考え方もあるんですね」 「私達も、それはショックでしたのよ、事件のことを知った時は」思い入れたっぷりにコリーヌが言った。  メニューはあらかじめ決めておいたらしく、何も注文しないうちから料理が出て来た。  前菜はこの地方の名物料理、イワシの揚げ物だった。ワインはリオハ産のフェデリコ・パテルニーナ。そして、メインディッシュはオマールとザリガニ。  食事中、アントニオ夫妻は雄司と由起子のことに話を向けた。 「ユウジさんの御職業は?」  コリーヌと目の合った雄司は、どぎまぎしながら視線を私に向けた。 「刃物を作る会社で経理を担当してました。その会社の社長が由起子さんの親父なんですよ」  デタラメを二度も言うのは面倒だ。私は由起子を社長令嬢だということにしてしまった。雄司が、何の話をしているのか訊《たず》ねた。 「おまえの職業を訊《き》いてきたから、適当に答えておいた。由起子さんの分もな」 「なんて言ったの?」由起子が訊く。  私は教えた。 「こりゃいいや。由起子の親父は或《あ》る意味じゃ刃物会社の社長だものな」  雄司と由起子の笑い顔を見て、アントニオ夫妻はあっけにとられていた。 「全く、言葉が通じないっていうのも問題ね」コリーヌがしばらく間を置いて眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。 「通じなくて便利なこともありますよ」  コーヒーを飲み終わった時、由起子が痺《しび》れを切らせたように、私に言った。 「ルーレットやってきてもいいでしょう?」  食事中にどんどん客がやって来て、ギャンブルルームは活気を帯びていたのだ。勝負が決まるごとに、喜びと落胆の声にはならない声が、店内の空気を揺らしていた。  私は頷《うなず》き、その旨をアントニオに伝えた。 「もちろんです。ここはカジノですからね」  そう言ってアントニオは立ち上がり、ふたりを促してギャンブルルームのほうへ連れて行った。 「セニョール・スズキリ、あなたが、こちらにいらっしゃった本当の目的をお聞かせねがえません?」コリーヌがソブラニに火をつけながらおもむろに訊いた。 「どういう意味です? こちらに来た理由は先程お話ししたはずですよ」 「妙な話ですわね、そんなことで私立探偵を雇うなんて」コリーヌはブランデーグラスを片手で揺らせながら、私を見ずに呟《つぶや》いた。 「ちょっとした縁で雄司と知り合った。だから、雇われただけのことですよ」 「そう……」 「リカルド氏の事件を調査しに来たとでも思ってるわけですか?」私はブランデーを一杯やってから訊いた。 「違いますか?」 「事件はパリで起こったのに、スペインにまで調査に来た、と考えているところをみると何かそう思える根拠があるようですね」 「そんなものありませんわ」 「リカルド氏が殺された時、おふたりもパリに居たそうですね」 「ええ、居ましたわよ。実は私の妹の結婚式がありましてね、それで行ったのです」 「知っています」 「やはり、リカルドの事件を調査なさっているようですわね」  私は昨日、コリーヌの実家に電話をしたことは黙っていた。 「そんなに調査されるのが気になるんですか?」 「それは、気になりますわ。探ることを目的に侵入してきた人物がわが家にいるのは、決して気分のいいことじゃありませんもの」  コリーヌは�そうでしょう?�と言うかわりに私を見つめて肩を竦《すく》めた。 「意識されると、興味がわいてきますね。本気で調査したくなりましたよ。一種の職業病ですね、これも」 「職業病だって、何が?」アントニオが戻って来て、席に着きながら訊いた。 「いや、何でもありません」私はそう言いながら、ルーレット台のほうに目をやった。  由起子と雄司はルーレット台の前に座ってチップを置いているところだった。 「奇麗なお嬢さんだ」アントニオが由起子のほうを見て呟くように言った。  言っていることは満更お世辞ではないような気がした。コリーヌが主人を盗み見て、刺《とげ》のあるひきつった笑いを浮かべたのを私は見逃さなかった。 「赤の三」 「わぁ、来た! 来た!」由起子が声を上げた。  周りの客が驚き、ディーラーが困った顔をしながら、静粛に、と言った。言葉は分からなくとも、雰囲気で察した雄司が由起子に何か小声で言っていた。  どうやら、気に入った女の客は、幾らか儲《もう》けて帰れる仕組みになっているらしい。 「セニョール・スズキリは、やはりリカルドの事件を調べにいらしたようよ、トーニョ」 「本当ですか?」 「奥さんは誤解していらっしゃる」 「いや、いいんですよ。調査なさっても」アントニオは鷹揚《おうよう》な態度で言った。「私はスズキリさんに協力したいと思っているくらいですよ」 「何をどう協力するというのですか? 犯人でも御存じなんですか?」 「そんなこと、私が知っているわけがないでしょう」カジノのオーナーは葉巻に火をつけ、椅子《いす》を少しずらせて、ギャンブルルームに目をやった。「あのふたりは婚約してるのかな?」 「それが何か、あなたに関係があるのですか?」 「いや、若いカップルはいいな、と思いましてね」アントニオは口から煙を吐き出しながら笑っていた。 「奥さんの前でも、いつも他の女を、そういう目付きで見るんですか?」 「自分がどういう目付きをしてるのか私には分からんが、私達は、とてもオープンなカップルでね。いや、もちろん、私が愛しているのはコリーヌだけだがね」そう言って彼は、隣にいるコリーヌを見、髪に軽く手を触れた。  コリーヌも、主人の猿芝居に合わせるように、毛むくじゃらの手を握った。 「素晴らしい夫婦愛を久し振りに見ましたよ」私はブランデーグラスを持ち上げて言った。 「ところで、あのふたりは何しに、こちらに来たんですか?」アントニオが私のほうに向きなおった。 「バカンスでしょう?」 「日本人がバカンスですか? 世界経済の動きに変化が生ずるでしょうな」 「最近は、少しずつ変わってきたようですよ」 「で、いつまで、こちらにいる予定?」  コリーヌが口を挟んだ。 「それは聞いていません。しかし、彼等のことに大層、興味があるようですね」 「タイミングが良すぎますもの」 「何のタイミングですか?」 「リカルドが死んだ翌日に、ルミコの弟がここに現れる……」コリーヌが上目遣いで私を見た。 「なるほど。おふたりは、ルミコさんを疑ってるわけですか?」 「はっきり申し上げて、その通りですわ」 「リカルドの遺産は、やはり、ルミコさんとマリア嬢に行くのですか?」 「ええ。義父《ちち》はルミコを信用し切っていますが、私は、あの偽善的な顔の裏で、恐ろしいことを企《たくら》んでいるような気がして……」 「日本人は、あなた達より、顔の筋肉が発達していない」 「は?」コリーヌが怪訝《けげん》な顔をした。 「つまり、スペイン人より表情が豊かではない、ということです」 「やはり、同じ国の方《かた》の肩を持つのね」 「リカルドが死んで得をするのは、何もルミコさんだけではないでしょう? あなた方にも利益がある」 「どんな利益ですか? 私達には、兄貴が死んでも一銭も入ってきませんよ」 「リカルドは東西リクレーションに土地を売るのを渋っていた。彼が売らないことには、あなたのもマリアのも売れない、違いますか?」 「それは……」  私はアントニオが何か言うのを制した。 「問題の土地を相続するのは、誰です?」 「ルミコだが……」 「なるほど。もしルミコさんが犯人だったら、あなた方は……」  私は意味ありげに笑った。 「それを言うんだったら、マリアだって……」コリーヌが不満そうに短く呟いた。 「その通り。だから、簡単にはルミコを疑えないと言っているんです。ところで、おふたりは、警察には行ったんですか?」 「向こうから刑事が来ましたわ」 「ゴデック警視ですね」 「そう、そういう名前の方でしたわ」 「あなた達のアリバイはどうなってるんですか?」 「セニョール・スズキリ、私、とても不愉快ですわ。何故《なぜ》、あなたにそういう質問をされなくてはいけませんの?」銀色のマニキュアを塗った指がテーブルの上で動いた。 「じゃ、話題を変えましょう。ただ、言っておきますが、リカルド殺害事件の話を始めたのは、あなたなんですよ」私はコリーヌをしっかり見つめて言った。 「誤解を招くと困るから言っておくが、ふたりともアリバイはあるんだ。だが、君には言わんよ。知りたければゴデックとかいう警視に聞きたまえ」 「アリバイなんてどうにでもなりますよ。だが、おふたりの潔白が明白なら、私に探りを入れることもないじゃありませんか」 「私達は、何も……」 「もういい、コリーヌ。この話はやめにして我々もギャンブルルームに行こうじゃないか?」 「でも、トーニョ……」 「そんなに膨れっ面をしていると、皺《しわ》が寄るよ」  そう言って妻に笑いかけ、アントニオは立ち上がった。私もコリーヌも後に続いた。  ギャンブルルームは盛況だった。張り詰めた静寂の中を着飾った男と女達が行き来していた。 「凄くツイてるようだな」私は後ろから由起子に声を掛けた。 「そう言ったでしょう? 必ず勝つって」由起子は自信満々である。 「そろそろ、切り上げないとツキが落ちるぜ」雄司が言った。 「うるさいわね。雄司、負けてばかりいるからヤキモチ焼いてるんでしょう」  ふたりともウイスキーを相当飲んでいるようだ。ギャルソンが私にも黙って酒の入ったグラスを持って来た。 「まあ、ミゲルだわ」コリーヌが入り口のほうを見ながら言った。  確かにミゲル・寺本だった。モスグリーンのスーツを着たミゲルは軽い足取りでこちらにやって来て、私達に挨拶《あいさつ》をした。 「皆さん、こちらだと伺ったものですから、寄ってみたんです」 「いつこっちに戻ったんだ?」私が訊いた。 「二時間ほど前です。最終の直行便で戻って来ました」 「ルミコさんも一緒か?」 「いえ、奥様は、明日、リカルド氏の遺体とともに戻って来られます。いろいろ検討した結果、明日、柩《ひつぎ》が着き次第、葬式をあげることにしました。それで、いろいろ準備もありまして、僕だけ一足先に帰ってきたわけです」 「マドリードの寄宿舎にいる息子に知らせなくては」コリーヌが腕時計を見ながら言った。 「御心配なく。私のほうで知らせておきました。明日、一番の飛行機で戻って来られるとのことです」 「まあ、ミゲルも一杯やりたまえ」アントニオが鷹揚な口調で言い、ギャルソンから受け取ったグラスをミゲルに差し出した。 「ありがとうございます」 「そう言えば、飛行機の中でディアース署長と会いましたよ」 「署長もパリに行っていたのか? 何しに行っていたのだろう?」アントニオが訊《き》くともなしに訊いた。 「或る会合に出たとか言っていました」  そう言いながら、ミゲルがコリーヌをちらっと見たのを私は見逃さなかった。私は、一勝負済んだところを見計らって、由起子と雄司のところにミゲルをつれて行った。「紹介しておこう、ミゲル。留美子さんの弟の雄司とフィアンセの由起子さんだ」私は日本語で言った。  挨拶が済むとすぐに、由起子はルーレットのほうに向きなおった。 「セニョール・スズキリもやりますか?」  アントニオが私の後ろから訊いた。 「由起子さんみたいに勝てるかな?」  私は皮肉っぽく笑いを浮かべながら、財布から一万ペセタを出し、チップに換えた。 「ユキコさんにブラックジャックをやったことあるかどうか訊いてくれないか?」  私は通訳した。答えはノーで、やってみたいとのことだった。 「じゃ、私がお教えしよう。ミゲル通訳してくれないか? こうすれば、セニョール・スズキリの席が確保できる」  ぽかんと口を開けている由起子にミゲルがその旨を伝えた。  その間に私はアントニオに耳打ちした。 「この女に妙な真似《まね》をしたら、俺が黙っちゃいないからな」  先程から由起子を見るアントニオの目付きが気になっていた私は、一言|釘《くぎ》をさしておいたのだ。 「ボディーガードつきですからね、おとなしくしてますよ」  雄司は「勝ってきなよ」と短く笑って、由起子を送り出したが、顔はひきつっていた。彼等が遠ざかり、私は雄司の隣に座った。 「調子悪いのか?」 「負けたり勝ったりさ」  雄司の前には千ペセタと書かれたピンクのチップ一枚と、銀色の二百ペセタのチップが三枚だけしかなかった。  ゲームをやりながらも、雄司の目はブラックジャックをやっている由起子のほうに注がれていた。  急に雄司がツキ始め、みるみるうちにチップが溜《た》まり出した。 「やはり、女がいると勝負事はダメだな」  勝っても一向に嬉《うれ》しくないらしい。投げ遣《や》りな調子でそう言った。  嫌な予感がする。フランスでは、賭事《かけごと》で馬鹿勝ちすると、コキュになる、という言い伝えがあるのだ。  私も何度も由起子達のほうに目をやった。私はまったくゲームに勝てなかった。  アントニオと一緒だったコリーヌがいつの間にかいなくなっていた。  由起子がアントニオを見てにっこりと笑う。アントニオが身振り大袈裟《おおげさ》に彼女の勝利を祝福する。アントニオの腕が由起子の肩に触った。もう一勝負。また、由起子が勝った。アントニオの手が彼女の髪に触れた。  雄司もそれを目撃していた。私が立ち上がると、雄司もチップをそのままにして立ち上がった。他の客と従業員が一斉に私に視線を向けた。 「雄司、おまえはゲームを続けてろ」 「冗談じゃない」  突然、雄司が駆け出した。あっと言う間だった。アントニオの顔にフックが飛んだ。  従業員が止めに入った。床に倒れたアントニオが立ち上がり、雄司に拳《こぶし》を振り上げた。その腕を私が取り、腹に一発食らわせた。  タキシード姿の男達が私をも押さえにかかったが、これ以上、騒ぎを起こす気はなかった。 「雄司、あんた何すんのよ!!」由起子は興奮していたが涙を流しはしなかった。 「この野郎、何で俺の女に……」 「彼が何したってのよ!! 馬鹿じゃないの、雄司」 「由起子、おまえもいい顔をしやがって」 「何が悪いのよぉ。あんたにつべこべ言われる筋合いはないわ」 「筋合いがないだと、おまえは俺と……」 「もううんざりよ。私、帰るわよ。ミゲル送って」  ミゲルは私の顔を見た。日本語の分からない他の連中は、ただ唖然《あぜん》としてつっ立っているだけだった。 「ミゲル、屋敷まで送ってやってくれ」 「兄貴!!」 「おまえも帰るんだ。だが、ミゲルの車じゃなくリムジーンで戻れ」 「雄司が屋敷に戻るんなら、私はここにいる」 「いいから帰れ」 「嫌よ、私!!」  私は由起子の腕を捕まえギャンブルルームから無理矢理、連れ出した。  ミゲルと雄司が私達の後を追った。  渋々、由起子はミゲルのプジョー104に乗った。 「ミゲル、ドライブしようよ、ね」由起子が聞こえよがしに言った。 「送り届けたら、戻って来てくれ。俺の足がないからな」 「分かりました」  二台の車は坂を下り、やがて闇《やみ》に呑《の》まれて行った。  ギャンブルルームに戻った私を、何人かの客が見ていた。毛虫を見るような目付きと、ズボンのチャックが開いているのを見つけた時のような笑い顔とが入り混じっていた。先程、ひとりで食事をしていた白髪の紳士は笑っていた。カジノで血を見るほうが好きなら闘牛場に行けばいい、と思った。だが、闘牛は心臓に悪いのかもしれない。ちょうどあのくらいの乱闘が、この紳士には合っているのだろう。  何事もなかったように、すでにゲームは再開されていた。あのくらいのトラブルでこたえるようなカジノは世界中探してもどこにもないのだ。バクチ場は人の命を奪っても平然としていなければ、やっていけない商売だから。  アントニオは奥のバーカウンターにいた。私が近づいて行くとバーマンが経営者の耳元《みみもと》で何か囁《ささや》いた。  アントニオがこちらを見た。 「色男が台無しだな」私は彼の目を見て言った。 「日本人ってのは社交性に欠けると聞いていたが、まったくその通りだね」 「だから、忠告したはずだぜ。チャラチャラするなとな」  アントニオは軽蔑《けいべつ》した顔をして、どうしようもない、という意味をこめて首を何度も横に振り、どこかに消えた。  私はバーマンにカルヴァドスを頼んだ。  ちびちび飲んでいると、ミゲルが戻ってきた。  私は雄司と私が置き去りにしたチップを貰《もら》い金に換えカジノを出た。  15 「どうだ、彼等は落ち着いたか?」 「ユウジさんのほうはね。でも、ユキコさんのほうには、だだをこねられましたよ」  ミゲルはギアを入れながら苦笑していた。 「すまなかった。どこかで一杯やりたいね」 「分かりました」  車は元来た道を戻って行った。 「アントニオとコリーヌの関係はどうなってんだ?」 「どういう関係って……見ての通りですよ」 「コリーヌはどこに行っちまったんだ」 「港のどこかにいるでしょうよ。僕達もそちらに向かってるんですがね」 「相手の男はディアースとかいう男か?」  ミゲルが頷《うなず》き、にやっと笑った。  車はメインストリートの国道三四〇の下を走るトンネルに入った。その向こうは舗装されていないデコボコ道だった。ヘッドライトの光の中で砂塵《さじん》が舞っている。  車はやがて左に曲がり、国道に沿って走った。窓ガラスもまだ取りつけられていない白い建物が右側にたくさん並んでいた。  私の視線に気付いたミゲルが言った。 「全部、リカルド・サンチェス氏が造らせていた建売別荘ですよ」 「会社は誰がやるんだ?」 「さあ、まだそこまでは決まっていません。取り敢《あ》えず、アントニオ氏とリカルド未亡人のサインで商売をやることになるでしょうね。あのふたりが、副社長ですから」  プジョーはマリーナに出た。全長四百メートル足らずの小さなものだった。だが、豪華なクルーザーが何隻も、停泊していた。地中海を渡って、ギリシャやイタリアやフランスから金持達がやって来るのだろう。  通りの右側は、小奇麗なレストランバーで犇《ひし》めきあっていた。洒落《しやれ》たチューブネオンが客を引いている。大概似たり寄ったりの魚介類専門の店。アラビア語の看板が目についた。目と鼻の先のモロッコあたりから、アラブの観光客が訪れてくるのだろう。  ベージュ色のフィアット・スパイダー2000が幌《ほろ》を上げ、何度もメインストリートをぐるぐる回っている。後部座席に乗っている男女が酔っているのか、嬌声《きようせい》を上げ、レストランバーのテラスにいる人間に手を振っていた。  プエルト・サンチェスは文字通り、新興のリゾート地なのだ。何もかもピカピカで、威厳がなく安っぽかった。まだ、中途半端にしか人の手垢《てあか》がついていない街なのだ。しかし、いつかはここも、世界中の金持達の金色の手垢にまみれ、モナコやカンヌのようになるのかもしれない。  マリーナの端にミゲルは車を止めた。  そこから、三メートルばかり先に銅像が立っているのが目に止まった。  金色の字でホセ・サンチェスと書かれていた。私は銅像の前まで行き、じっくりと眺めた。本物よりやや太っていて、本物より目付きが優しかった。 「一年前に町長が音頭を取って作らせたのですよ」ミゲルが私の背中で言った。 「これで、その町長は、次の選挙も安泰というわけか」 「まあね」ミゲルはそう言って短く笑った。  私はミゲルの後について白塗りのアーケードを抜け、裏の道に入った。道路の中央に電柱が立っていて、その周りには、暇そうな若者達が屯《たむろ》していた。  ミゲルは正面に大きな椰子《やし》の木が二本立っているバーに案内した。  銀色の看板が張り出していて、そこには�シエラ・ネバダ�と書かれてある。  客は若者ばかりで、西側諸国ならどこに行っても聞けるロックがかかっていた。  銀色の壁紙を貼《は》り廻《めぐ》らせた壁に飾ってある皿以外は、国籍不明のバーだった。  籐椅子《とういす》に座った私達のところに化粧の濃い太った女がやって来て、ミゲルに挨拶《あいさつ》し、注文も取らずにお悔やみを言った。しゃべる度に顎《あご》の脂肪がブラウスの襟に載るほど二重になった。リカルドが死んで初めて聞いた、心のこもったお悔やみだった。  ミゲルはシェリーにしたが、喉《のど》が渇いていた私はビールを頼んだ。 「やはり、日本語で話しましょうね」ミゲルが唐突に言った。 �やはり�に、どんな意味があるのか私は詮索《せんさく》せず、黙って頷いた。 「留美子さんは立ち直ったのか?」 「ええ。大分元気になられました」 「警察では、かなり厳しい取り調べを受けたのか?」 「僕には詳しいことは何もおっしゃらないのですが、かなりお疲れのようでした」 「よくこっちに戻ることが許可されたな。彼女にはアリバイはないが、立派な動機はある」 「今朝、行方《ゆくえ》をくらましていたマヌカンが警察に出頭してきましてね。それで、一応帰国許可が下りたようです。ですが、葬式が終わったら、再度パリに戻ることになっています。無論、それまでに犯人が逮捕されれば別ですが……」 「彼女はアリバイのことをなんて言っているんだ?」 「何にも。私も余計なことは聞きませんでした」 「優秀な秘書というのはそういうものだ」  酒が来た。乾杯もせず、私達はそれぞれのグラスに口をつけた。 「ともかく、重要参考人が出頭したので、警察の捜査はそちらのほうに向いたようです」ミゲルはほっと溜息《ためいき》をついた。「嫌なものですよ。我々の皆が疑われている気分は」 「サンチェス家全員に、動機があるんだから仕方がないだろう」 「ホセ氏を除いてね」 「まあ、そうだな。だが、俺《おれ》はあの老人については何も知らん。銅像が立つ立派な人だということ以外はね」 「鈴切さんは、あのマヌカンが犯人じゃないと思っているような口ぶりですね」 「そうじゃない。正直な話、皆目分からないんだ」 「ホセ氏は、リカルド氏を深く愛していました。彼が犯人のはずはありませんよ」 「アントニオより愛していたという意味か?」 「いや、そういう意味ではありませんよ。ホセ氏は両方ともを本当に可愛《かわい》がっていましたよ。その片方が死んでしまった。片方の羽をもぎ取られた蝶々《ちようちよう》のような気分だと思いますよ、現在は」ミゲルは淡々とした口調で言った。 「だが、そのことで死期を早めるようなヤワには見えなかったな。これだけの街をつくったあの男は何者なんだい?」 「僕もよく知りません」ミゲルが両肩を竦《すく》めて大きな目をさらに大きく開いた。 「この土地の人間ではないという話ですが、どこの出身なのかは分かりません。しかし、何でもずっとフランスにいた人だとは聞いています。リヨンで暮らしていたということです」 「リヨンで何をやっていたんだ?」 「旅行代理店と宝石商をやっていたとか……」 「飛行機に宝石か。密輸の匂《にお》いがするな」私は冗談半分に言った。 「まさか!?」ミゲルが笑った。 「だが、いくらこの辺の土地が、マドリードやパリに比べたら、馬鹿みたいに安いとはいえ、広大な土地、マリーナ、その他もろもろを作るには莫大《ばくだい》な金が掛かったろう。その金の出所《でどころ》ははっきりしてるのか?」 「僕には分かりません」 「誰に聞いたら分かる?」 「さあ、この土地の人間は皆、当初不思議がってたそうですよ。あちこちに手を回して調べた人もいたという話です。でも、結局、分からずじまい。不正に取得した金だという証拠は出なかったそうですよ。それが分かってからは、皆、ホセ氏に協力するようになった。なにせ莫大な金を持っていますからね」 「ホセ・サンチェスに逆らう連中はいないのか?」 「町長もこの地区代表の議員も彼には頭が上がらない」 「警察署長のディアースもか?」 「まあ、今のところはホセにへいこらしてます。でも今後、サンチェス家を潰《つぶ》そうとする奴《やつ》がいるとしたら、ディアースでしょうね」 「何故《なぜ》、そんなことが分かる?」 「ディアースもこの辺の土地を買い漁《あさ》っているんです。それもかなりの広さのものをね。何か商売をと考えているようです」 「ここの警察署長は金が儲《もう》かるらしいな」 「裏でいろいろやっているらしいです。よくは知りませんが」 「賄賂《わいろ》か……」 「鈴切さんは、今度の事件の調査を誰かに依頼されたのですか?」 「いや。依頼人はいない」 「じゃ、何故そんな質問をなさるのですか?」 「君は何故そうベラベラと答えてくれるんだ?」私は意味ありげな口調で訊《き》いた。 「決心しましてね」一瞬黙ってからミゲルは口を開いた。「一段落したら、やはり、サンチェス家を出ようと思っているんです。僕はリカルド氏に雇われた人間ですからね……」 「他のサンチェス家の人間とは馬が合わないというわけか」 「まあ、そうですね。全員と合わないわけじゃありませんが……。ところで、さっきの質問ですが、やはり……」 「いや、俺は調査なんか、やっちゃいないよ。ただ、カジノで君と同じ質問をアントニオ夫婦からされてね……それで興味がわいただけさ」 「彼等は動揺しているのでしょう。自分達に都合良く、兄のリカルド氏が死んでくれたから」  どうやらミゲルは、サンチェス家の中でのアントニオ夫婦を特に嫌っているらしい。不思議なことではなかった。私がミゲルの立場でも、同じ思いを抱いただろう。  ライオネル・リッチーの声に被《かぶ》さるように、客の笑い声、グラスの触れ合う音が聞こえている。 「鈴切さんはいつまでこちらに滞在なさるのですか?」 「まだ分からないね。留美子さんが戻って来たら決めるつもりだ。しかし、いつまでも雄司達のお守《も》りをしてるわけにもいかないから、せいぜい後一日、二日のことだろう」 「鈴切さんが、いなくなったら誰がお守りをするのかな?」ミゲルは苦笑しながら訊くともなしに訊いた。 「しばらくは、君の役目だろうな」 「辞める時期が早まりそうだ。雄司君はさておき、あの子は、僕のような人間の手に負える女ではない」 「誰だって歯が立たないよ」  どこからか猫が一匹入って来て、ミゲルの横の椅子の上で丸まった。 「日本の若い女の子にはあの手合いが多いんですかね」 「さあな。俺も日本にはここ十年以上御|無沙汰《ごぶさた》だから分からないね。ところで、君は時々、向こうに行くことがあるのかい?」 「子供の頃、しばらく祖母のところにいたことがありましたがね……。日本は遠い国ですよ」 「実際の距離じゃなくて、心理的にも?」 「僕はスペイン人です。たまたま親父《おやじ》が日本人だったというだけのような気がします。親父は宣教師だったのですが、僕が十歳の時に列車の事故で死にました。親父が生きていれば、もう少し違った気持ちを持てたのかもしれませんね……」  話しながら、ミゲルは隣に寝ていた猫を膝《ひざ》の上に乗せ、ゆっくりと撫《な》で始めた。 「母親は?」 「彼女も墓の下ですよ。四年前に病死しました」ミゲルは淡々とした口調で言った。 「鈴切さんの御両親は?」 「君の場合と同じだ」 「正直な話、天涯孤独なほうがいい。家族なんてないほうが気楽だと思いませんか」 「そう思わなければ、今頃、乳母車を押してブローニュの森を散歩し、金があったら日本のビデオを買って記念撮影をするような生活をしていたことだろうよ」 「サンチェス家を見て、なおさらそういう思いが強くなりましたよ」 「何故、リカルドとアントニオの仲が悪いのか、君は知ってるか?」 「きっと、アントニオ氏が、口先ばかりで何も出来ないからじゃないですか? リカルド氏の不動産会社の副社長というのは名ばかりで、実質的には何も出来ないんです。カジノを始めるお膳立《ぜんだ》てもリカルド氏がやったのです。兄は弟を馬鹿にし、弟は兄を妬《ねた》み嫌ってた、というところですね。リカルド氏は頭にきたから、無理矢理、嫌がる奥様を副社長にしたのです。無能で何もしないアントニオが副社長でいるなら、自分の妻が何もしないで副社長になってもおかしくない、という論法でね。あの時は、相当、アントニオ氏のほうも怒っていたようです」 「サンチェス家を出たら、君はどうするんだ?」 「また、元の商売でもやろうかと思ってます」 「元の商売って?」 「観光ガイドです。やはり、商売もひとりでやれるものが気楽でいい」  赤や黄色の原色の服が行き来するバーの中で、猫を膝の上にのせ、�ひとりがいい�と言っているミゲル・寺本は、なんとなく浮いた存在のように思えた。  太陽に焼かれヒリヒリする肌のような感じで愛情を求めている刈谷雄司と、暗い炎がステンドグラスの向こう側で揺れているような雰囲気のするミゲル・寺本とは、対照的な人物だが、私には案外、近い存在のような気がしてならなかった。  16  翌朝、遅めに起きた私は、何とか迷わずにダイニングルームに行き着いた。  丸い大きなテーブルが六つ、等間隔に置いてあるレストランのようなホール。  普段、サンチェス家の人々は、各テーブルにひとりずつ座って食事をするのだろうか? 少なくとも、コリーヌと留美子、そしてマリアと留美子はそうするに違いない。両端のテーブルの距離はゆうに十メートル以上はあった。しかし、彼女達の心の隔たりからすれば、そんな距離なんて、満員電車で隣り合わせの席に座っているようなものだろう。  ダイニングルームには誰もいなかった。私は窓に近いテーブルに腰を下ろした。  生ハム、ソーセージ、それにメロン。パンは二種類用意されていた。普通のパンとチューロと呼ばれている揚げパン。そして、飲物のほうも、コーヒーと紅茶、それにチョコラーテ。  スペインの平均的な家庭では、フランスと同様、朝食はとても質素なものなのだが、サンチェス家は平均的な家庭ではないのである。毎朝、テスティキュル・ド・ブッフ、つまり�牛の睾丸《こうがん》�のクリーム煮込みを所望しても出て来そうな家なのだ。もっとも、そんなものを起きぬけに食べる奴《やつ》はいるはずもないが……。  コーヒーを三杯飲んだところで、やっと目が覚めた。  執事を呼んで雄司達がどうしているか聞くと、とっくに朝食を済ませ庭を散歩しているとのことだった。  弱い日ざしが射し込んでいる。その光に私の吸っていた煙草《たばこ》の煙が絡みついていた。四杯目のコーヒーをゆっくり飲んでいるところへ、マリアが現れた。 「ボンジュール」マリアがフランス語で挨拶《あいさつ》した。 「君も戻っていたのか?」 「今朝、着いたのよ。普通は途中で一泊するんだけど、今回は休まずに飛ばしてきたの」  運転疲れからか、父親を亡くした悲しみからか、マリアの顔はうち沈んでいた。  マリアは食欲がないと言い、紅茶を頼んだだけだった。 「葬式が終わるまで、何も食べられない。少し腹に詰めておいたら」 「ありがとう。でも、本当に食べる気がしないの」  私は好きにしろ、という意味を籠《こ》めて肩を竦《すく》めた。 「調査のほうはどう? 何か分かった?」 「二、三新しい事実をつかんだが、それが犯人に結びつくかどうか……」 「どんな事実よ」マリアは身を乗りだした。 「ここの使用人でフランス語の分かる人間はいないわ。安心して話して結構よ」 「親父《おやじ》さんは、誰かに脅迫されていたのかもしれないんだ」 「脅迫? 誰によ」 「それが分かっていれば、こんな所で煙草なんかふかしていないよ」 「その内容は、やはり、マヌカンとの情事のことかしら」 「多分ね」  マリアは乱暴な仕種《しぐさ》で躰《からだ》を椅子《いす》の背凭《せもた》れに倒し、 「じゃ、何も分かってないのと同じじゃない」と露骨に不満な声を出した。 「その通りだ」 「やはり、きちんとお金を払わないと、ガス欠の車みたいに、走ってくれないのね」 「そうじゃない。前にも言ったが、俺《おれ》の仕事は留美子さんの弟をここに連れてくることだった。まず、この仕事を終えてからでないと、本格的には動けない」 「でも、その仕事はもう終わったじゃない、彼等はここにいるんだから」 「いや、まだだ。留美子さんがここに着くまでは、俺が彼等の面倒を見ることになっている。それまでは、動けない」 「じゃ、今日の午後、ルミコが帰ってきた後は、私のために動いてくれるのね」 「その時点で君は僕の依頼人だ。しかし、これは俺の友人の言葉だが、殺人事件の調査を私立探偵に依頼するのは金を溝《どぶ》に捨てるようなものだ、そうだぜ。それでも構わないのか?」 「構わないわよ。何もしないでいるのが辛《つら》いのよ、私。あなたにパパの悪口を言った直後でしょう、パパが殺されたの。後味が悪いの。分かるでしょう?」 「僕は君の免罪符ってわけか」 「そんなんじゃ……」 「まあ、いいさ。少なくとも、依頼の動機は不純なものじゃないからね」  マリアは費用を訊《き》いた。私は値引きなしの料金を教えた。  *  葬式が行われるまでのサンチェス家は、やはり慌《あわ》ただしかった。私はプールサイドの椅子に座り、時間を遣《や》り過ごすしかなかった。  昨日と同様、爽《さわ》やかに晴れ渡った日だった。コスタ・デル・ソルは年じゅう、温和な天候に恵まれている地方である。人が死のうが、家が火事になろうが、泥棒に遭って身ぐるみはがれようが、いつでも結婚式の日に人々が望む青空を絶やさないのだ。  ぼおっと空を眺めていた私のところへ、雄司がやって来た。 「由起子さんは、どうしている?」 「二日酔いなんだ。またベッドに潜りこんじまったよ……」  雄司は私の横に立ち、プールの水を見つめていた。 「昨日は、迷惑かけちまって……」 「仲直りしたのか?」 「まあな……」雄司は椅子に座った。その椅子は私の座っている椅子とは逆向きに置かれていて、雄司はプールに背を向ける格好で腰を下ろしていた。 「兄貴は、俺のこと情けない奴だと思ってるだろう?」 「何も思っちゃいないさ」 「本当かな? たかだか小娘ひとりに翻弄されている俺のことを……」 「たかだか小娘なんて思ってるから、翻弄されるんだ」 「兄貴はいつもクールでいいよ。頭がいいから、きっと俺みたいな馬鹿はやらねえんだろうな」 「そんなことはない。俺だっておまえみたいなことをやったことはあるよ」 「へーえ! そうかい? そんなふうには見えねえけどな、兄貴は」  私は、スペイン人の我儘《わがまま》娘に振り回されていた十六歳の自分を思い出していた。だが、そのことを雄司に語る気はなかった。また、雄司も何の質問もしなかった。 「俺は自分でも、情けねえと思ってるんだ……あいつに振り回されてばかりいてよ……」  私は黙っていた。言いたいことは山ほどあった。何か応《こた》えてやれば、雄司の心の傷は治まるのかもしれない。だが、私はそうはしたくなかった。涙を拭《ふ》いてくれる相手がいると、人はいつまでも涙を流すものなのだ。 「でも、俺は……」  これから、彼女とどうやっていこうか、雄司は迷っているらしい。 「何だどうしたんだ? これから、どうするか俺に決めてもらいたいのか?」私は躰を起こして雄司を見つめた。  雄司は黙って俯《うつむ》いたままプールサイドの敷石の縁《へり》に顔を出している芝生を蹴《け》っていた。 「自分で決めろ。冷たいようだが、俺は、おまえらの恋愛には興味はない。このままの関係が続こうが、雄司の理想の形になろうが、別れようが、俺の知ったことではない。ただ、気になるのは、君が気骨を見せられるかどうかだ。あの女が嫌になっても逃げ出すな、なんて言ってるんじゃないんだぜ。逃げ出したければ逃げ出して構わんさ。だが、それも自分で決めるんだ」 「俺にだって気骨はある」 「分かってるさ」  雄司に本物の気骨があるとは思えなかった。だが、気骨がないことを隠そうとして頑張るくらいの気骨は持ち合わせている男なのだ。もっとも、大概の人間の気骨なんて、そんなものかもしれないが……。 「俺は由起子と別れない。それが今の俺の望みなんだから……」  そう言い残すと、雄司はまた屋敷のほうに戻って行った。 �あんな女のどこがいいんだ!?�  私の心はそう言っていた。正直にそう言ってやるほうが、雄司のためだったのかもしれない。  私は、仰向けに寝転んだまま、青空を見つめた。鳥がどこかで、チッチ……チッチと鳴いていた。  *  午後一時十五分。  リカルドの遺体と留美子が屋敷に戻って来た。  当主のホセ・サンチェス以下、屋敷の者全員が迎えに出た。知らない顔がいくつもあった。コリーヌ・サンチェスの横にひょろっとした優等生風の若者が立っていた。おそらくマドリード寄宿舎にいるというひとり息子に違いない。全員、神妙な表情をして、霊柩車《れいきゆうしや》から下ろされ屋敷に運び込まれる柩《ひつぎ》を見ていた。嗚咽《おえつ》と、テープが空回りしているような吐息が聞こえる。  私も雄司達も参列した。雄司達は平服だったが、私はアントニオの黒いスーツを借りた。上着の袖《そで》もズボンの裾《すそ》もやや短めで、上着のボタンを留めると弾《はじ》けそうだったが、何とか格好だけはついた。  柩は、応接間の横の礼拝堂に一旦《いつたん》安置された。そこには神父と近親者だけが入った。  やがて出棺となった。  私達は車に乗り霊柩車の後に続いた。晴れ渡った空に、砂煙を上げながら何台もの黒い車が蟻《あり》の行列のように続いた。  葬式の行われる教会は、街外れの海が一望できる丘の上にあった。おそらく、ここで結婚式を挙げ、ここへ屍《しかばね》となって戻った人間はまだひとりもいないだろう。外壁も、大きな鋲《びよう》を打ち込まれた扉も薄汚れてはいない新しく建てられた教会だった。  教会には大勢の人が詰め掛け、通路も人でいっぱいだった。私は出来る限り参列者の人相に気をつけた。もしかすると、笠原がこの中に紛れ込んでいないとも限らない。  私の見たところ笠原の姿はないようだったが、代わりに東西リクレーションの滝口と宮入を発見した。  弔問外交ならぬ弔問商談にやってきたらしい。私は心の中でにやりとした。彼等がここにいてくれたほうが捜査がやりやすい。  つつがなく式は終わり、教会の裏にある墓地にリカルドは埋められた。プエルト・サンチェスの街のようにま新しい墓石に陽光がまとわりついていた。  墓地を引き揚げる時、滝口と宮入は私に気付いて来て、型通りの挨拶をした。  私は刈谷雄司と西郷由起子を紹介した。 「そうか、奥さんの旧姓は刈谷さんと言ったのですか……珍しい名前ですな」滝口が呟《つぶや》くように言い、雄司をじっと見つめた。 「いつまでこちらに?」私が訊いた。 「明日の夜には引き揚げる予定です」 「どこにお泊まりで?」 「マルベージャの�メリア・ドン・ペペ�ですが、また何か質問にいらっしゃるつもりですか? 止《よ》して下さいよ。サンチェス氏に関しては、もう話すことはありませんよ」 「弔問商談の邪魔はしませんよ」私は短く笑った。 「弔問商談? 面白いことをおっしゃる方だ。だが、我々にはそんなつもりはありませんがね……」 「あったって構わないじゃないですか。ビジネスマンだったら当然でしょう」  滝口は、少し嫌な顔をしたが笑っていた。 「ところで、弟さんはわざわざ、義理のお兄さんのお葬式に参列するためにいらっしゃったんですか?」 「偶然ですよ。旅行で来たら、こういうことになったんです」雄司がぼそぼそと答えた。笠原と東西リクレーションが関係を持っていることを知っている雄司は顔を硬直させていた。  宮入は終始黙って、支店長の後ろについていた。ウッディ・アレンが下痢を起こしたような顔をして。  * 「東西リクレーションの連中が来ているってことは、きっと笠原も、こっちに……」  雄司が車の中で緊張した声で言った。 「俺は今夜、滝口を締め上げてやる」 「俺も行くぜ」 「駄目だ。おまえは屋敷でおとなしくしていろ。おまえの通訳をやりながら、仕事はできんよ」  雄司は不服そうな顔をしたが、納得したのかそれ以上何も言わなかった。  私達が屋敷に戻ったのは午後四時を回った頃だった。  屋敷には、葬式が滞りなく終わったとはいえ、張り詰めた空気が流れ、雄司と留美子ですら、ゆっくり話の出来る状態ではなかった。  姉を遠巻きに見つめ、ゆっくり話の出来る機会を待っている雄司とそのフィアンセを残し、私は自分の部屋に戻った。そして、バッグに入れておいた『トリストラム・シャンディ』という本を読もうとしたが、全く集中力を欠いていた。  私はパリにいるタニコウに電話を入れた。 「俺だ。鈴切だ」 「おう、どうしてる。何かつかんだのか、特派員」タニコウは何かを食べながら電話に出た。 「何にもない。今さっき、リカルドの葬儀が終わったところ。それだけだ。あんたのほうは何かつかんだか?」 「また、俺だけにしゃべらせるつもりか?」 「そんな嫌な声を出しながら、物を食べるな。消化に悪いぜ」 「余計なお世話だ」 「どうだ、警察は何かつかんだか?」 「脇田典子が昨日、警察に出頭してきた。彼女の話によると、リカルドは誰かに脅迫されていたらしい」 「それは知ってるよ」 「何! スペインにいるおまえが何故《なぜ》、知ってるんだ?」 「千里眼と言いたいが、実は出発する前、ひょんなことで脇田典子に会ったんだ」 「ひょんなこと? それは何だ?」 「文字通り、ひょんなことさ。俺の熱狂的ファンで探偵助手志願の奴がいるんだ。そいつが見つけてきたのさ。で、他に新しい事実はないのか?」 「警察は、フランスでリカルドと商売をしたことのある人間、それに交友関係を洗ったが、これといった容疑者は出てこなかったそうだ。リカルドは遣り手ではあったが、案外、人望が厚いというのか、人好きのする人間だったらしい。それに金銭面もきちんとしていて、殺してまで恨みを晴らしたい奴は見当たらない、ということだ」 「警察の調べが正しいとなると、リカルドの周りの人間か、こっちでの商売敵が容疑者ってわけか」 「脇田典子が犯人でないとすると、そういうことになる」 「ところで、留美子・サンチェスのアリバイは成立したのか?」 「はっきりしないんだ。彼女はずっと家に居て、ちょっと買物に出掛けたというんだ。彼女が買物をした果物屋の主人は、留美子をよく知っていて、裏は取れたのだが、その前に家にいたのかどうかは誰にも分からない。電話も掛からなかったし、人も訪ねて来なかったというからね。留美子にはリカルドを殺す動機もあるし、アリバイもはっきりしない。だが、警察に泊まってもらうだけの理由も見当たらない。それで、すんなり帰されたわけさ。ともかく凶器は出ていないし、状況証拠すらこれと言ったものは見つかっていない。警察もお手上げの状態のようだ」 「なるほど……」  ドアをノックする音が聞こえた。私は、また掛けると言って受話器を置こうとした。タニコウは、今度の電話の時にネタを提供しなかったら、何も話さない、とどなっていた。  来訪者は留美子・サンチェスだった。  私は改めて、お悔やみの言葉を言い、窓際の椅子をすすめた。 「雄司君とは、ゆっくり対面できましたか」 「ええ。今、あの子と由起子さんに会ってきました」  喪服の留美子は弱々しく笑った。かなり、落ち着きだけは取り戻しているようだった。 「雄司のことありがとうございました」 「これから、彼等をどうします?」 「分かりません。しばらく、ここに置いておくしかないでしょう」  雄司は私の指示通り、笠原に命を狙《ねら》われた話を、留美子にはしていないらしい。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかない。 「葬式が終わった直後に、こんな話はしたくないのですが、実は……」  私は一昨日の出来事を話し、殺し屋がこの街に来ている、或《ある》いは、これからやって来る可能性が非常に高いことを教えた。 「私達、どうしたらいいのでしょう?」 「この街の警察は、義父《おとう》さんの�私立警察�みたいなものでしょう? 警備を厳重にし、笠原恒夫を一刻も早く見つけ出してもらい、適当な理由をデッチ上げ、国外退去にでもしてもらう以外方法がないでしょう。義父さんにあなたから話しなさい。それが一番です。私が、永遠に彼等の護衛をしているわけにもいかないし、ひとりでは、やはり、心細い」  留美子は二、三度黙って頷《うなず》き、かすれ声で、 「早速、義父《ちち》に話してみます」と答えた。 「問題はどうやって殺し屋が、雄司君たちの居場所を突き止めたかです。本当に御主人とあなた以外に、そのことを知っている人間はいなかったのですか?」 「おりません。義父にも、マリアにもミゲルにも話していません」 「でも、御主人が亡くなってからは事情が違うんじゃありませんか。現にミゲルは知っていた」 「鈴切さんはミゲルを疑っているのですか?」 「そう結論を急がないでください。ヌイイの屋敷で雄司君の話をミゲルにした時には、マリアも、あなたの友達の屋敷で管理をしているフミエさんも、その場にいたわけでしょう。三人の人間が知ったということは、その三、四倍の人間に知れ渡る可能性がある。留美子さんは、雄司君の件は秘密だと彼等に言いましたか?」 「いいえ。リカルドのことで気が動転して何も言わなかったと思います」 「ということは、彼等のうちの誰かが気軽に話したことも考えられる」 「誰に話したというのです? 殺し屋に?」 「いや、例えば東西リクレーションの滝口などに……」 「じゃ滝口さんが殺し屋と繋《つな》がっていると……」  私は、モンパルナス・タワーで殺し屋の笠原を見た話をした。 「信じられませんわ、滝口さんが」 「まだ、殺し屋と滝口がどんな繋がりがあるのかは分かっていない。だが、彼には注意してください。どうせ、明日には、土地の話でもしにここにやって来るでしょうから」 「リカルドを殺したのも、その笠原ということは考えられませんか?」 「さあ……何とも言えませんね。ともかく、滝口を叩《たた》いてみるつもりです」 「叩くって、どうするおつもりなの?」 「今から、奴の泊まっているホテルに行ってみます。いなかったら、持久戦のつもりで待つつもりです。そこでお願いがあるのですが、車を一台貸していただけないですか?」 「いいですよ。私のをお使い下さい。ミニ・クーパーであまり馬力はないですが」 「結構です。それともうひとつ。お宅に拳銃《けんじゆう》はないですか?」 「リカルドが護身用に買ったものがあります」留美子は緊張した顔をして答えた。 「それもお借りしたい。無論、弾もお願いします。私のはオルリー空港の一時預かり所に置いてきたのです。あんなものをぶら下げて飛行機には乗れませんからね」  留美子は拳銃と車のキーを取りに行き、ほどなく戻って来た。 「車は私の住まいの横のガレージに入っています」 「ありがとう。早いうちに義父《おとう》さんに雄司君のことを話しておきなさい」  必要なものを受け取った私は、そう言いドアを閉めた。  拳銃はスペイン製のスター・モデルDKLというセミ・オートだった。きちんと手入れされていた。弾倉を調べた。弾はすでに六発込められていた。  17  ホテル�メリア・ドン・ペペ�には十分ほどで着いた。  黄緑色の制服を来たフロント係に滝口の部屋番号と外出中かどうかを聞いた。  ルームナンバーは四〇七号。キーはフロントになかった。私は直接、部屋を訪ねることにした。  ノックすると、いきなりドアが開いた。 「何だ、君か!」滝口は露骨に嫌な声を出した。 「誰《だれ》か訪ねてくる予定なんですか?」 「誰が来ようと、君には関係ないだろう?」 「その通り。だが、ひょっとしたら、俺《おれ》の会いたい人間が来るんじゃないかと思いましてね……」私はにやにやしながら言った。 「君が会いたい人? それは誰だね?」 「中に入れてくれませんかね」 「冗談じゃない、何で君をここに入れなきゃならんのだ」滝口はそう言って、ドアを閉めようとした。私はドアノブを持って押し返し力ずくで中に入った。 「な、何だ君は!! 警備員を呼ぶぞ!」後ずさりしながら、滝口がわめいた。 「�ドアの外でちょっとだけ……�なんて歌詞の歌を日本で聞いたことがあるが、今夜は、そういうわけにはいかないぜ。あんたと笠原恒夫の関係を教えてもらわない間は、出て行かない」 「そんな男、知らんよ。君は何を血迷っているんだ。太陽の海岸で日射病にでもなったんじゃないのか? ともかく、私は警備員を呼ぶ!」そう言って支店長は電話に近づいた。  私はパンツのベルトに挟んだ拳銃を抜いた。 「ベッドに座れ」  滝口は、ポカンとした口をして銃口を見、それから私を見つめた。 「そ、そんなものを出して、ど、どうしようというんだ!」 「いいから言われた通りにしろ」  滝口が腰を下ろした。ベッドの端に載っていた、壁紙と同じ、深いグリーン地に水色や薄い黄色で描かれた花柄のクッションが床に落ちた。  私は、開いていた窓を閉め、カーテンを引き、それから、壁際にあった小さな机に腰掛けた。 「誰が来る予定になっていたか教えてもらえるかな?」 「宮入君だ。一緒に食事をするんだ」 「すぐに電話をして、ひとりで喰《く》えと言いな」  滝口は小刻みに頭を縦に振った。ダイヤルは用心のため、私が回した。 「あ、宮入君か。済まないが、ちょっと用が出来た。食事は君ひとりでとってくれたまえ。え? いやいや、躰《からだ》のほうは大丈夫。元気だよ。後でまた連絡する」  受話器を置いた滝口は、私を睨《にら》みつけた。 「きさま、こんなことをして、後でどうなるか分かってるのか?」 「何がどうなるんだ? あんたは警察には行かない。それに、もし行ってもこの一帯にだって、ホセ・サンチェスの息が掛かってるはずだ。訴えても無駄だよ」 「何故《なぜ》、サンチェス氏が君の味方になると思うんだ。それとも、彼が君を寄越したとでも言うのかね?」 「笠原恒夫は、サンチェス氏の身内といえる人間を狙《ねら》ってる殺し屋だ。別にあんたに説明する必要はないだろうがね」 「君もしつこい奴《やつ》だな。笠原なんて奴は知らない。一体、どう言えば分かってくれるのかな」滝口はふんと言って短く笑った。かなり無理をしている様子だった。  私は上目遣いで滝口を見ながら、床に転がっていた花柄のクッションを拾い、銃口の前にそれを翳《かざ》した。 「いい柄のクッションじゃないか! 葬式に送る花輪みたいだな」  私は一歩、滝口に近づき拳銃を構え直した。 「ち、ちょっと待ってくれ。俺は本当に笠原なんて男は知らないんだ」 「同じことを何度も言うな。聞き飽きたよ」  この男は何も知らないのかもしれない。一瞬、私は思った。だが、もう賭《かけ》は始まってしまっている。 「俺は、笠原があんたの事務所に入って行くのを、この間、見たんだよ。俺があんたの事務所を訪ねた日の話だ。時刻はおよそ四時半頃。笠原は茶色のスーツを着ていた。そこまで知っている俺にオトボケはないだろう。俺は今からあんたをプエルト・サンチェス警察に連れて行くつもりなんだ。サンチェス家の人間を狙っている殺し屋の相棒となると、あそこの署長も、楽しんであんたを苛《いじ》めるだろうよ」 「…………」 「これが最後の質問だ。あんたと笠原とはどういう関係なんだ?」  滝口はしばらく口を開かず、カーテンを見つめていた。そして、大きな溜息《ためいき》をひとつつき、「悪かった。私は嘘《うそ》をついていたんだ……」とちらっと私を見て言った。 「そんなことは百も承知してるさ。それで……?」 「私は、奴について詳しいことは何も知らないんだ。四日前に、本社のほうから、笠原恒夫という男が顔を出すから、面倒を見てくれ、と言ってきた。それだけの話だ。ホテルを見つけ、奴の荷物を一時預かったりしただけで、特別な関係はない」 「じゃ、何故、俺の質問に素直に答えなかったんだ?」 「それには、別の事情があったからだ。だが、ともかく私は、あの男が殺し屋だなんて、知らなかったんだ」 「質問の答えにはなってないぜ」 「その話をするのだけは勘弁してくれ」支店長は哀願するように言った。 「会社の傷は表向きにはしたくないってわけか」 「…………」 「あの男は西郷連合会の会長、西郷喜久蔵に雇われている。ということは、西郷連合会とあんたの親父《おやじ》の会社の関係を調べれば、すぐに分かることさ。暴力団と大手企業の癒着の話を日本の週刊誌で読んだことがあるぜ。そこには東西リクレーションの名前はなかったがね」 「鈴切さん」滝口が不敵な笑いを浮かべた。 「その質問を買い取らせてくれ。百万でどうだ」 「フランでかい?」 「冗談じゃない円でだよ。結構な儲《もうけ》じゃないかね」 「金はいらない。それより、今、笠原恒夫がどこにいるか教えてほしい。奴の居所が分かれば、さっきの質問は奇麗に忘れてやろう。奴は、スペインに来ているのか?」 「ああ。トレモリノスのホテル�マラゲーニャ�に泊まっている。私が予約を入れたんだから、間違いない」 「ルームナンバーは?」 「二一一だ。本当にこれで、さっきのことを忘れてくれるのか?」 「何の話だ? もう忘れたよ」私はにやりとした。「ところで、笠原は、あんたにサンチェス家の話をしたことなかったか?」 「一度だけある。彼が殺される二日前のことだが、笠原が私の部屋にいる時、リカルド・サンチェス氏から電話が入った。その後、笠原がサンチェス氏について質問した。その時、私は彼の妻は日本人だという話をした。そうしたら、その女の名前はひょっとしたら�ルミコ�じゃないか、と彼が訊《き》いたんだ。これには、私も驚いた。奇遇だ、と私は言い、彼女の話をしてやった」 「その時、住所を教えたんだな」 「そうだ。私は、�彼女に何の用がある、昔のいい人か�と冗談半分に訊いたが、笠原は何も答えなかった」  笠原は、刈谷雄司の姉が、スペイン人と結婚していて、留美子・サンチェスということはあらかじめ知っていたが、それ以上のことは何も知らなかった。ところが、滝口の話から、偶然、ヌイイのサンチェスの屋敷をつき止めることが出来た。しかし、その後、奴はどうしたのだろう。屋敷の誰かに近づき、雄司の泊まっているホテルを探り出したのだろうか? 「鈴切さん、奴に会ってどうする気だ?」  考え込んでいた私に滝口が訊いた。 「まだ何も考えてない。ともかく、俺は、刈谷雄司の命を守ってやりたいだけだ」 「え! あの男は、リカルド夫人の弟の命を狙《ねら》っているのか……しかし何故……?」滝口は呟《つぶや》くように言った。 「あんたには関係のないことだ」 「それは、そうだが理由が分かれば、私も陰ながら力が貸せるかもしれない。うちの会社としても、この機を利用して、西郷連合会とうまく切れるかもしれないからな」  私は拳銃を仕舞い、滝口を見て笑った。抜け目のない奴だ。私を利用して西郷連合会の悪事の尻尾《しつぽ》を握り、会社に取りついたビールスを取り除こうという腹らしい。この男が必要になる時が来るかもしれない。私は、笠原が刈谷雄司を狙っている理由を滝口に話した。 「そうか……墓地であった娘は西郷喜久蔵の娘なのか……」滝口はシャツのポケットから煙草《たばこ》を取り出しながら呟いた。「で、その書類というのは何なんだ?」 「それは知らない。西郷喜久蔵の隠し金庫に入っていたのだから、よほど、大切なものなのだろうがね。笠原はそれを取り戻すという仕事だけは完了したが、雄司を消すことと由起子を無事、喜久蔵の手に渡すことがまだ残ってるってわけだ」 「私に協力してほしいことがあったら、何でも言ってくれ。君と私は、間接的にだが利害が一致しているのだから」 「ところで、奴の車のタイプは分かるか?」 「BMWだと思う。うちの会社で手配したんだ」 「パリから車で入ってきたのか、奴は?」 「そのようだ」  私はホテル�マラゲーニャ�の場所を詳しく訊き、部屋を出た。  18  コスタ・デル・ソルで、一番栄えている観光の街と聞いているトレモリノスは、マルベージャから四十五キロほど、マラガ方面に行ったところにある。  私は暗闇《くらやみ》の中を時速八十キロほどで飛ばしていた。道路をよく知っている車は、どんどん私を抜いて行った。  私はサン・ミゲル通りの入り口の近くで車を降りた。通りには、土産物屋、ゲームセンター、ファッション・ブティック、レストランが立ち並んでいて、つまらないところだと分かっていても、一度は通ってみないと気の済まない観光客達がぶらぶらと歩いていた。  私は滝口に言われた通り、通りを奥まで入って行き、教会のところを右に折れた。  急に人通りが絶えた。白いアーケードのある小道や住宅があるだけの寂しい通り。さらに少し行くと、右に入る路地があった。薄茶色の敷石を奥に進む。風が立ち、壁に吊《つ》るしてある鉢に植えられた草花が弱々しく揺《ゆ》れていた。  ホテル�マラゲーニャ�はこぢんまりとした、いわゆる、プチ・ホテルだった。少女趣味の抜けない女と、ファッション雑誌でネクタイの結び方を研究しているような男に似合いそうなところである。人の殺し方を研究している御仁《ごじん》が滞在する雰囲気はしないが、案外、殺し屋の中にも少女趣味の人間がいるのかもしれない。  私は帳場の男に軽い口調で挨拶《あいさつ》し階段を上がった。  二一一のドアの前で、一度辺りを見回してから、私は拳銃《けんじゆう》を抜き、ドアをノックした。だが、何の応答もなかった。再びノック。  私はノブを回してみた。開いた。妙だ。鍵《かぎ》を掛けないで外出しているのは。中は暗く、家具やベッドの黒い輪郭だけしか見えなかった。中に入り、電気をつけた。  整然としたホテルの一室という以外に変わったところは何もない。笠原は一体どうしたのだろうか。私は、拳銃を仕舞い、備え付けの洋服|箪笥《だんす》を開けた。ズボンとシャツがハンガーに掛かっていた。フェンディのアタッシェ・ケースと高価そうな中型の旅行バッグが置いてある。中身に興味があったが、鍵が掛かっていた。こじ開けるのには少々時間が掛かる。私は、洋服箪笥のドアを開けたままにして、先に他の場所の探索をすることにした。とはいっても、他にはバスルームしかないのだが。  私はそのドアを開けた。  と、そこから、笠原のにっと笑った顔が現れた。記憶に残っているのはそれだけだった。  *  宇宙遊泳を行っている。頭の中も心も空っぽで、ただ流れのままに泳いでいる。昔は随分、流れに逆らって生きてきたような気がする。しかし、今は気分がいい。ただ泳いでいるだけなのだから……。以前、私はプールに飛び込むと、水がなくなってしまう夢ばかり見ていた。常に溺《おぼ》れそうになった女を助けに飛び込むのである。そして、常にその女は、クラウディア・カルディナーレなのだ。美人だが、私は彼女のファンではないし、どちらかというと私の趣味の女でもない。しかし、決まって私に助けてというのは彼女なのだ……。  遊泳は続いている。水のない深海をただゆらりゆらりと……。  う!! うう!!  まず、こめかみに痛みを感じた。どうやら遊泳は終わったらしい。頭の全体が割れるように痛い。吐き気がした。吐いた。急に寒気がして、私は目を開けた。  一瞬、私は、深い青い穴に落ち込んでいるような気になった。だが、それは青い色をしたバスタブだった。私は蛇口に両手首を繋《つな》がれ、両足首も縛られ、バスタブの中にほうりこまれていたのだ。口にはガムテープが張られていた。  私は縛られている足で、ビニールのカーテンを開けた。躰《からだ》を動かすと頭がガンガンした。電気はつけっぱなしだった。  私の手首を蛇口に結びつけているのも、足首を縛っているのも麻縄《あさなわ》らしい。私は、足元から三、四十センチ離れたところにある洗面台の辺りに目をやった。備えつけの剃刀《かみそり》があるはずだ。  アラミスのオーデコロンとモイスチャークリームが並んで置いてあった。チューブになっているモイスチャークリームは、残りが少ないようで、蓋《ふた》を逆さにして立ててある。笠原恒夫という殺し屋は、吝嗇家《りんしよくか》なのかもしれない。逆立ちしているチューブの横に柄《え》の黒っぽい剃刀が見えた。しめた! あれさえ取れれば。私は、足首を結ばれた両足を洗面所のほうに伸ばした。距離は何とか足りるだろう。後は、首尾よく剃刀をつかめるかどうかが問題だ。脚を伸ばす。靴が邪魔だ。洗面台の角に引っ掛け靴を脱ぐ。左が床に、そして右が蛇口の下に泣き別れた。足が両アラミスにぶつかる。オーデコロンの瓶が下に落ち割れた。そして、残り少ないローションも逆立ちをやめた。  踵《かかと》の間に何とか挟んで、剃刀を持ち上げた。だが何かの拍子ですべり落ち、蛇口の下に転がっている靴の甲に引っ掛かった。運が良かった。私の右足が収まっていた深淵《しんえん》な穴に剃刀を落とした。そして右足で、靴を引っ掛けバスタブまで運んだ。辺りにオーデコロンの匂《にお》いがしていた。  さてそれからが一苦労だった。まず、尻《しり》を上げ、両足を使って尻の下まで靴を運ぶ。それから尻をリドのダンサーのように振ったり回したりしながら、靴を後方へ押しやった。そこで、私は一服した。やはり躰がふらふらだったのだ。バスタブの背と私の背中の間に靴を挟み、傾斜を上がらせた。何度も失敗した。まるでギリシャ神話に出てくるシシュフォスになった気分だった。だが、私はシシュフォスみたいに罰を受けるような悪いことはしていない。そう思いながら、何度も同じことを繰り返した。  十回以上、失敗した後、やっと、私の右指は剃刀を手にすることが出来た。剃刀は備え付けのものではなく、笠原自身のものらしい。私は刃の部分だけを本体から外し、手首の縄を切った。ガムテープを取る時に、皮膚と髭《ひげ》がひっぱられ痛かったことを除くと、後は苦労はなかった。しかし、躰の調子は最悪だった。やっとの思いで立ち上がり、バスタブを出たが、足がふらついて倒れそうになった。私は酔っぱらいがトイレでするように洗面台に寄り掛かり、そのままじっとしていた。そして、ゆっくりと振り向き、鏡で自分の顔を見た。青白い生気のない顔。うつろな目。左のこめかみに血痕《けつこん》がついていて、そこから一筋血が這《は》っていた。胃袋をとってしまったが、下半身だけは元気な変質者という感じの形相。上着には血と汚物がついていた。私は三度頭を振り、五、六回唇を動かし、顔を洗った。そして、上着を脱ぎ、濡《ぬ》らしたタオルで汚れを出来るだけ拭《ふ》き取った。拭いている最中、手がすべって上着を、床に零《こぼ》れているオーデコロンの上に落としてしまった。肩のあたりに香水がべったりと染み込んだ。  再び上着を着た時、拳銃がなくなっているのに気付いた。私は靴を履くと、浴室から部屋に移り、その辺を探してみたが見つからなかった。洋服箪笥を調べてみた。先程あった物はすべて消えていた。オーデコロンや剃刀を忘れていったところをみると、笠原はだいぶ慌てていたらしい。  私は廊下に出て、煙草《たばこ》に火をつけた。  まだ、躰の調子はすこぶる悪かった。  一階に下りた私は帳場の男に笑いかけてみた。私が笑ったと相手が判断したかどうかは疑問だが、男は「何でしょう」と訊《き》いた。  少し怪しむような訝《いぶか》るような目つきで私を見ていたが、何も言わなかった。 「二一一の客はチェックアウトしたのかい?」 「何で答えなきゃならないのかね?」 「時間がないんだ。これで答えてくれ」  私はポケットから千ペセタ札を出してカウンターの上に置いた。 「荷物は持って出たが、戻って来るそうだ。明日までの料金はもらってあるから、どう使おうが、俺達《おれたち》の知ったことじゃないがね……」 「ありがとう」私はそう言って外に出た。  夜気が気持ちがいいと思ったのは、一瞬で、再び寒気がしてきた。私は先程通った道に出る手前を左に曲がった。酒場と書かれた看板が目に入ったからである。その路地は小奇麗なレストランバー街で、地元の若者や旅行者がテラスに溢《あふ》れていた。ドイツ語やフランス語が飛び交い、アメリカン・ポップスやスペインの流行歌が通り過ぎるバーから聞こえてくる。まるで、ラジオのチャンネルを単に回しているように、それらは断片的に私の耳に残った。エア・サプライの後にフリオ・イグレシアスが、その次にキッスが、という具合なのだ。普段の私なら、この明るい喧噪《けんそう》を押し分けて、ひとつの席を見つけることは造作もないのだが、今夜、何故《なぜ》か気後れし、そのまま、私は路地をうろつき回っていた。  気がついた時には、あまり客のいないバーにいた。奥の片隅の四人掛けのテーブルをひとりで占領し、ビールを頼んだ。グラスを一気に空け、煙草に火をつけた。少し体力が回復してきたような気がした。カルヴァドスを注文したが、置いてないと言うのでコニャックにした。酒棚にマルケス・ド・ドメックの瓶があるのに気付いたので、それを頼んだ。スペイン語のポップスが薄暗い店内に響き渡っている。カウンターに女がひとりいた。菫色《すみれいろ》のワンピースに黒いベルトをしていた。そのベルトを取ると脂肪が流れ出すような感じの腰。先程からトランプ占いのようなことを何度もやっているが、スツールの足乗せにのっかっている黒っぽいハイヒールを時々、詰まらなそうにぶらぶらさせていた。暇そうだった。私の斜め奥のボックスにはプラチナ・ブロンドの女が、目の焦点が定まらず、辺りをきょろきょろ見回してばかりいる小男と酒を飲んでいた。しゃべっているのはいつも女で、男は半分|齧《かじ》られたポッキーチョコみたいに頼りなげに座っているだけだった。  どうやら私の迷い込んだところは場末の胡散臭《うさんくさ》いバーらしい。いや、迷い込んだというのは正確な表現ではない。やはり、私の気分が、明るい喧噪を避けて、こういう場所を選んだのである。  私は、もう一杯コニャックを注文した。強い酒を荒れた胃に流し込む度に、意識がしっかりし、普段の私に戻って行くような気がした。  笠原は私が来ることを知っていたようだ。知っていたとすれば、情報源は滝口幸次郎しか考えられない。しかし、何故、笠原は私をすぐに殺さなかったのだろう……?  あのホテルの従業員に顔を見られているから、深夜、フロントに誰もいなくなった頃を見計らって外に運び出し、殺すつもりだったのかもしれない。荷物を持って出た癖に、もう一度戻って来るとフロントに告げたのは、おそらくそういう腹づもりでいたからだろう。  私はまたグラスを口に運んだ。 「ねえ、座っていい?」  黒いベルトが私の目線の位置で揺れているのに気付いた。見上げると、カウンターにいた女の顔があった。 「トランプ占いはどうした?」 「私、座っていいかって聞いてるのよ、フィリッピーノ」 「俺はフィリッピーノじゃない。ハポネスだ」 「どっちだっていいけどさ。私、座るわよ」そう言い終わらないうちに女は私の前に腰を下ろした。 「変な日本人だね、あんた。スペイン語が結構いけて、頭に傷を作って、こんなところでひとりで飲んでる……」  酔っていてもこの手の女は、結構見るところを見ているのである。目尻が少し上がり気味の、大きな目を私の躰に這わせている。 「余計な詮索《せんさく》をする気なら向こうへ行け」 「ああおっかない! 余計な詮索はしないからさ、一杯|奢《おご》ってよ」女は笑った。 「何を飲む?」 「あんたの飲んでるものでいいわ」  私はコニャックをまた二杯注文した。  酒が来て、私達は軽くグラスを合わせた。 「名前なんての?」 「スズキリ、シンゴ・スズキリ」 「私はね、ドロッテ。東京から来たの?」 「いや、パリだ」 「じゃ、フランス語出来る?」 「俺はフランス人だよ」と私はフランス語で言った。 「じゃ、私もフランス語にする。私ね、モロッコ人なのよ」  ドロッテのフランス語は確かにスペイン人のものではなくアラブのものだった。 「何だか楽しくなってきた」ドロッテはブランデーグラスを一気に空け、屈託のない笑みを浮かべた。 「フランス語をしゃべって楽しくなるアラブ人にあったのは生まれて初めてだぜ」 「フランス語なんてどうでもいいのよ。彷徨《さまよ》える外国人が、こうやって外国で出会う。それが楽しいの」 「案外、ロマンチックなんだな。それとも、スペイン人には、違うことを言うのかな」 「そんな、私、本当のことを言っただけよ」ドロッテは両肩を竦《すく》め、頬《ほお》を緩めながら言った。  それ以上、頬を緩めないほうがいいと思った。不摂生のせいなのか体質なのかは分からないが、顔の皮膚が弛《たる》み、輪郭が曖昧《あいまい》になっているのだ。だが、よく見ると美人の部類に入る女だ。太い眉《まゆ》。鼻筋は通っていないが、小ぶりで可愛《かわい》い鼻。小さい鼻のせいで、口はやや大きく見えるが、整ってはいる。髪は金髪だが染めたものだということは一目で分かった。 「ね、あんた、この街初めて?」 「好奇心の旺盛《おうせい》な子供みたいだな、君は」 「そうよ。私、子供なの。子供の頃、早く大人になろうと焦ったのが運のつきでさ。子供のまま、こんなところで屯《たむろ》するようになったのよ」相当酔っていて、口は回っていなかったが、不思議と不幸を背負っているという暗さは感じられなかった。 「俺はプエルト・サンチェスに宿を取っている。この街には今夜初めて足を踏み入れた」 「へーえ、ホセ・サンチェスの街にいるの?」 「君はあそこをよく知ってるのか?」 「街が出来た頃、私、あそこにあった小さなキャバレーで踊ってたのよ」 「フラメンコでもやっていたのか」 「違うわ、腹踊りよ。アラブ特有のあれよ」 「なるほど。で、君はホセを知ってるのか?」 「何度か見掛けたけど、話したことなんかない。でも、リカルドとアントニオは知ってるわよ。一時期よく店に来たもの」 「寝たのか、彼等と?」 「アントニオとは何回か寝たわ。でも、リカルドとはしてない。一度寝てみたい男だけどね」 「寝たけりゃ、あの街の海の見える墓地に埋めてもらうんだな」 「え! あの男、死んだの?」 「ああ。二日前、パリで殺された。新聞を読んでいないのか?」 「新聞は読まないことにしているのよ」 「何故?」 「或《あ》るインテリとつきあった時だけど、彼が言ったのよ。本当のインテリは新聞を読まないんだって。それで、私もインテリの仲間入りしようと思って、新聞は読まないことにしたの」  私が首を横に振りながら笑っていると、 「今のは嘘《うそ》よ。本当は字がちゃんと読めないのよ」ドロッテは笑い、急に真面目《まじめ》な表情になると、「で、殺したのは誰?」 「それは知らない。知っている人がいたら教えてほしいものだ」 「あんた、デカ?」ドロッテの濃い眉毛が寄った。 「いや、私立探偵だ」 「デカの親戚《しんせき》ね」 「そういう見方もあるかもしれないが、俺は親戚と仲が悪くてね。よくあることだけど」 「そうね。うちの家族も叔父《おじ》のところとかなり険悪な関係だったわ」 「ドロッテ。サンチェス家のことで知ってることがあったら話してくれないか?」 「話してあげたいけど、私、あの家については何もしらない。アントニオの一物《いちもつ》がしっかりしていたこと以外はね……」ドロッテがにやりと笑った。 「奴《やつ》と結婚したコリーヌというフランス人については?」 「金目当てで結婚した。そういう噂《うわさ》は聞いたことあるけど、他には何も知らない」 「そうか……」  私はコニャックをまた一口なめた。躰のほうはどんどん回復してきた。 「そういう話だったら、ここのパトロンのセニョール・オルテガに聞いてみたらいい。私が踊り子をやっていたキャバレーの経営者だったし、彼はあのプエルト・サンチェスの近くで生まれた土地っ子よ」 「どうすれば、セニョール・オルテガに会える」 「任しといて。そのかし……」ドロッテが含み笑いを見せながら、私を見つめた。 「分かってる。君の商売の時間を邪魔してるんだから、償いはするよ」 「じゃ、行きましょう」ドロッテがゆっくりと立ち上がった。 「行くってどこへ行くんだ?」 「セニョール・オルテガに会いたいんだったら、黙ってついて来て」  私は勘定を済ませ、ドロッテの後について店を出た。ここに来た時は、朦朧《もうろう》としていて通りの雰囲気がよく分からなかったが、よく見てみると、この辺りはいかがわしいバーやポルノショップが立ち並んでいるトレモリノスのピガールだった。  道を渡り二、三分のところにナイトクラブがあった。入り口の横の壁に何枚かの踊り子と、手品師の写真が貼《は》ってあった。踊り子のひとりはフラメンコの衣装を着ていたが、後は衣装と呼べるようなものは何も身につけていなかった。  ドロッテは店内に巣くっている鼠《ねずみ》どもさえ顔見知りという感じだった。彼女が暗幕の前で案内嬢に耳打ちすると、すぐにマネージャーらしい男が暗幕の陰から顔を出した。またも耳打ち。男は大きく頷《うなず》き、私達を店内に案内した。  客席は五十くらいあったが、それほど混みあってはいなかった。私達は出入り口に近い、ステージから一番離れた席に案内された。  ステージではスペイン風の扇をひらひらさせている以外に何もつけていないストリッパーが、クレージー・ホース風の照明の中で躰をくねらせていた。どこにでもいる踊り子のどこにでもあるショー。そして、テーブルについている男の客達は、これまた、どこにでもある表情でそれを見ていた。どのポルノ雑誌の女も大概、同じポーズをしているように、エロを売り物にしているナイトクラブはどこも似たり寄ったりなのだ。だが、それは商売上極めて重要なことなのである。客は芸術品を見にきているのではないのだから。  ドロッテは私に一言も断らずシャンペンを頼んだ。経費が掛かりそうだ。私は笠原が財布を失敬しなかったことにだけは感謝した。  シャンペンを運んできたボーイと一緒に初老の男が現れた。ドロッテの頬にキスをする。 「ラファエル、紹介するわ。この人ね……えーと……」ドロッテは私の名前を一度で覚えることが出来なかったらしい。酒の飲み過ぎで頭が悪くなったのだろうが、どのみち彼女のような商売をしていれば、名前など覚えてもあまり意味のないことなのだ。  私は、彼女の言葉をついで、名前と職業を告げた。ドロッテが会話をフランス語で始めたので、私もそれに従った。 「オルテガ、ラファエル・オルテガだ」  ダミ声がやはりフランス語で名乗った。太った体格のよい男。髪は黒で縮れていた。老眼鏡を掛けているせいかやけに目が大きく見えた。男の頭の上に、コック長の被《かぶ》るような白い筒型の帽子を想像してみた。ぴったりだった。しかし、こんな小屋といかがわしいバーの経営者であるこの初老の男が、これまで料理してきたのは、ウサギや豚ではないのだろう。やはり、ヤクザというものはどこか違うものだ。 「ラファエル。あなたにも興味のある話だと思って、彼を連れてきたのよ」 「ドロッテ、おまえまた飲み過ぎてるな」 「いいじゃない。私のお金で飲んでるんだから。それより、彼の話、聞いてあげて」  私はふたりにシャンペンを注《つ》いだ。 「何の話か、それに君が探偵だということは、さっきマネージャーから聞いた。で、知りたいことは?」 「サンチェス家のことなら、なんでも」 「まず、リカルドの冥福《めいふく》を祈って、乾杯しよう」オルテガは空気の抜けたゴムボールのような手でグラスを持った。私もドロッテも彼に従った。 「で、あんたはリカルド殺しを調べにわざわざ、こっちに出向いてきたのかね」 「これにはいろいろ経緯《いきさつ》があるのだが、まあ、結果的にはそうなりました」 「依頼人はリカルドの女房なのか? 彼女とあんたは同国人だろう?」 「依頼人については、それなりの理由がないと話さないことにしています。リカルド夫人は確かに同国人だが、彼女が依頼人ではありません。俺にとってここは不慣れな土地。出来たら、セニョール・オルテガのような人物に会いたいと思っていました。俺の周《まわ》りにいる人間はすべてサンチェス家に何らかの形で絡んでいる。言わば審判がいないサッカー・ゲームのようなものです。スタンドで見ている俺としては実に困ってるわけですよ」 「私はいい審判じゃないかもしれないぜ」眼鏡の奥の大きな目が笑った。 「多少のえこ贔屓《ひいき》があっても、それは仕方がないことです。あなたがサンチェス家と関係のない人間で、しかも、サンチェス家およびあの街のことを知っているだけで俺にとっては充分です」  舞台では奇術が始まっていた。小柄な人相の悪いマジシャンと尻を振っていることばかりが目立つ助手の女が観客に、少ない拍手を得ようとして大袈裟《おおげさ》に笑いかけていた。 「私の話が、あんたの調査に役立つかどうか分からんよ」 「それは分かってます。セニョール・オルテガは殺されたリカルドをよく御存じでしたか?」 「ああ。よく知っていた。あの街に親父《おやじ》と一緒にやってきて、まず掘っ立て小屋みたいな事務所で不動産の仕事を始めた時からな」 「仕事上のことですが、誠実な人間でしたか?」 「私の知る限りでは、遣《や》り手だったが、評判は悪くなかった。親父が畑や荒れ地だったあの辺の土地を買収し、住まいや店舗に使える建物を建てさせたんだ。リカルドはその手伝いをしていた」 「マリーナも彼等が造らせたそうですね」 「そうだ。アメリカからマリーナの設計に掛けては世界一とかいう男を呼んで造らせたんだ」 「土地買収の時にトラブルはなかったのですか?」 「余所者《よそもの》に入って来られるのを嫌った連中が何人かいたが、文句はいえなかった。あの辺は三人の大地主が所有していて、そのうちのふたりは、マドリードに住んでいた。いわゆる、不在地主だった。だから、村人達の知らないうちに、土地の一部の所有者が変わっていたというわけさ」 「もうひとりの地主は?」 「私の親戚だったのだが、彼も初めから売る気で、トラブルはなかった」 「ということは、リカルドに恨みを抱く者は心当たりがないわけですね?」 「ないね」  私は、東西リクレーションがリカルドとアントニオ、そしてマリアの土地を欲しがっている話をした。 「ああ。その話は知っている。アントニオとマリアは売りたがっていたがリカルドがOKと言わなかったというんだろう。それが今度の殺しと関係があると思ってるのか、君は?」 「分かりません。リカルドが死んだので相続人は妻のルミコだ。日本人の彼女が、夫を失った後、子供がいるわけでもないのに、あの屋敷に残るかどうか? ルミコをいびり出すのはそれほど難しくないような雰囲気だしね。所有している土地を、例えばアントニオに譲り、この土地を去る可能性もないわけではない」 「アントニオの妻コリーヌならそういうことを遣《や》りかねない女だな」 「ということは?」 「コリーヌは、あの家の財産だけが目当てで、アントニオとくっついているんだ」 「それは俺も知ってます。でも、何故、アントニオは離婚しないんだろう?」 「まず、マドリードの寄宿舎にいる子供のことがあるでしょう……。それに、あの男は、女には手は早いけど、後のことは何も出来ないの。夫婦関係は冷え切っていても、アントニオはあの女が必要なの、商売をやっていったりする上でね」ドロッテが口を挟んだ。  彼女の目はとろんとしていたが、機械的に手をグラスに伸ばしていた。 「あの夫婦が、いや、コリーヌひとりかもしれないが、リカルドを誰かに頼んで消させたかもしれんな」オルテガが煙草に火をつけ、煙を大きく吐き出した。青白い煙が照明の光の中でゆっくりと腰を振っている。「だが」と彼は私を見据えて言った。「リカルドの妻にだって殺す動機はあるだろう? 君は同国人には優しいナショナリストなのか?」 「まさか。この際人種は関係ない。俺は頼まれた仕事をするだけ。つまり、リカルドを殺した人物を突き止める。それだけです」 「見つけたらサツに引き渡すんだろう?」 「この場合は多分、そうするでしょう。しかし、いつでもそうするわけではない。俺のモットーは臨機応変。分かりますかね?」 「分かるような気がしないでもないね。だが、今回は何故、警察に引き渡す、と決めているんだね、まるで犯人を知ってるみたいじゃないか?」 「犯人は知らないが依頼人は知っている」 「それでは答えにはなっていないが、構わんよ。どうせ君は質問ばかりして、答えたくないことは答えない人間のようだから」  私はにっと笑って、グラスを口に運んだ。 「コリーヌと警察署長のディアースがくっついているという噂があるが、本当ですか?」 「どうやら、そうらしい。ディアースは今はおとなしくサンチェス家の番犬をやっているが、なかなかの野心家だからな。コリーヌとくっついて、うまい汁を吸おうとしているのかもしれない。それに、コリーヌがいくら奸計《かんけい》に長《た》けているとはいえ、コリーヌは女だ。男を自分の仲間に引き入れておくほうが得だと判断したのだろう。腐っていてもディアースは警察署長だからな」 「悪《わる》同士の化かし合いってところですか」 「あのふたりは、アントニオがコリーヌを知る前からの付き合いなんだよ。ひょっとすると、ふたりが計画して、コリーヌがアントニオを誘惑したのかもな……」 「以前からの知り合いというと?」 「親父同士が友人なんだ。ディアースの親父はスペイン市民戦争時代、共和国側で活躍した軍人で、コリーヌの親父は、義勇兵として、やはり共和国側について戦ったんだ。どこでどうやって、このふたりが知り合ったかは知らんが、家族ぐるみで付き合う仲だったんだ。無論、ディアースの親父は今は死んでいないがね」 「ミゲル・寺本というリカルドの秘書については何か御存じですか?」 「彼のことはあまり知らない」 「私、ミゲルのことなら知ってるわ」ドロッテが酔った声で言った。 「おまえの知っているのは躰だけだろう?」オルテガが茶化した。 「捨てられた子犬みたいに可愛い人だった……」 「あんたは、ミゲルとは結構、深い仲だったんだな」 「私、すぐ深い仲になってしまう性格なの。でも、長続きしたことは一度もないけれど」ドロッテはちらっとオルテガを見た。  このふたりもかつてはそういう関係だったのかもしれない。マジシャンが客の何人かをステージに上げショーを続けていた。 「ねえ、ラファエル……ホセ・サンチェスの話もしてあげたら?」 「…………」オルテガが含み笑いを浮かべた。 「彼の何かをつかんでいるようですね」 「そうよ。ラファエルはホセについて調べたことがあるのよ」 「それはまた何故?」 「ちょっと気になったことがあったものでね」 「気になったのは、ホセの過去?」 「そうだ。私はあの男に会った記憶があるんだ。といっても五十年以上も前のことだから、絶対とは言い切れないんだがね」 「五十年以上というと戦前ですね。ホセとどこで会ったのですか?」 「マルセイユ。一九三〇年代の初めの頃だ。私は今のプエルト・サンチェスの近くで生まれたのだが、六歳の時、両親がマルセイユに移り住んだ。うちの近所にも、やはりスペイン人の家族が住んでいた。モデストという一家でひとり息子がいた。名前はエミリオ。私より五つ、六つ年上の……だから、当時二十二、三の血気盛んな若者だった……」 「その男とホセが同一人物だと?」 「何とも言えないが、私にはそう思えてならないんだ。若い癖にやけに頭の回る狡《ずる》い奴で、札付きだった。当時の私は、真面目な少年だったから、エミリオとは付き合わなかったが、私の両親は、しょっちゅう、モデストの息子のようにだけはなるなと言ってたんだ。セニョール・スズキリは御存じないだろうが、あの頃のマルセイユは、ギャングが、市政にまで口出し出来るほど、力を持っていた時代だった。ポール・カルボンヌなんてコルシカ出身のヤクザがデカイ面《つら》していたんだ」 「そのエミリオという若者もヤクザの道に入った?」 「そうだ。だが、一九三七年に急に姿を消したんだ。それからのことは、私は何も知らない。戦争があり、私もフランス人とともに抗独地下運動組織に加わり闘った。そして、よくあるパターンだが、戦後の空白期に、気がついたらヤクザの道に入っていた」 「で、あんたが生まれ故郷に戻って来て、エミリオらしい人間、つまりホセ・サンチェスに会ったわけですね」 「ああ」 「ホセとエミリオを同一人物だと証明できる身体的特徴はないのですか?」 「あれば、私もあやふやなことは言わんよ」 「ホセに、その話をしたことはないのですか?」 「直接はないが、リカルドに訊いたことはある。�あんたの親父さんはマルセイユにいたことはないかね?�ってな。答えはノーだった。その時の表情からすると、嘘をついているようには見えなかった」 「で、あんた独自で調べてみたんですね?」 「そうなんだ。リヨンで旅行代理店と宝石商をやり成功していたのは確かだ。その前のことがよく分からない。リカルドもアントニオもパリ生まれだから、戦争中から戦後パリにいたらしいのだが、何をしていたのかは、さっぱりつかめないんだ」 「あんたは、そんなことを調べてどうするつもりだったんです」 「どうするつもりもなかったよ。ただ、エミリオとホセが同一人物かどうかに興味を持っただけさ」 「いいじゃない……本当のこと言ったって……」  ドロッテが空のグラスの縁を軽く撫《な》で回しながら言った。  オルテガの老眼鏡の奥の目が鋭くドロッテを見た。 「どうやら、あんたもサンチェス家に関係している人間らしいな。残念ながら、また容疑者リストに名前を加えなきゃならん」 「馬鹿を言うな。殺されたのはホセじゃなくて、リカルドなんだぜ」 「あんたが隠していることを知るまでは、何とも言えんね」 「じゃ、教えてやろう。エミリオが失踪《しつそう》した時、私の姉もいなくなったんだ。姉も札付きでね。まあ、いいコンビだったわけさ。�エミリオと一緒に貧乏から抜け出す�とかいう手紙を残し出て行った」 「それから姉貴はどうしたんです?」 「分からん。何しろスペイン市民戦争、それから第二次世界大戦と、個人の命など犬猫の命同然の時代だったからな」 「もし、ホセがエミリオだとすると、リカルドとアントニオの母親があんたの姉さんかも知れないじゃないですか」 「私もそう思って、いつかアントニオに母親の写真を見せて貰《もら》ったことがあった。だが、私の姉ではなかった」 「エミリオの写真はないんですか?」 「そんなものあるはずがない」 「それもそうですね」 「姉は�貧乏から抜け出す�と言っていたところを見ると、エミリオにうまい金儲《かねもう》けの口があったに違いないし、ホセの金の出所《でどころ》がはっきりしないのが引っ掛かるんだ」 「そのふたつを単純に結びつけるのはどうかな?」  オルテガは黙って頷《うなず》き、「それに……」 「それに、何ですか?」 「三か月ほど前、マリーナのレストランで会ったフランス人が妙なことを私に尋ねたんだ。私も彼もひとりで夕食をとっていた。隣り合わせの席でな。そのフランス人は私が、土地の人間だと分かると�マリーナの外れにある銅像は、どんな人なのだ?�と訊いたんだ。私が一応の説明をしてやると、その男は、彼の知り合いのピエトロ・ドミンゴという男に似ていると言いだしたんだ」 「で、そのピエトロというのは何者なのです?」 「マルセイユにいた宝石ブローカーだというんだ。私は、てっきりエミリオが偽名を使ってそのフランス人を騙したのではないかと思ったんだが、事実は違っていた。そのフランス人は宝飾美術品をそのブローカーから買ったのだが、取引は正当なものだったそうだ。ただ、その取引以後、行方《ゆくえ》が分からないということなんだが……」  ホセ・サンチェスがそのブローカーだったとしたなら、何故、偽名を使ったのだろうか? その取引が正当なものならば、何も偽名を使う必要はないではないか。いずれにしろ、ホセ・サンチェスには謎《なぞ》が多すぎる。 「そのフランス人の名前と住所は分かりますか?」 「分かる。私も興味があったので控えておいたんだ」そう言って彼は、手帳を出し、そのフランス人の名前と住所を読み上げた。  ベルナール・ド・シャリエ。住所はふたつあった。パリとアヴィニヨン。この男は大金持で、その両方を行ったり来たりし、気儘《きまま》な生活を送っている貴族なのだそうだ。 「私は、ホセの写真を彼に見せた。以前に盗み撮りしたものなのだがね……。やはりはっきりしなかった。だから、ドミンゴとホセは別人かもしれないぜ。それに、リカルド殺しとは関係ない、と思うがね」 「ホセの金の出所が気になる。だから、一応、頭に入れておきたいのです」 「それは俺も知りたいところだが、さっぱり分からない。さっきも言ったが奴のリヨンでの商売はうまくいっていた。それにこちらに来る際に、向こうの土地家屋をすべて処分しているんだ。だから、かなりまとまった金を持っていたには違いない。しかし、それだけじゃ、あれほど大々的に土地を買い漁《あさ》ることは出来ないような気がする。いくらこの辺の土地が安いとはいえな……」 「サンチェス家の人間は、金のことをどう説明しているんです」 「サンチェス家は財産家だったの一言なんだ。おそらく、死んだリカルドにしろ、アントニオにしろ、リヨン時代以前の親父のことは知らないんだろうよ」オルテガはそう言って大きな溜息をついた。「リカルド殺しの調査には大して役に立たんことばかりだろうが、私はそれくらいのことしか知らん」 「いや、おおいに役に立ちました。俺はこれまで何もつかんでいない。手掛りになるのかならないのか分からない断片的な事実をたくさん集めるしかないんです」 「もし、ド・シャリエに会ったらよろしく言ってくれ」  私は黙って頷いた。  知らぬ間にドロッテはカードを出して占いを始めていた。 「どうだい、幸運が巡ってきそうかい?」 「ちょっと待って、ここにハートの十が出たらね……出た。これからはいいことずくめよ。過去は酷《ひど》いって出てるけどさ……」  カード占いのことはよく分からないが、ドロッテが過去を呪《のろ》い、未来に幸福ばかり夢みている女だということだけは分かった。明日になれば今日は呪いの対象として存在する過去なのだ。過去と未来の狭間《はざま》でドロッテという女はただ現実を酒に流しているだけらしい。私は五千ペセタ札を彼女の空になったグラスの下に置き店を出た。  19  留美子の住まいになっている離れ家の前にミニ・クーパーを停めた。アントニオ夫妻の家から女がひとり飛び出して来た。留美子だった。顔の表情は、暗くてまったく分からなかったが、何やらただ事ではないものものしい雰囲気が、駆け寄ってくる彼女の仕種《しぐさ》から感じ取れた。  車から降りた私にいきなり留美子が抱きついてきた。肩のあたりで彼女の柔らかい髪が揺れている。留美子は何か言おうとしたが言葉にならなかった。彼女の後ろに執事が立っていた。 「どうしたんです?」私は彼女を抱いたままつとめて穏やかな口調で訊《き》いた。 「ア、アントニオが……」  私はそれ以上何も訊かなかった。留美子をリカルド邸の玄関の横にある白いベンチに座らせた。 「アントニオ様が死んでいるようでございます。それにミゲルが気を失っていて……」執事が囁《ささや》くように言った。 「警察と医者はどうした?」 「ただいま、電話を致します」 「こっちは俺《おれ》が面倒見る」  執事は母屋に向かって駆けだした。留美子は目を瞑《つぶ》ったまま躰《からだ》を震わせている。質問しても、まともに答えられるとは思えない。私はただ留美子の手を握っていた。  執事が戻って来た。留美子を彼に任せ、アントニオ邸に向かった。  玄関のドアも居間に通じているドアも開け放しになっていた。  居間に入った私は、息を飲んだ。男がふたり倒れていたのだ。  ひとりは、居間に入ってすぐ右に置いてある長椅子《ながいす》の上に仰向けに倒れていた。ミゲル・寺本である。  そして、部屋中央のシャギーカーペットの上にはアントニオがうつぶせになって倒れていた。カーペットは血に染まっている。血の源はアントニオの後頭部らしい。  私はまず、ミゲルに近づいた。彼も、頭を殴られたようだが、気絶しているだけで生きていた。  ミゲルをそのままにし、アントニオの前でしゃがんだ。彼はミゲルと違って何度も頭を殴られたようだ。ひょっとすると気絶した後も、犯人は解体業者がビルをひとつ壊すような気分で殴り続けたのかもしれない。無残な死に様。犯人はアントニオを狙《ねら》ったのだ。ミゲルは単なる巻き添えらしい。  アントニオは、紫地にペーズリー模様のあるローブ姿だった。今頃の時刻、アントニオはフォーマルな服装をして、カジノにいるのではなかったのか? 彼の顔の近くにパイプが転がっていた。パイプを吸いながら、後ろを向いた時、やられたのかもしれない。パイプから一メートルばかり離れたところに、黄色いスカーフのようなものが落ちていた。女がいたのだろうか? 私はその商標を何気なく見た。 �エロカンス�  雄弁という意味のフランス語だ。文字通り犯人のことを雄弁に語ってくれる証拠品なのだろうか?  私は目を胴体のほうに移した。腹のわきに女の全身をかたどった三十センチほどのブロンズ像があった。血がべっとりとついていた。私は手を触《ふ》れずに凶器を見つめた。女は�こんなこともあるさ�という感じで肩を竦《すく》めていたが、顔には目や鼻は描かれていなかった。  私は立ち上がり、部屋を見回した。バーキャビネットの扉が開いている以外は、家具はすべて整然としていた。カクテルテーブルの上には低くて広いガラス製の花瓶に花が生けてあった。その横の灰皿の中に煙草《たばこ》の吸殻がふたつ入っていた。一本はマルボローだったが、もう一本が私の興味を引いた。キャスター。由起子が好んで吸っていた日本の煙草である。  私は、キッチンや他の部屋を調べてみた。何を調べるというわけではなかったが、一通り見ておかなくては、気が済まない。二階には部屋が三つあった。一部屋ずつ調べて廻《まわ》る。明かりがついていたのは、最後のひとつだけだった。中に入った。ベッドを使用した跡があり、バスローブが脱ぎ捨ててあった。サイドテーブルの横の灰皿にも口紅のついたキャスターの吸殻が二本入っていた。私は、溜息《ためいき》をつきながらポケットに仕舞った。そして、下に降りるともう一度日本の煙草の大好きな浮浪者と化し、吸殻のひとつをつまみ上げた。  キッチンや書斎も覗《のぞ》いてみたが、興味をそそるような物は何もなかった。 「怪我人《けがにん》はどこだ?」外で男の声がした。  執事が何かわめいている。  私は玄関口に立った。  相変わらず暗がりの中で、留美子が放心したままベンチに座り込み、その横で背中を丸めた執事が何か言っていた。  医者が私のほうにやって来て、看護婦は留美子のほうに向かっている。  医者は、質の悪い聴診器を使っても、どんな音も聞き逃さないような大きな耳をした中年の男。 「ソファーに寝ている男だけを診察してくれ。もうひとりはいい」  医者は眼鏡に軽く触ってから、何も言わずにミゲルの枕許《まくらもと》にしゃがんだ。  サイレンの音が微《かす》かにしていた。 「大丈夫か?」私はミゲルを覗き込むようにして医者に訊いた。 「詳しい検査をしてみなきゃ分からんが、脳震蘯《のうしんとう》だろう。今は動かさんほうがいい」  医者は私を見上げて、極めて事務的に言い、 「おや、あんたも怪我してるな」 「これは、古傷でね」 「そうはみえんがな」 「こんなことがあった後では、二、三時間前の傷はもう古傷ですよ」  医者は一瞬、ぽかんとした顔をしたが、すぐにまたミゲルのほうに向き直った。  外に出た。留美子は家の中に入ったらしく、ベンチにはもう誰もいなかった。私は留美子の家に入り、執事に様子を聞いた。ショックを受けているらしいが、大したことはないとのことだった。 「雄司と由起子はどうしている?」 「さあ、リカルド邸にはいらっしゃいませんが……」 「アントニオ夫人には知らせたのか?」 「それが、カジノにおいでにならないのです。今、手分けして探しているところです」  サイレンの音が次第に近づいてきて、突然鳴りやんだ。闇《やみ》を断続的に切り裂く青いランプの光が母屋の陰から現れた。私は母屋の裏口に向かって歩いた。  POLICIAとボディーに書かれたターボ・オリゾンが三台とバンが一台、アントニオの家の前で止まった。  私は尋問を受ける前に雄司と由起子に会っておきたかった。私のポケットの中に入っている隠匿証拠のことが気になっていたのだ。  母屋では料理人や小間使いの女達が玄関ホールに集まっていた。彼等にはまだ、事の次第は分かっていないのだろうが、知ればこの屋敷を辞めたがる人間も出てくるのではあるまいか。迷信深い人間なら、きっと何かの呪《のろ》いか祟《たた》りではないかと思うに違いない。  私は、留美子の弟とその連れを見なかったか、と全員に訊いてみた。由起子を見たものはひとりもいなかった。だが、雄司が屋敷を出て行ったのを知っている者は二人いた。  雄司は、タクシーを呼び、屋敷を出て行ったというのだ。時間は三、四十分ほど前のこと。しかし、行き先は誰も知らなかった。妙な話である。雄司が、ひとりで行きたい場所など、このコスタ・デル・ソルにあるはずないではないか。それにタクシーを呼んだ? 誰が? ここにいる雄司は、まだ涎掛《よだれか》けの取れないネンネと同じなのだ。冗談じゃない! 雄司がタクシーを呼ぶなど考えられないことだ。しかし、使用人達が嘘《うそ》を言っているとは考えられない。私は頭が混乱してきた。  一体、雄司はどこへ行き、由起子はどうしてしまったのか?  部屋のほうに向かって長い廊下を歩いていると、「セニョール!!」と後ろから呼び止められた。庭番をやっているずんぐりとした男だった。 「戻ってきましたよ。セニョーラの弟さんが!」  庭番の後ろに雄司の姿があった。私は庭番に礼を言った。私の姿を見つけた雄司は、突然ダッシュを切った。 「兄貴! あんたは俺を呼び出したか?」雄司は俺の胸ぐらをつかんだ。 「何を言ってるんだ。呼び出したりしない」 「やっぱりな。偽電話だったんだ」 「偽電話?」 「由起子はどうした、姉貴の家にいるのか?」 「俺も、ついさっき戻って来たんだが、姿が見当たらない」 「畜生!! 笠原の野郎に……」  雄司は裏口のドアに向かって走り出した。私も後を追った。裏口のガラスに映る青いランプに雄司は怯《ひる》んだ。一瞬、ドアノブを握ろうとした手が空《くう》で悶《もだ》えた。 「一体、どうしたんだ!!」  振り向いた雄司の顔がひきつっていた。その顔を青い光が何度も薙《な》いだ。水晶玉の光を受けた魔術師のような形相に見えた。 「アントニオが殺されたんだ。どうせ向こうに由起子はいない。俺がさっき調べた。おまえも警察の取り調べを受けることになるだろう。その前に、偽電話の話を聞かせてくれ」 「でも、由起子が……」 「俺の言うことを聞け。いいか、由起子が笠原に連れ出されたのなら、ここでガタガタ騒いでもどうしようもない。もし、なんらかの理由で、どこかに行っているのなら黙っていても戻ってくる」 「なんらかの理由ってなんだ。そんなものあるはずねえじゃないか。笠原の野郎が誘拐したに決まってる」 �なんらかの理由�なんて雄司の言う通りあるはずがない。あるとすれば、アントニオとの情事の場面を、犯人に見られ逃げ出したことしかない。その場合は、犯人に追われ殺されている可能性だって否定できないのだ。 「雄司、オタオタするな、いいか、俺を兄貴と呼ぶおまえだ。ここは俺の言うことを聞け」 「しかし……」 「いいから、俺の部屋に来い。こんなとこで言い争っているのをサツに見られたくないんだ」  私は雄司の腕を取り、無理矢理部屋に連れて行った。  ベッドの端に力なく腰を下ろした雄司の胸が激しく動いていた。  私は黙ってウイスキーのストレートを二杯作り、グラスをひとつ雄司の顔の前に突き出した。 「飲め。そして、何があったかを話してみろ。俺もおまえに話があるんだ」  一瞬、私の目を見た雄司はグラスを受け取った。 「偽電話って、俺からのものだったのか?」  雄司は黙って頷《うなず》き、煽《あお》るように酒を飲んだ。左脚が軽く貧乏ゆすりをしている。 「おまえが電話を受けたのか?」 「いや。執事ってのか、いつも無表情な男いるだろう。あいつが伝言を書いたメモを持ってきたんだ。伝言は日本語じゃなかったがな」 「しかし、姉貴の家にも直通電話があるじゃないか。そちらに掛かってこなかったのを、変だと思わなかったのか?」 「俺は姉貴のとこにはいなかった。アントニオに誘われて母屋に行ったんだ」 「何だって! 昨日、おまえは奴《やつ》と……」 「アントニオがミゲルを通じ、昨日のことを謝ってきた。そして、俺をビリヤードに誘った。俺はどうしようか迷ったが、向こうが詫《わ》びを入れて来たんなら、受けてやろうと思い、母屋に行ったんだ」 「由起子はどうしてた?」 「彼女は連れて行かなかった。また、俺の頭の血が上るようなことをしでかすと面倒だと思ってな」 「で、母屋のゲーム室でビリヤードをやっている最中に伝言が届けられたという訳か?」 「ああ」雄司は首筋を撫《な》でながら頷いた。 「ミゲルもビリヤードに付き合ったのか」 「そうだ。ずっと一緒だった。伝言を訳してくれたのもミゲルだ」 「で、どんな内容の伝言だったんだ?」 「『至急、ホテル�エウロパ�に来い。そしてそこで待て。重要な問題が持ち上がった。鈴切』とかいう内容だった」 「おまえ何時にこの屋敷を出た?」 「よく覚えてねえが、八時を少し回った頃だった、と思う」雄司は投げ遣《や》りな口調で答えた。私の質問をうるさく感じているらしい。 「俺は馬鹿だよ。まったく。二度も笠原の小細工に引っ掛かっちまうんだから……」  パリのホテルでの小細工は笠原恒夫によるものだろうが、今夜、雄司を呼び出したのは奴ではない。アントニオが邪魔な雄司を追っ払おうとして策略を巡らせた。私にはそうとしか思えなかった。 「しかしな」雄司は一度鼻を啜《すす》ってから、再び口を開いた。「俺は、兄貴が笠原のことで何かつかみ、しかも、俺に助《すけ》っ人《と》を求めてると思っちまった。それで何も考えずに屋敷を飛び出したんだ……」  私に言い訳している感じはしなかった。雄司の言い訳している相手は彼自身なのだ。心の動きをなぞり、自分の浅はかさを悔いているのだろう。 「で、ミゲルにタクシーを呼んでもらったのか?」私はグラスの中の酒を半分ほど飲んでから訊いた。 「ああ」 「ホテルにはどのくらいいた」 「一時間くらいじゃねえかな」 「証人はいるだろうな?」 「証人? 兄貴、俺がアントニオを殺《や》ったとでも思ってんのかよ」雄司が歯を剥《む》いた。 「サツが質問した時の予行演習だと思って答えろ。俺はおまえが殺ったとは思っていない」 「当たり前じゃねえか。俺が何であのやさ男を殺らなきゃならないんだよ」 「で、証人というのはバーテンか?」 「そうだ。話がまったく通じず金を払う段になって、困ったんだ。バーテンは忘れられないだろうよ。俺は終始日本語でしゃべっていたんだから」 「おまえが屋敷を出る時、由起子は何をしていた?」 「居間のテレビで音楽番組を見てたよ」  私はフィリップ・モリスに火をつけ、ゆっくりと吸った。私の座ってる場所からはアントニオ邸もリカルド邸も見えない。見えるのは、時代遅れのパーマをかけた中年女の黒髪みたいな木立の影とプールだけである。プールサイドの照明灯の光が水に溶けている。風が吹くと、その淡い光は息を吹き返した魚のように銀色の背びれを立て泳ぎまくっていた。  突然、ふたりの警官がプールサイドを横切って行くのが視界に入った。ふたりとも懐中電灯を持ち、急ぎ足で浜辺のほうに向かって行く。 「兄貴、由起子を取り戻す方法を考えてくれ」雄司が悲痛な声で訴えた。 「笠原が誘拐したとしたら、必ず奴を捕まえて連れ戻してやる。奴が由起子をどこで親父《おやじ》に引き渡すか、それを探りだせれば……」  私はまたグラスに酒を注《つ》いだ。  由起子がアントニオの部屋にいたことを、何度か教えようと思った。雄司は事実と直面したほうがいいという気がしたのだ。  しかし、私は黙っていた。  雄司は付き合い始めた時から、由起子がそんな女であることを、知っていたはずである。ただそれを、自分を誤魔化してまでも認めたくないのだ。それは薄っぺらいプライドだが、それでも雄司にとっては、やはりプライドなのだ。時期が悪い。安手のプライドなんか、いつでもふっとばしてやれる。最後はつかみ合いになるのを覚悟していればよいだけのことである。彼がもう少し落ち着くまで、私は何も言わないことにした。  そんなことを考えていた私の右手は無意識にポケットの中のキャスターの吸殻を触っていた。引き出した指を見た。真っ黒だった。  ノックの音がした。相手は執事だった。 「警察署長が皆様にお話があるそうです。応接間までいらっしゃっていただきたいと申されております」 「分かった」  執事が出てドアを閉めようとした。 「待ってくれ」 「何か?」 「ちょっと中に入ってくれないか?」 「しかし、署長が……」 「警察は待ってくれるよ。尋問しないで帰るはずないだろう」  渋々執事は中に入った。何を話しているのか分からない雄司は、顔を強《こわ》ばらせたまま私達に目を向けていた。 「今夜は大変だったね、えーと……」 「アルベルトです」 「そうだった、アルベルトだったね……一杯飲むかね?」 「いえ、私は酒はやりません」 「アントニオの死体は、アルベルト、君が見つけたのか?」 「いえ、ルミコ様です。外からお帰りになった際、アントニオ様のところの表玄関が大きく開いて人が倒れているのが見えたそうなのです」 「彼女がどこに行っていたか、君は知ってるか?」 「近くに住んでいらっしゃる御友人宅に行くと申されてお出掛けになりました」 「なるほど、で、死体を発見した彼女に、君は呼ばれたわけか?」 「左様で。私がミゲルの状態を調べました。気絶しているだけのようでしたので、私がソファーに寝かせました」 「何時頃の話なんだ」 「スズキリ様がお帰りになる十分ほど前のことですから、九時二十分頃のことです」 「なるほど。いや、ありがとう」  警察の尋問を受ける前に死体発見の状況を頭に入れておきたかったのだ。留美子に今の段階で訊くのは酷のような気がしたし、警察は教えてくれるはずはない。国家の最高責任者の死をなかなか発表しない国が時々あるが、警察というものは、どこの国でも秘密主義なものである。 「他に御用がなければ、私はこれで」 「いや、まだだ、アルベルト」  執事の目が一瞬、鋭く光った。 「何でございましょう、セニョール」 「君が俺からの伝言を、ここにいるユウジに伝えたそうだな」 「はい」執事は、兵士が上官の前でするように私の頭の上を見たまま答えた。 「本当に俺だったのか?」 「確かにスズキリと名乗りました」 「スペイン語で?」 「左様でございます」 「アクセントはあったかね」 「何とも説明できませんが、日本人特有のアクセントがあったように思いました。セニョールのような」 「嘘をつけ!!」 「私は伝言をお伝えしただけです」執事は怯《ひる》まなかった。 「君はアントニオに頼まれて、一芝居打ったろう」 「滅相もない」執事の視線が一瞬私と合った。 「俺のスペイン語のようなアクセントの電話だと! 白々しいことを言うな。君は知らんだろうが、俺は日本人じゃない」私は上着のポケットから、フランスのパスポートを取り出し執事に投げつけた。思わず執事はそれを受け取った。 「どうしたんだよ、兄貴!」雄司の声が飛んだ。 「いいから、黙ってろ。おまえには関係ない」  雄司が外国語ができないせいで、余計な苦労ばかりさせられたが、この時ばかりは彼がスペイン語を解さないことを喜んだ。アントニオと由起子の逢引《あいびき》を助けたのはこの執事だと踏んだ私は、一か八かこの男を揺さぶってみることにしたのである。 「俺のスペイン語はフランス語訛《なま》りなんだ」 「しかし、確かに私は電話をお受けしたのです」 「そうかい? なかなか立派な執事だよ、君は。しかし、君の本当の雇い主はアントニオじゃないんだぜ。それを忘れないほうがいいな」 「…………」 「俺はあることないこと、ホセ・サンチェスに吹き込んでやるから、そのつもりでいろよ」 「御勝手に」執事は相変わらず無表情にそう言った。しかし、出て行こうとはしなかった。次に私が何を言うかが気になるのだろう。私の投げた餌《えさ》に、ほんの少しだが食いついてきたらしい。 「なあ、アルベルト。君と俺の間だけの秘密ってことにしようじゃないか。君がお小遣いを貰《もら》ったかして、アントニオの不埒な計画に加担《かたん》した。俺はそれをどうのこうの言う気はまったくないんだ。俺の知りたいのは、アントニオが殺される前に何があったかということなんだ。その様子だと、どうせ警察には何も話していないんだろう? この辺で本当のことを言っておくほうが得だぜ。俺と君の間だけの秘密。何なら、その約束の上に俺からもお小遣いをやっていいんだがね」  目がきらりと動いた。掏摸《すり》が人の財布を狙うような目付き。 「一万ペセタでいかがでしょう」 「人をコケにするのもいいかげんにしろ。せいぜい二千だ。それに君が金額を提示したその時点で、真相のほとんどは分かったようなものだぜ。欲張るな」  執事は一瞬、にやりと笑った。下卑た笑い。 「日本国の経済発展の秘訣《ひけつ》が分かったような気がします。二千で結構です」  私は千ペセタ札を二枚アルベルトの上着の胸ポケットに押し込んだ。 「君は昼寝《シエスタ》もそっちのけで働くタイプのようだから、執事を辞めたら日本の会社に就職したらどうかな」 「そのつもりでおります。もし東西リクレーションがここにゴルフ場を造ったら雇ってもらいたい、と思っております。その節は是非、お口添えを」 「分かったよ。で、どんな状況だったんだ。アントニオがユウジを外に連れ出すように仕組んだんだな」 「左様で」執事はちらっと、ベッドに腰掛けたまま酒を飲んでいた雄司を見て話し出した。  アルベルトの話は大体、私の想像したことと同じだった。  アントニオは、私と留美子が外出したら知らせろ、と執事に命令していたのだ。執事は言われた通りにした。だが、雄司を追っ払わなければ由起子とよろしくやれないアントニオは策略を巡らせたのだ。私の名前を使えば、うまくいくと踏んだのだろう。執事はアントニオの筋書通りに動き伝言を渡したのだ。おそらくミゲルを誘ったのは通訳が必要だったからに違いない。 「で、君はアントニオからいくら貰ったのだ?」 「あの方はとても気前のいいかたで二万ペセタもくれました」  二万といえば、この男の一か月の給料の二五パーセントくらいではなかろうか。たった一回の浮気にそれだけの金をあたえるアントニオの気がしれなかった。しかし、結果から見れば、その十倍、いや百倍の金をあたえていてもよかったのだ。金目当てで結婚した女に財産を取られるよりは金目当ての執事にあたえるほうが、余程気分がいいというものだ。  20  応接間に入った。ドアのすぐ横に、薄茶の制服を着た警官が立っていた。目が細く睫《まつげ》の長い童顔の若者、サンチェス家の応接間の置物にはそぐわない感じがした。  窓際に、年の頃四十五、六の男が立っていた。極端に短い髪、黒くて細い目。口髭《くちひげ》と揉《も》み上げに白いものが目立つ。鼻がとんがっていて、その鼻から口許《くちもと》に掛けて太い皺《しわ》が走っていた。背はそれほどないが、がっしりとした体格。スカイブルーのスーツを着ていた。 「いやに遅かったな、セニョール・スズキリ」 「この屋敷は広い。迷子になっちまったんだ」  私と雄司はソファーに腰を下ろした。 「俺《おれ》はディアース。この街の警察署長だ」  私の答え方が気にいらないらしい。ディアースは挨拶《あいさつ》もなしに、ぶっきらぼうに自己紹介し、「今夜のあんたの行動を話してみろ」  ディアースは鼻毛を抜きながら言った。  私は、滝口に会ったところから、笠原に殴られたところまで話した。 「何! きさま何故《なぜ》、そのことを警察に知らせなかった?」 「暇がなかった」 「暇がなかっただと!」ディアースが細い目をさらに細めて大声を出した。「俺は、リカルド・サンチェス夫人から、奴《やつ》のことについて連絡を受け、この街のすべてのホテルに部下をやったんだぞ」 「それは生憎《あいにく》だったな」 「きさま!!」ディアースは下顎《したあご》を突き出して低く呻《うめ》いた。 「どうしたんだ? このデカ何を怒ってんだ」雄司が小声で訊《き》いた。 「虫歯が痛むそうだ」 「……サンチェス家の客じゃなかったら、署に連行して油を絞ってやるところだ」  そう吐き捨てるように言ったディアースは制服警官に、トレモリノス警察にホテルを洗わせること、そして、�メリア・ドン・ペペ�にいる滝口を連れて来いと命じた。 「はい、署長殿」警官ははきはきと答え部屋に風を残して出て行った。  命令されるのが嬉《うれ》しくて仕方がない警官のようだ。 「真っすぐでいいね」 「何がだ?」 「今出て行った若者さ。しかし、そのうちに、ああいう若者でも、あんたみたいに横柄な警官になるんだろうね……」 「で、意識を取り戻してから、どこで何をしてた?」署長は私の言ったことを無視して質問を続けた。 「ラファエル・オルテガと彼の店にいた」 「あの老耄《おいぼれ》ヤクザになんの用があったんだ?」 「偶然、知り合ったんだ。そして、意気投合して飲んだ」 「それだけか?」 「ああ。彼からプエルト・サンチェスのゴシップをいろいろと聞いたよ」 「どうせ、あの老耄の言うことは、嘘《うそ》っぱちばかりだ」  署長は、どかっと私の前に座り、フォルトゥーナに火をつけた。 「由起子のことはどうなってる。サツは行方《ゆくえ》を追ってるのか?」雄司は苛々《いらいら》した口調で訊いた。 「俺に分からん言葉をしゃべるのは気にいらんな」 「通訳してやるよ」  私は由起子のことを尋ねた。 「屋敷の者全員に質問しようとしてユキコを探したんだが、見当たらない。それで今回の件は、そのカサ……」 「カサハラ」 「カサハラの犯行だと断定したんだ。ユキコを拉致《らち》しようとして、リカルド邸へ忍び込んだカサハラの姿をアントニオが目撃する。殺し屋は拳銃《けんじゆう》か何かをアントニオに突きつけ、彼の部屋に連れて行き目撃者をあっさり殺した。音をたてずにな」とディアースが続けた。 「凶器はこの屋敷にあったものなのか?」 「いや。皆に訊いてみたが、誰も見たことがないと言っていた。それに、あんな安物がこの屋敷にあるはずがないよ」 「犯人の侵入経路は?」 「砂浜のほうからプールのわきを通って入ってきたらしい。裏の警備員が襲われ、松林の陰に倒れているのが発見された。そして、奴のS&W357も消えている」  先程、私の部屋の窓から見えた警官達が、警備員を発見したらしい。 「アントニオの家にはどうやって侵入したんだ」 「玄関からだろう。他から侵入した形跡はないからな」 「で、警備員はどうなった?」 「大したことはない」 「警備員が殴られた時間は?」 「…………」ディアースは私をじっと見つめた。答えてやる必要はない、という目付きだった。だが、大きな溜息《ためいき》をつくと答えた。 「九時過ぎのことだ。あんたは、奴を探しに出掛けたっていうことだが、まんまと裏をかかれたな」白髪の混じった口髭がぴくりと動き、小馬鹿にしたように短く笑った。 「まあ、そういうことだ。あんたはもうカサハラを手配したんだろうな」 「当たり前だ。非常警戒を張った。幹線道路、空港すべて網を張ってある。じきに捕まるさ」 「だといいがね」 「一匹狼《いつぴきおおかみ》の私立探偵とは違う。俺達は組織を持っているんだ」 「テレビに出てくる馬鹿な警官がよく吐く台詞《せりふ》だな」 「サンチェス一家に嫌われないようにしろよな。嫌われたら最後、俺はおまえをただじゃ済まさんからな」 「サンチェス家に嫌われて困るのはディアース、あんたのほうだろう。せいぜい、ホセのモノクルでも磨いてろよ」 「ほざいてろ」ディアースは低く罵《ののし》った。 「で、ミゲルはどう絡んでくるんだ?」 「奴はまだ回復していないから、何とも言えんが、おおかた、物音を聞いておかしいと思い、アントニオ邸を訪ねたのだろう」 「辻褄《つじつま》は合ってるな」 「事実だ。それしか考えられん」 「それ以外のことは考えたくないんだろう?」 「どういう意味だ?」 「別に意味はないさ」 「ふん」署長は顔をひきつらせて笑った。いつもそういう顔をしているのなら、セメダインでも顔にくっつけておいたほうがてっとり早い感じがした。 「この土地で、あの日本人を誘拐する奴はその殺し屋しかいない。違うか?」  腑《ふ》に落ちない点がたくさんあるが、私は黙っていた。署長には躍起になって笠原恒夫を追ってもらいたかったのだ。確かに、由起子を誘拐するような人間は笠原以外に考えられない。おそらく、由起子はあの殺し屋と一緒だろう。だが、アントニオ殺しのほうは、笠原かどうか……。  私は、ディアースの意見に同感の意を示し、雄司に、由起子が拉致されたらしいこと、警察が全力をあげて笠原の行方を追っていることを教えた。 「というわけで、犯人は分かっているのだがな。念のために、セニョール・カルヤ……」 「カリヤ」 「そうか。どうも日本人の名前は覚えにくくていかん」ディアースは舌打ちをひとつし、後を続けた。「セニョール・カリヤの今夜の行動も伺っておこうか? 彼は昨夜、アントニオと派手にやりあったって話だからな」  私が雄司の代わりに答え、ホテル�エウロパ�のバーテンに聞けば裏が取れるだろうと言った。 「これで確定的だな。セニョリータを誘拐するために、邪魔な彼を遠ざけたんだ」 「しかし、奴はユウジ、いや、セニョール・カリヤの命を狙《ねら》っていたんだぜ」 「一旦《いつたん》、殺しのほうは諦《あきら》めたんだろう。まず、娘を親父《おやじ》に返す。そう決めたのかもしれないぜ」  ありえないことではない。西郷喜久蔵に娘を引き渡してからだって、ここに舞い戻って来れる。 「ところで、アントニオはあんな時間に自宅で何をしていたのだろう?」私が訊いた。 「さあな……そんなことは興味ないな。犯人が分かってるんだ」 「じゃ、さっさと逮捕しろよ」 「あんたに言われなくてもそうするさ」  いきなり、ドアが開いた。ミゲルとマリアだった。 「もういいのか」私がスペイン語でミゲルに声を掛けた。 「ええ……何とか生きています」頭に包帯を捲《ま》いたミゲルは、力なく笑った。「署長が僕と話したいのではないかと思ってね……」 「私にも、お話があるんじゃない、フリオ?」マリアは飲んでいた。かなり回っているらしい。 「お嬢さんには、別に伺うことはありません」 「そんなことないわよ。私、犯行時間のアリバイがないんですもの」 「犯人は分かっているんです。さあ、もうだいぶお飲みになっていらっしゃるようだから、お休みになったらいかがです」  ディアースは笑みひとつ浮かべずに冷たく言い放った。 「犯人のことは、執事から聞いたわ。でも、はっきり決まったわけじゃないでしょう? アントニオを殺したい人間は他にもおりますでしょう」  マリアはダンスを踊るような足取りでディアースの前に行き、彼の顔を撫《な》でた。 「もっと酔いが回りますよ。お座りになって下さい」 「座ったら、尋問してくださる、署長さん?」 「…………」ディアースは眉《まゆ》を顰《ひそ》め、揉《も》み上げを触っていた。 「八時までマルベージャのバルで飲んで、それからドライブよ。アリバイないでしょう?」マリアはそう言うと大声で笑った。  流石《さすが》のディアースも持て余しているようだった。 「ミゲル。一応、事情を話してみてくれ」ディアースは私の隣に座ったミゲルに言った。 「犯人はコリーヌかもしれないわよ」マリアがわめいた。 「マリア! ミゲルに話させてやれ」私が口を挟んだ。 「私立探偵、シンゴ・スズキリの激怒!」マリアはまた笑った。 「いいからミゲル、話せ。何があったんだ?」と私が、マリアを無視して続けた。  ミゲルが話し出した。やはり、気絶したせいなのだろう。てきぱきとした話し方ではなかった。  彼の話によると、九時過ぎ、リカルドが死んだ後、滞っていた書類の一部を持ってリカルド邸に行ったということである。留美子がいないのは知っていたが、由起子に預けておこうと思い、寄った。ところが、留美子の屋敷には電気が灯《とも》っておらず、ノックをしても誰も出て来ない。それで引き返そうとした。その時、アントニオの屋敷からうめくような声がした。それで、中に入った。アントニオが倒れているのを発見し、近づいたところを、いきなり、後ろから殴られたというのだ。 「俺の推理と一致してるな」ディアースがさも当然という顔をして言った。 「ユキコをどこかで見なかったですか?」雄司が日本語でミゲルに訊いた。 「いいえ。いなくなったそうですね」ミゲルは真剣な表情でぽつりと言った。 「俺の前では日本語を使うな、と言ったはずだ。使うんなら、即座に通訳しろ、ミゲル」 「分かりました」 「何、威張りくさってるのよ、日本語だろうがインド語だろうが、好きな言葉を使っていいのよ。ともかく、アントニオが死んで一番喜んでるのは、このおエライ署長殿とアントニオ・サンチェス夫人なんだから……」 「何!?」ディアースが腰を浮かせた。 「フリオとコリーヌはつるんでるのよ。アントニオ叔父《おじ》さんがいなくなって、コリーヌに財産が入る。パパが死んだ時、犯人はルミコだと思ったけど、そうじゃなかったのね。まずパパを片づけ、それからアントニオを殺し、それからルミコを追い出せばいいんですものね。ルミコは日本人。パパがいないこの屋敷に留《とど》まるかどうか分からないものね。そりゃ、パパの財産まではあんた達の手に入らないけど、それでも、後、私を片づければ、お祖父《じい》さんの遺産はコリーヌの子供のものになる。それに、あんた達は単に財産が欲しいんじゃない。この街をのっとろうって気なのよね」 「マリア、サンチェス氏の孫娘だと思って、あまりいい気になるなよ」 「あんたに何が出来るのよ。あんたが何か出来るとしたら、お祖父さんが死んで、私をここから追い出した時。それまでは、せいぜいその汚い尻尾《しつぽ》を振ってることね」  ディアースはマリアを見て冷笑していた。その張りついたような笑みは、憎悪以外の何物でもなかった。 「マリアさん、もうお休みになって下さい。私がお連れしますから」ミゲルが言った。 「言われなくても、もう寝るわよ」マリアは足元をふらつかせながら立ち上がった。  ミゲルも立ち上がろうとする。 「いいわよ。ミゲルは怪我《けが》してるんだから」  マリアはよろよろと戸口に向かって歩き出し、ドアの前まで行った時、濁った沼のような目を私達のほうに向けた。 「スズキリさん、ディアース署長の捜査なんか当てにしないで、独自で調査してね。私、あなただけが頼りよ。それでは、皆さん、お休み」  マリアが出て行くと、ディアースがまず口を開いた。 「まったくどうしようもない娘だ。車の無謀運転はやるし、ヤクは持ってるし……。これまで大目に見てきたが、今後は容赦しないことにするかな」 「ところで、コリーヌさんはどうしてる?」私が訊いた。  ディアースが陰険な目で私を見た。 「尋問はさっき終わった。今は、この屋敷の二階で休んでいる。アントニオ邸で眠れるはずないからな」 「彼女、どこにいたんだ? カジノにはいなかったようだが……」 「港のバルに知人といたそうだ。カジノに戻って、事件を知りすぐに戻ってきたのだ」 「裏は取れてるのか?」 「裏なんか取る必要がどこにある。犯人が分かっているのに」  電話が鳴った。ディアースが席を立ち、受話器を取った。トレモリノスかマルベージャから報告が入ったらしい。 「スズキリさんも署長と同じ考えですか、この事件について?」ミゲルが日本語で訊いた。 「そうだな。何ともいえんが、ユキコを連れ去ったのは笠原だろうな」 「じゃ、アントニオさんを殺したのは、別にいると?」 「分からない。ともかく、笠原を捕らえ、由起子を奪還することが先決だ」 「しかし、何をどうすりゃいいんだよ!」雄司が苛々《いらいら》した口調で言い、右手を握り締め拳《こぶし》を作った。  私は何も言うことがなかった。私にも手だてがないのだ。今のところは、笠原が非常線に引っ掛かってくれることしか期待できない。  ディアースは一旦、電話を切り、今度は彼がダイヤルを回した。相手はトレモリノス警察だった。短い電話だった。元の席に戻ったディアースは、煙草《たばこ》に火をつけた。 「カサハラはホテルには、戻っていないそうだ。トレモリノス警察の者が念のために張り込んでいるが、まず戻って来るとは考えられんな」 「滝口には会えたのか?」私が訊いた。 「その男も行方知れずさ」 「何!」 「荷物はそのままだし、まだ時間が時間だから、どこかで羽目を外している可能性もありうるがね」 「奴の部下のミヤイリという若いのにはコンタクトしたのか?」 「したよ。奴の話では、普段は絶対に自分で運転しない車を運転してどこかに行ったというんだ」 「車種は?」 「フォード・グラナダ。色はブルー・メタル。こっちについてから借りた車だそうだ」  滝口と笠原がどこかで密会したのだろうか? しかし、何のために? いくら会社が西郷連合会に食い物にされていても、殺し屋の手助けをするとは考えられない。少なくとも、滝口という男は、そこまで理性を失ってしまうような気弱な奴ではないと踏んでいたのだが……。 「まあ、明日になれば、笠原は俺の手におちるさ。ユキコとかいう女は、奴に殺される心配はない。奴が挙がれば、必然的に保護できる」ディアースはちらちらと雄司を見ながらそう言い、今度は私に鋭い視線を走らせた。「あんたは余計なことをするんじゃないぜ、おとなしくパリに戻れ」 「俺はマリアのような美しい女には弱くてね。ああいう女に�頼むわね�と言われると、何かやってやらないといけない気になっちまうんだ」 「好きにしろ。だが、あんたが痛めつけられることになっても俺は知らんぞ」ディアースが不敵な笑いを浮かべた。  *  自分の部屋のドアを開けた。一瞬ぎくりとした。窓際に人が立っていたのだ。 「俺の部屋で何してるんだ」 「探偵さんを待っていたのよ」  呂律《ろれつ》の回らないねっとりとした声が答えた。マリアだった。 「君が、俺を勝手に待つのは、これで二度目だな。用は何だ?」 「依頼人よ、私は。調査の進み具合を聞きに来たのよ」 「夜、商売の話はしないんだ。特に酔っぱらいとはね。それに、ユキコが行方不明なんだから、君に依頼された調査は一時中止にするしかない」 「セニョール・スズキリは大嘘つきである」  マリアはそう言い終わらないうちに、ベッドの上に倒れた。そして、天井を向いて笑い出した。  その笑い声は、次第に涙声に変わった。  焦げ茶色のミニスカートが捲《めく》れ、シルクのパンティが顔を覗《のぞ》かせていた。 「どうしたんだ、一体?」  私はベッドに座り、膝《ひざ》の上にマリアの頭を載せた。  マリアは横を向いたまま毛布の上に人差し指を這《は》わせ、何度か鼻を啜《すす》った。 「さあ、帰って寝るんだ。歩けないのなら、俺がおぶって行ってやる」 「シンゴ……」  彼女がいきなり、私の腹のあたりに顔を埋め、「抱いて……」  私はマリアの躰《からだ》を抱き起こし、激しくキスをした……。  マリアは私の思っていた以上に素晴らしい躰をしていた。しかし、躰とは裏腹に行為のほうは、およそ官能的というのには程遠かった。心から流れ出そうになる哀《かな》しみを、セックスをすることによって必死で堰《せ》き止めている。そんなセックスだった。  マリアは行為を終えるとすぐに眠ってしまった。私は彼女の寝顔を見た。穏やかで可愛《かわい》い寝顔。私はマリアの額に軽くキスをして明かりを消した。  21  翌朝は九時少し前に目が覚めた。  マリアの姿はなく、メモがサイド・テーブルの上に置いてあった。 「調査は続行して下さい、マリア」  それだけのメモだった。 �昨日はごめんなさい�といったようなことを書いていないのが、いかにもマリアらしい。私は苦笑した。  執事に電話を入れ、朝食は部屋で取ると告げ、バスルームに入った。熱いシャワーを頭から浴びた。  私がシャワーから出て、シャツを着た時、アルベルトが朝食の載ったトレーを引っ張りながら入って来た。  アルベルトは普段同様、執事の顔をしてコーヒーをカップに注《つ》ぎ、執事の顔のまま出て行った。  ハモン・サラーノを口に運んだ時、電話が鳴った。相手はパリにいるタニコウだった。 「起きてるか、特派員」  タニコウも朝食をとっているのか、この前の電話の時と同じように何かを食べていた。 「何だ? 朝っぱらから」 「そっちの具合を聞きたくて電話したんだ。何かつかんだか、少しは?」  私はコーヒーを飲んだ。 「おい聞いてるのか、これでも国際電話なんだぞ。何でもいいから話せ。もったいない」 「ケチなことを言うな。俺《おれ》はコーヒーを飲んでからじゃないと頭が回らないって、知ってるだろう?」 「早く流しこんじまえ、脳味噌《のうみそ》の中に」  私はカップを空け、昨夜の事件のことを詳しく話してやった。 「凄《すご》い特ダネだ、そりゃ。リカルドの殺しとは、どうなんだ、繋《つな》がるのか?」 「今のところは、それを証明するものは何もない」 「だが、おまえは繋がってると思ってるんだろう?」 「兄弟が次々にやられたんだからな。関係ないとは思えないね」 「だが、西郷由起子が誘拐されたとなると、やはり、笠原の仕業とみるのが妥当だろう」 「そうだな。奴《やつ》がアントニオを殺《や》っていようがいまいが関係なく、笠原を探し出さなきゃならん」 「由起子を奪還するためにか?」 「ああ」 「案外、簡単に見つけられるかもしれないぜ」タニコウは自信ありげな口ぶりでそう言い、また何かを食べた。 「あんた、何かつかんでるな、話してくれ」 「そう慌てるな。バター・ハムサンドを喰《く》わないと俺は頭が回らないんだよ」 「いいから、早く喰え」 「おまえが歓喜の涙を流すことを教えてやろう。西郷喜久蔵が今日の夜、AF269でパリに到着するんだ」 「そうか……」私はひとりでにんまりとした。 「それで、ホテルはどこだ?」 「それはまだ調べがついていない」 「俺は、今日のうちにそっちに帰る。何が何でも宿だけは突き止めてくれ」 「えらく興奮してるな」 「頼んだぜ、タニコウさん」 「分かった、分かった……」  電話を切った私は、上着の内ポケットからメモ帳を取り出し、そこに書いてあるホテル�メリア・ドン・ペペ�のダイヤルを回した。  滝口の部屋は応答なし。今度は宮入に掛けた。 「鈴切信吾だが……」  宮入はしっかりした口調で挨拶《あいさつ》した。 「滝口支店長は戻ってきたか?」 「いいえ。先程、部屋をノックしてみましたが、返事はありませんし、キーはフロントに預けたままになっています。そろそろ、捜索願いを出そうかと思っているところです」 「ところで、君は西郷喜久蔵という男の名前を聞いたことないか?」 「名前は知っています。ヤクザの親分でしょう」 「支店長からその名前を聞いたことは?」 「それは、ありません。支店長の失踪《しつそう》に、その親分が関係しているのですか?」 「いや、そうじゃないんだが……」  私が受話器を置こうとすると、慌てて宮入が訊《き》いた。 「捜索願いはどうしたらよいでしょう?」 「出す必要はない。警察は、すでに滝口の行方《ゆくえ》を追っているよ。昨日、警官から、少しは話を聞いたろうが、滝口支店長の失踪に犯罪が絡んでいるかもしれないんだ」 「で、僕はどうしたらよいのでしょう」 「警察は何と?」 「街を出るな、と言っていました」 「じゃ、そうしたほうがいい。妙に疑われては損だから」 「でも、会社のほうに戻りませんと……」 「書類を見ているより、太陽と海を見ているほうがいいじゃないか。水着は海岸のブティックで売ってるよ」  食事を終えた私は、リカルド邸に行った。留美子と雄司は食事中だった。留美子は努めて平常通りの顔をしていたが、雄司はこの世の終わりという表情で煙草《たばこ》をふかしていた。  私はタニコウから聞いたことをふたりに伝えた。 「兄貴、すぐにパリに戻ろう!」 「そうしよう」私が言った。 「でも、雄司はここに残ったほうが……」留美子がコーヒーポットを持ったまま暗い顔をした。 「何故《なぜ》、俺がここに残らなきゃならないんだ、姉貴?」語調が鋭い。 「何故って……殺し屋はあなたの命を狙《ねら》ってるのよ。わざわざ敵のいるところに行くことないわ」 「何言ってんだ。連れさられたのは、俺の女だぜ」雄司がむきになった。 「こんな時に、こんなこと言いたくないけど、雄司が思ってるほど、あの由起子さんって、あなたのこと思ってないんじゃないかしら。あなたが命をかけるような女では……」 「うるさい! いくら姉貴でも、俺の女については、どうのこうの言わせねえ」雄司は手に持っていたコーヒーカップをテーブルに叩《たた》きつけるように置いた。カップは割れなかったが、茶色の液体が白いテーブルクロスに跡を残した。  留美子は無言のまま私に助けを求める目付きをした。私は言った。 「行くか行かないかは、雄司が決めることです。向こうで何があろうが、ここで暇を持て余しているよりは、雄司は幸せでしょう」 「でも……」 「姉貴は口を出さないでくれよ」 「いえ、私は引っ込みませんよ。雄司、おまえにはあの女がどんな……」白い歯に愛憎が籠《こも》っていた。 「俺の女だ!! どんな女だろうが、俺の女だ!! もう一度、由起子の悪口を言ってみろ。ただじゃ済まさんぞ!!」  雄司の右腕がテーブルの上のものを右手で払った。カップとポットが割れ、果物が床に転がった。留美子が泣き出した。 「もう止《よ》せ、雄司。姉さんと修羅場を演じても始まらん。おまえは俺と来ると決めた。それでいいんだ」  沈黙が流れた。  あんな女に、雄司は命をかけようとしているのだ。馬鹿げている。その通りだ。彼が命をかけてもむくわれるかどうかは、私の目から見ても、はなはだ疑問である。だが、由起子の恋愛でむくわれなくても、雄司自身の問題としては、お釣りが来るくらいむくわれるかもしれない。 「俺、荷物をまとめてくるよ」  雄司が二階に上がって行くと、空気は一層気詰まりなものになった。 「馬鹿です。あなたも雄司も」留美子が顔を上げぽつりと言った。 「分かってます」 「もう何も言いません。鈴切さん、弟を守ってやって下さい」留美子は泣き腫《は》らした目を私に向けて言った。  私は黙って頷《うなず》いた。  留美子が床に転がった瀬戸物のカケラを拾い始めた時、呼鈴が激しくなった。  私がドアを開けた。猟銃を持ちハンチングを被《かぶ》った爺《じい》さんが立っていた。 「マヌエル、どうかしたの?」留美子が私の肩越しに訊いた。 「奥様、たいへんでございます。リカルド様の土地に……その死体が……」 「誰の死体だ?」私が訊いた。 「あのう、奥様と同じお国の方のようでごぜえやす」 「まあ!!」 「男か女か」 「その両方で……」 「リカルドの土地というのは?」私は留美子に訊いた。 「東西リクレーションが欲しがっていた土地のことです。マヌエルはサンチェス家の土地の管理人です」 「よし、マヌエル、すぐに現場に連れて行ってくれ」  私は、留美子に雄司のことを任せて、管理人のルノー4で問題の場所に向かった。  マヌエルは実直な男で車の中でも全く、口を利かなかった。密猟人から獲物を取り上げ、女房から酒瓶を取り上げられるようなタイプの男だった。 「警察には知らせたのか?」 「まだでがす。まず、奥様に知らせるべきだと思って」  車はアントニオのカジノよりさらに先に進んだ。山の背が次第に近づいてくる。やがてこんもりとした森の中に入った。舗装されていない道をルノー4はさらに奥に入った。 「あそこに小屋が見えなさるじゃろ」  私は頷いた。 「あの後ろですわ」  小屋の横にパリ・ナンバーのBMWが停まっていた。死体のひとつは笠原のものなのか?  小屋の入り口の前に死体がふたつ転がっていた。  茫然《ぼうぜん》とした。死体のひとつは滝口幸次郎で、もうひとつは西郷由起子だったのだ。  私はまず、BMWと滝口の死体のちょうど中間あたりにうつぶせに倒れている由起子に近づいた。背骨の辺りに一発、銃弾が撃ち込まれていた。私はしばらく由起子の前に立ち尽くしていた。  何も考えられなかった。ただ熱い怒りが込み上げてきただけだった。  私は唇を掌《てのひら》で拭《ぬぐ》い、大きな溜息《ためいき》をついてから由起子の死体から離れた。由起子から二、三歩離れたところに、この土地を手に入れたがっていた男が仰向けに倒れていた。彼も由起子と同じように撃ち殺されていた。滝口の右手の先に拳銃《けんじゆう》が転がっていた。  S&W357。昨夜、何者かに殴られた警備員が持っていたのと同じ種類の拳銃だ。  滝口の上着のポケットからスパナーが顔を出しているのに気付いた。私はハンカチを取り出し指紋が着かないように気をつけながら、そのスパナーを引き抜いた。スパナーの先に血痕《けつこん》がついていた。  一体、どうなってるんだ?  昨夜、アントニオの死体のわきにも、やはり、凶器と思える血痕のついたブロンズ像が転がっていたではないか?  殴られた人間が、アントニオ、ミゲル、警備員の三人。血痕のついた凶器とおぼしきものが二点。  血痕を調べれば、すぐに誰の頭を殴ったのかは分かるだろうが、それにしても奇妙だ。  私は滝口のポケットを探ってみたが、事件に関係のありそうな物は何も出て来なかった。スパナーを元に戻し立ち上がった私に、マヌエルが話しかけた。 「そういえば、思い出したよ。この男の人はリカルドの旦那《だんな》と一緒に何回かこの辺を見にきた人じゃよ」 「この小屋は使用されていたのか?」 「いや。ずっと使っておらなんだ」 「じゃ電話もないな」 「ああ」 「俺はここに残るから、警察に知らせに行ってくれないか?」 「えーでがす。死体と一緒に残るよりはそのほうがええ」  ルノー4は勢いよくUターンし走り去った。  ひとりになった私は、再びハンカチを取り出し、BMWのドアを開けた。ダッシュ・ボードから、昨日、笠原にとられた拳銃が出て来た。私はそれを上着のポケットに仕舞った。他には、私の興味をそそるようなものは何もなかった。  しかし、何故、由起子が殺されなければならなかったのか? どんなことがあろうと、笠原は由起子だけは殺害しないと思っていたのだが……。由起子を殺したのは笠原ではないのか? 笠原ではないとすると、誰なのだ? 滝口の可能性は状況から見るとありうる。だが、動機が分からない。  滝口がここまで運転してきたはずのフォード・グラナダが見当たらない。笠原は用心のために、足のついていないフォードで逃走し、自分の使っていたBMWを乗り捨てて行ったらしい。  私はBMWのトランクに寄りかかり、警察が来るまで、同じことばかり考えていた。 �雄司にこのことをどう言えばよいのか?�風が立ち、樹木が何度も騒いだ。  *  十五分ほど経《た》って、パトカーとバンがやって来た。二台目のパトカーからディアースが降りて来た。  私をじろりと睨《にら》んだが、そのまま死体のほうに駆け寄って行った。その後に刑事や検死官が続いた。  マヌエルは酒焼けした頬《ほお》を緊張させながら、ひとりの刑事に死体発見の模様、それからの行動について説明していた。途中で喉《のど》が渇いたのか、何度も喉をならしていた。  ディアースが私のところへやって来た。灰色の背広にピンク色のネクタイをしていたが、私の前に来るとおもむろにネクタイを外した。今からそのネクタイで私を絞め殺すような顔をしている。しかし、無論、そんなことは起こらなかった。ディアースはネクタイを仕舞い、 「暑いな」と言った。 「そうかい」私は気のない返事をした。 「死体に触れたんだってな、あんた」 「息をかけただけさ」 「マヌエル爺さんは、そう言ってないぜ」  私はマヌエルに口止めするのを忘れていた。そんなことを考える余裕がなかったのだ。 「そうかい?」  いきなりディアースが私の胸倉をつかんだ。 「真面目《まじめ》に返事しろ、探偵!」 「触ったか触らないかがどうしたというんだ? あんた痴漢の捜査をやってるわけじゃあるまい」自分で冗談を言いながら、私は笑わなかった。ディアースをからかう元気も、私にはなかったのだ。 「よし、署まで来てもらおう。証拠を隠匿した可能性があるからな。素っ裸にして取り調べてやる」 「俺の裸はちょっとしたもんだぜ。幾らでも見せてやるよ」  ディアースは手錠を出し私の両腕に嵌《は》めた。他の刑事もマヌエルも、一体何が始まったのかとただ茫然と見ているだけだった。  私はディアースに小突かれて、パトカーに乗った。  警察署は住宅や小さな商店が並んでいる路地にあった。表に薄茶の制服を来た警官がガムを噛《か》みながら立っていた。彼の姿と二階のあたりに吊《つ》り下げられた国旗を見ても、ここが警察とは思えなかった。  署の隣がバーになっている。警官達が出たり入ったりしていた。玄関ホールでも警官達が煙草を吸っている。規律というものは、どこにも感じられない。署長には、どの警官も挨拶したが、煙草を慌てて捨てる奴もガムを飲み込んでしまう奴もいなかった。  私を擦《す》り抜けるようにして子供達が入ってきた。奥から出てきた赤ん坊を抱いた女が私の肩に触れた。 「ごめんなさい」女はにこやかに笑い謝った。 「どういたしまして」私も笑いかけた。  私の手に手錠が掛けられているのが、女には分からなかったはずはない。しかし、女の様子には罪人を見るような目付きは微塵《みじん》もなかった。そのあっけらかんとした感じに私は好感を持った。と同時にここでは、一般市民と罪人との差が極めて少ないということを身をもって知った。 「ここは託児所と警察が一緒になっているらしいな」  ディアースは私の言ったことには何の反応も示さず、私を二階に連れて行った。  署長室は二階の奥にあった。机の後ろの壁にはフアン・カルロス国王の肖像画が飾られていた。  大きな机の上は、きちんと整理されていて、塵《ちり》ひとつついていない感じだった。机の横にあった古いタイプライターもピカピカに磨かれていた。この部屋の中で汚れているのは、私の前にどっかと腰を下ろした男だけのようだ。一階で話している警官達の声が聞こえる。一旦《いつたん》、座ったディアースだったが、再び立ち上がり、出入り口までつかつかと歩み、ドアを開けた。 「うるせえぞ!! おまえら!!」  署内に巣くっている蜘蛛《くも》まで引っ越しを考えそうな大声だった。  ドアをバタンと閉め直した署長は、また机の前に座った。 「この街で起こった事件を捜査するのは、この俺だ」 「分かってるさ」 「分かってりゃいい。今日のうちにこの街を出ろ」 「俺がいちゃまずいのか? あんたもあのスパナーとユキコの死体を見て、妙だと思ったらしいな」 「俺は何も思わんよ。犯人はどのみち、カサハラなんだ」 「殺し屋の肩を持つ気はないが、あの三人全部を笠原が殺《や》ったとは思えんね」 「ここにしばらく泊まっていくか、それともパリに戻るか、あんた次第だぜ」 「やっと民主化されたというのに、あんたみたいな警官がいちゃ、カルロス国王が泣くぜ」 「ほざけ。この街の治安は俺が守るんだ。おまえのような胡散臭《うさんくさ》い野郎を追い払うのも、俺の仕事なんだ」 「カルロス国王のことも、あんたとコリーヌのよからぬ陰謀も、プエルト・サンチェスという街がプエルト・ディアースという名前に変わることも俺にはどうでもいいことなんだ。もっと言えば、リカルドやアントニオ、それにタキグチを殺した奴も、もうどうだっていいんだ。問題はユキコを殺った奴だ。そのことに関与している奴はただじゃ済まさない! いいか、それがあんただろうがな……」 「あの女を殺ったのはカサハラだ。奴は俺が挙げる。おまえは今日のうちにパリに帰れ」 「俺はこの街が気にいったぜ。マリーナは抜群だし、食い物もうまい。ただゴミ溜《た》めの臭《にお》いが耐えられんが、それもそのうち何とかなるだろう」 「おまえがその気なら、俺にも考えがあるぞ」  ディアースは、机の一番下の引き出しを鍵《かぎ》を使って開けた。 「これはおまえのポケットから出てきたんだ」  ディアースが私の目の前でぶらつかせているものは、ヘロインか何かが入った小さなビニール袋だった。 「そんな昔からある手を使うな。三流ギャング映画だって、もうやらないぜ」 「ところが、この街では通用するんだ。いや、俺が通じさせるんだ」 「何故、そんなことまでして俺を追っ払いたいんだ? あんたの色恋|沙汰《ざた》にも、あんたの権力志向にも、俺は興味ないって言ったろう。それとも、さっき言ったように、ユキコの死とあんたは関係しているのか?」 「おまえ、あの女の何なんだ。まさか惚《ほ》れてたってわけじゃあるまい?」ディアースが皮肉っぽく笑った。 「あの女と俺の間には何もないさ」 「それにしては、熱心だな、あんた」ディアースはのけ反り返り、何度もヘロインを軽く投げ上げていた。 「あのふたりの若い日本人の保護が俺の仕事だった。それだけのことだよ」 「自分の仕事の償いをしようってわけか。しかし、死んだ人間は元には戻らないぜ」  ディアースは相変わらず、ヘロインを宙に投げていた。  怒りが込み上げてきた。私は自由の利かない両手で机の端を持ち、思い切りディアースのほうに倒した。ディアースは虚をつかれた。ヘロインの袋が床に落ちた。壁と机の端に挟まれた署長は、あわてて腰の拳銃を抜こうとしたが腹を机の端が押さえつけているので、手が届かない。私は顔面を手錠で殴った。ディアースの頭が壁にぶつかり鈍い音がした。シャツの下になっていた、弓と矢がデザインされたペンダントが弾《はず》みで飛び出した。  私は、素早く机をのけ、奴の拳銃を奪った。 「署長! 何かあったのですか?」  ドアの向こうで声がした。 「何もない、と答えろ」  私は低い声で言い、ディアースの頭に拳銃を押しつけた。危険な賭《かけ》だった。  一瞬、ディアースは躊躇《ちゆうちよ》した。私は銃口をさらに強く押しつけた。 「いや、何でもない。タイプライターが床に落ちたんだ。大丈夫だ」とディアースは乾いた声で答えた。  警官が去っていく足取りが聞こえた。  私は拳銃を奴の心臓に当てたまま手錠を外させた。そして、その手錠を奴の手首に嵌《は》めた。 「こんなことをして、どうなるのか分かってるのか?」  私はにやりと笑った。私と彼の勝負はすでについていたのだ。ディアースが助けを求めなかったことがすべてだった。私の拘引《こういん》が極めて私的な理由によるもので、もしこのことが公になれば、自分の立場も危うくなる、と彼自身が暗に語ったのも同然の行為だったのである。 「俺は今日、パリへ戻る。だが、あんたに威《おど》かされて戻るわけじゃないぜ。俺には向こうでやることがあるんだ」 「初めから、そうする気だったのなら、何も無駄ないさかいをやることはなかったじゃないか」 「あんたが、俺をここに連れて来なかったら、すんなり行っていたんだよ」 「分かった。手錠を外してくれ。この件は水に流そう」 「それは俺の言う台詞《せりふ》だよ」  私は手錠を外してやった。 「サンチェスの屋敷まで送ってもらおうか?」 「分かった」  私達は廊下に出た。ちょうど現場にいた検死官が二階に上がってくるところだった。  検死官とディアースはかなり長い間、廊下の隅で立ち話をしていた。検死官は熱心に話をし、ディアースは単に頷《うなず》いているだけだった。やがて、ディアースが私のところに戻って来た。  車の中で私は訊いた。 「ユキコを殺った拳銃はあそこに落ちていたS&Wか?」 「そうだ。拳銃からはタキグチの指紋が出た」 「タキグチを殺したのもあの拳銃か?」 「いや、奴の躰から検出された弾は、四十五口径だ」 「スパナーについていた血痕《けつこん》は?」 「まだ、誰のものか分かっておらん」 「じゃ、アントニオのものではないんだな」 「……。ともかくあんたはパリへ帰って、二度とこの街に来るな」 「笠原がアントニオ殺しの犯人じゃないことが分かったら、誰を犯人にするつもりなんだ?」 「奴が殺ったに決まってる」  それ以上、私達は口を利かなかった。母屋の横を抜け、ディアースの運転するパトカーはリカルド邸の前に着いた。 「午後二時にパリ行きの直行便がある。それが一番便利だ、アディオス」ディアースは私を見ないでそう言った。  *  リカルド邸には鍵が下りていた。私が裏口から母屋に入ろうとすると、プールのほうから留美子が現れた。 「車の音が聞こえたものですから……ひょっとして……」 「雄司はどこにいます」 「プールサイドのベンチにいます。遺体確認から帰って来てから、ずっとあそこに座りきりなんです」 「私と雄司だけにしてくれますか?」  留美子は黙って頷《うなず》いた。  私は芝生を横切った。昨日、私がいたところに雄司は座っていた。何年もそこに置かれていた彫像のように雄司は微塵《みじん》も動かなかった。  私は彼の隣に座った。雄司は二度鼻を啜《すす》ったが、一言も口を利かなかった。私も黙っていた。言うべき言葉がたくさんあると思っていたのだが、結局、何もないことに気付いた。  小鳥が芝生をぴょんぴょんと跳ねているのが見えた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、遠くでモーターボートの音がしていた。しばらくすると爆音が聞こえた。セスナが飛んで来たのだ。尾翼に長い旗のようなものがくっついていた。それはディスコの広告であった。由起子がいたら、無邪気にあれが何か訊き、ディスコの広告だと教えると、きっと行こう、行こうと雄司に甘い声を出したに違いない。我儘《わがまま》で身勝手で、どうしようもない女だった。だが、雄司はそんな由起子が好きだったのだ。私は改めて、怒りがこみ上げてきた。誰に対しての怒りなのかは明白だった。 「俺は二時の飛行機でパリに戻る。笠原をどうしても、この手で引っ捕えなくては気が済まない。雄司、おまえはどうする、俺と一緒に来るか?」 「…………」雄司はゆっくりと首を横に振った。 「分かった。じゃ西郷喜久蔵の特徴を教えてくれ」 「金縁の眼鏡を掛け、髪はパーマをかけたような感じで短い。細面《ほそおもて》でハンサムだ。背は百八十センチくらい……」  雄司は正面を向いたまま、ゆっくりとした調子で言った。 「ありがとう……。今度のことは俺も責任を感じている。すまなかった」  私はそう言い残し、ベンチを立った。青い空と餌《え》をついばむ小鳥とモーターボートと地中海が、こんなに疎ましく思えたことは、かつて一度もなかった。  荷物を用意した。プールサイドの雄司が窓から見える。依然として彼は肩を落としてベンチに座っていた。  電話が鳴った。ミゲルからだった。 「パリの友人から電話がありました」 「タニコウ、いや谷という人からか?」 「ええ」 「で、なんだって?」 「サイゴウ・キクゾウのホテルは、�ジョルジュ|㈸《サンク》�だそうです」  私は礼を言い、パリに戻ることを告げた。  22  オルリー空港には定刻の午後四時十五分に着いた。預けておいた拳銃《けんじゆう》を取り出し、地下駐車場に下りた。アルピーヌ・ルノーがじっと私を待っていた。ほんの少しフロントグラスに埃《ほこり》がついている。だが、私の心に付着している埃に比べたら物の数ではない。私はハンカチを取り出し丹念に埃を拭《ふ》いた。  私はオルリー空港を離れ、まず�クマ�を迎えに行った。クマは、私をちらっと見たが、それ以上の反応はしなかった。ジャック・デルクールの話によると、何とか集団生活が出来たとのことだ。何とか、というのがいかにもクマらしい。やはり、私の猫だと思った。  事務所兼アパートに戻ったのは午後六時四十分だった。  クマをバスケットから出し、窓を開けた。クマが大きく背を伸ばし、二度ばかり躰《からだ》を振った。少しずつ、日常が戻り始めている。  それほど空腹ではなかったが、何か詰め込んでおきたい。冷蔵庫と戸棚の中身としばし睨《にら》み合った。そして、ツイストマカロニ・サラダを作ることにした。  タマネギを薄く切っていると、クマがやってきた。クシャミをひとつ。タマネギに反応したのである。  食事を終えて、私は時計を見た。午後七時三十分。西郷喜久蔵の乗っているAF269は予定通り到着していれば、今頃、シャルル・ドゴール空港の滑走路にいるはずだ。私は手帳を開き、空港に電話を入れた。AF269は定刻に着いたとのことである。受話器を置いた私は、ミシュランの『フランス1986』を開き、ホテル�ジョルジュ|㈸《サンク》�の電話番号を調べた。再び受話器を取る。  西郷喜久蔵の予約は確かに入っていた。念のために笠原という名前の客が泊まっているか調べてもらったがなかった。  だが、笠原恒夫と西郷喜久蔵は必ずコンタクトする。おそらく、昨晩、笠原は由起子のことを西郷喜久蔵に連絡したのだろう。AF269は東京発が正午ちょっと前だ。それに慌てて乗ってきた西郷喜久蔵は、どんなに危険を冒しても、至急、殺し屋に会い、娘の死について聞きたがるはずなのだ。  しかし、いつ、どこで、その会見は行われるか? 皆目見当がつかない。ともかく、現在、私にやれることはホテル�ジョルジュ㈸�を見張ることだけである。とは言うものの、ホテルの中と外をひとりで見張るのは不可能だ。  私はモンゴの電話番号を回した。 「鈴切だ」 「よう、探偵さん。景気はどうだい?」 「おまえを助手に雇いたいんだが、どうだ?」 「幾ら払う?」 「引く手あまたの商売女みたいな口を利ける身分か?」 「金額を言ってくれねえか。俺は頭が悪いから妙なレトリックには弱いんだ」 「地下鉄の掃除よりは数倍多く払う」 「で、何をやるんだ?」 「見張りだ」 「誰をどこで見張るんだ?」  私は簡単に事情を説明した。 「OK。やるよ」 「モンゴ、おまえ、大使館員みたいに見える服を持ってるか?」 「黒っぽい服を着ていけばいいんだろう?」 「まあ、そうだ。間違えてディスコに行くような格好をして来るなよ」 「でもよ、あのホテルには、かつてビートルズやローリングストーンズも泊まったって話じゃねえか。奴等《やつら》もお袋の通夜に出席するような格好で泊まったのかい?」 「彼等がどんな服装をしていたかなんて俺が知るか! ともかく、おまえは地味な服装で来るんだ。おまえはギタリストじゃなく私立探偵の助手なんだ。よく頭に叩《たた》き込んでおけ」  私は待ち合わせの場所に�ジョルジュ㈸�大通りの�バー・アレキサンドル�を選んだ。  シャワーを浴びている暇はない。私は下着とシャツだけ取り替え、�ジョルジュ㈸�のあるシャンゼリゼに車を飛ばした。  シャンゼリゼ大通りを�カフェ・フーケ�のところで左折し、スピードを落とした。 �バー・アレキサンドル�、カナダ銀行を過ぎた。ジョルジュ㈸大通りには、駐車専用の通りが街路樹によって分けられている。私はそこに入り、�ジョルジュ㈸�の隣に位置しているホテル�フランス・ド・ゴール�の手前まで車を走らせた。ちょうどそのホテルの手前に駐車できるスペースを見つけた。しかし、車を止めてみると見張りには適していないことが分かった。車高の低い私の車の視界をランドローバーが遮っていて、�ジョルジュ㈸�の入り口はまったく見えないのだ。私がしばらくどうするか考えていると、ちょうど斜め左に止まっていたボルボが出て行こうとしていた。私は素早く車を出し、ボルボの斜め後ろにつけた。 �ジョルジュ㈸�の入り口まで十五メートルほどの場所である。少し近づき過ぎているきらいはあるが、贅沢《ぜいたく》は言えない。周りは車でぎっしりなのだ。  車を降り、徒歩で待ち合わせのバーに向かった。モンゴはすでに来ていて、窓際の席に座って、ウイスキーを飲んでいた。黒いタキシードに蝶《ちよう》ネクタイ。  私はモンゴの飲んだウイスキーの勘定を払い、彼を促し外に出た。 「どうだい、俺《おれ》もこういう格好をすると決まると思わねえか」モンゴは、口と鼻の穴を大きく開けてにっと笑い、科《しな》を作った。 「まあ、ちっとは見られるな。だが、その赤いスカーフは何だ?」  モンゴはスーツの襟に赤いスカーフを絡ませていた。どこかで見た記憶がある。そうだ。ディスコで見た時もそれを首に巻いていた。 「俺はアフリカ人だぜ。こういう派手な色をかませていねえと落ち着きがでねえんだ」 「俺は地味な格好をして来いと言ったんだ。普通のスーツで良かったんだ。ともかく、そのスカーフだけはよせ」 「普通のスーツね。そんなもんを着るような人生を歩んで来なかったよ」 「そういう物を失敬する人生は歩んで来たんじゃないのか」私はにやっと笑った。  モンゴも笑った。そして言った。「全部売っちまったさ」  私達は車の中に戻った。時刻は八時二十分。 「あんたは、問題の人物がホテルに着いたら中に入り、誰かがコンタクトしないか、部屋までうまく尾行するんだ」 「それだけかい?」 「いや、まだある」  私はそう言いながら、用意して来た小型の録音機をダッシュ・ボードから取り出した。 「そいつは多分、ひとりじゃないだろう。部下を連れて来るに決まってる。出来るだけ奴等に近づいて、会話を録音してくるんだ。俺は日本人だから、やたらと彼に近づくと怪しまれる」 「相手の人相は?」 「もうじきホテルに着くはずだから、俺が教える。もし、その男に近づく奴がいたら、よく顔を記憶しておいてくれ」  ホテルの前にベントリーやジャガーが着き、タクシーを呼ぶ、灰色がかった制服姿のドアボーイが忙がしく動き回っている。徒歩でホテルを出て来るカップルの中には盛装した人間もいた。金さえ払えば誰でも泊まれるホテルだが、金では買えない何かを持っていないと、泊まる気のしないホテルである。  午後八時四十六分。白っぽい色のベンツが私の横を過ぎホテルの前で止まった。  後部座席からがっしりとした体格の小柄な男と縮れた髪の金縁の眼鏡を掛けた長身の日本人が降りた。 「あの連中かい?」 「そうだ。グレーのスーツに金縁の眼鏡を掛けたのが問題の男だ。さあ、おまえの出番だぜ。しくじるなよ」 「任せておけって」モンゴは車を出た。  一度立ち止まり、蝶ネクタイをおもむろに触ってから、ゆっくりとホテルの中に消えて行った。芝居がかった仕種《しぐさ》だったが、それなりに決まっていた。  ベンツはそのままどこかに消えた。おそらく、旅行代理店が回した車なのだろう。  モンゴが出て来るまで私のすることは何もない。笠原が現れるかどうかを見張っているのが目下の仕事だが、こんな時間にのこのこやって来るくらいなら、初めからホテルで待っているはずだ。  私はカセットのスイッチを入れた。リンダ・ロンシュタットの�ホワッツ・ニュー�が掛かった。  ふと助手席に置いてあったモンゴのスカーフが目に止まった。服だろうが何だろうが、花がないと気の済まないモンゴが、買いそうなスカーフだ。私は手に取り自分の首に捲《ま》き、なにげなくネームブランドを見た。 �エロカンス。�  私ははっとした。アントニオの死体の傍《そば》に落ちていた黄色いスカーフも同じブランド名だった。有名ブランドでもないスカーフに連日お目にかかるとは、妙な話だ。もし、モンゴが脇田典子のアパートからこのスカーフを持ち出していたとしたら……。スカーフに意味があるのだろうか?  九時四十分。モンゴが片手をズボンのポケットに突っ込みホテルを出た。  車に入るなりモンゴは大きな溜息《ためいき》をつき、 「探偵ってのも肩の凝る商売だな」 「で、サイゴウに何か動きはあったか?」私はカセットを切り訊《き》いた。 「大きな動きは何もない。ただフロントでメモを受け取った。サイゴウは読めないらしく、横にくっついていた小太りの男にメモを渡し、そいつが内容をボスに教えた。耳打ちしていたから内容は録音できなかったと思うぜ」 「それからどうした?」 「それから、奴等はエレベーターで上に上った。俺も飛び乗り、奴等の下りる階のひとつ手前で下りた。エレベーターの中で奴等は一言、二言、口を利いた。下の階で下りた俺は階段で上に行った。ベルボーイがいなくなった後、しばらくエレベーターを待つような振りをして奴等の泊まっている階にいた。客室のある階の廊下を、長い間ぶらぶらしているわけにはいかなかったが、奴等の部屋には誰も訪ねて来なかったよ」 「じゃ、テープを聞いてみるか?」  モンゴがカセットを懐から取り出した。リンダ・ロンシュタットには楽屋に退散していただき、問題のテープを聞いた。  モンゴの言った通り、フロントの前での彼等の会話は録音されていなかった。しかし、エレベーターの中の会話は入っていた。 「午前一時までたっぷり三時間はあります。ゆっくりお休みになって下さい。私が起こしますから……」 「ああ」  これだけの会話だったが、充分な収穫だった。奴等、或《ある》いは笠原が動き出すのは深夜の一時を回ってからなのだ。 「よお、何言ってたんだ?」 「奴等の動き出す時間が分かったよ」  私は五百フラン札を二枚、モンゴのタキシードの胸ポケットに押し込み礼を言った。 「俺の役目はこれだけ?」 「これから後は血を見ることになるかもしれん」 「じゃ、俺のほうが願い下げだ」 「アパートまで送るよ」 「冗談は言いっこなしだぜ。金が入った夜に、この俺があのシケた部屋に戻ると思ってるのかよ」モンゴは大きな鼻の穴をさらに大きくして笑った。 「好きにしろ」 「じゃ、俺はこれで消えるぜ」そう言って私の首に捲かれていたスカーフを取ろうとした。  私はその腕を押さえた。「おまえに聞きたい重要なことを忘れていた」 「何だ?」 「このスカーフはおまえの物か?」  モンゴの目が落ち着きなく動いた。 「あのマヌカンのアパートから失敬して来たものなんだな」 「御明察。で、それがどうしたってんだよ。宝石を盗んだ時によ、このスカーフで包んだだけさ。あんたに見つかって宝石は返したが、このスカーフだけは返さなかった。別に意図があって黙ってたんじゃないぜ。忘れちまっただけさ」  忘れていたといえば、私もだ。モンゴの言う通り、彼が渋々盗んだ宝石を私に差し出した時、確かに赤いスカーフに包まれていた。 「そのスカーフはマヌカンのアパートのどこに落ちていた?」 「死体の脇《わき》っちょ。何か宝石を包むものを探していた時に目についたんだ。俺は死体を見ないようにして、このスカーフを手に取ったからよく覚えてるよ。しかし、このスカーフが事件と関係があるのかい?」 「さあ、どうかな?」そう言いながら私はスカーフをモンゴに渡した。「しっかり管理していろよ」 「OK。また何かあったら気軽に電話をくれ」  モンゴは赤いスカーフを襟に巻きさっそうと闇《やみ》の中に消えて行った。  23  車をその場に残し、私はタクシーで事務所に一旦《いつたん》引き揚げた。そうしたのは、見張りに最適な場所を確保しておきたかったからである。  シャワーを浴び、缶ビールを手にし、事務机の前に座った。両脚を机の上に放り出し考えた。  リカルドが拳銃《けんじゆう》で撃たれ殺された現場に赤いスカーフが落ちていた。そして、アントニオの死体の傍《そば》には黄色いスカーフがあった。しかも、その両方が同じメーカーのもので、見たところどこにでも売っていそうな安物である。何か意味があるのだろうが、私にはさっぱり分からなかった。  しかし、この共通点を発見できたことは大きな手掛りであった。リカルドとアントニオは同じ犯人の手によって殺害されたということである。滝口と由起子を殺したのも同一人物だという可能性も有りえないことではないが、こちらのほうは笠原と関連があるとみるほうが妥当なような気がする。だが、笠原が由起子を殺すはずがない。となると滝口が……。いや、よく分からない。そもそも、何故《なぜ》、由起子と笠原の関係に滝口が絡んできたのか。偶然、笠原が由起子を拉致《らち》したところを見つけ、滝口が怪傑ゾロに変身したわけではあるまい。それに、滝口と由起子が殺された場所が引っ掛かる。滝口、笠原、由起子のうちで、あの場所を知っているのは滝口だけである。笠原と由起子がリカルドの土地、しかも使われていない監視小屋のありかを事前に知っていたはずはないのだ。となると、滝口があの場所に由起子と笠原を連れて行ったことになる。何のために? 笠原と滝口と由起子を結ぶものは何だろう?  いや、それとも、やはりサンチェス兄弟を殺害した人間がなんらかの関係で、滝口達をあそこに連れ出し始末したのだろうか? 笠原の使っていたBMWは単に捜査陣を欺くための小道具だったのか……?  私は考えるのをやめにした。笠原を捕らえれば、その辺の事情は明らかになる。問題はどうやって奴《やつ》と対決して勝つかだ。缶をひねりつぶしてゴミ箱に捨てた。  クマがベッドルームからやって来た。缶の音を聞くと条件反射を起こすのだ。私はキッチンへ行きキャットフード�ロンロン�の缶を開け、牛の擂《す》り身をボールに入れてやった。  午後十一時四十分。そろそろ出掛ける準備に掛かった。黒いペダルプッシャーのジーンズにダークグレーのTシャツ、それにざっくりとした革のブルゾンを着た。先程着ていた上着から弾を取り出しブルゾンのポケットに移し替えていた時、ノックの音がした。 「誰だ?」 「雄司です」  驚いた。ドアの前に茫然《ぼうぜん》と立ち竦《すく》んでいたのは本当に雄司だった。 「一体、おまえ……」 「兄貴、い、いたのか?」 「ひとりで戻ってきたのか?」 「いや、姉貴やミゲルと一緒だ。オルリー空港に着いたら、姉貴の屋敷に行く気がどうしてもしなくなっちまったんだ。で、俺《おれ》だけ直接、ここに来たのさ」 「時間がないんだが……まあ、入れ」  雄司は黙って部屋に入った。 「何故、電話しなかった?」 「面倒だったんだ。いなかったら、置き手紙をしようと思っていた。姉の屋敷でおとなしくしている気になれなかったんだ」 「気持ちは分かるが、どうやって戻って来たんだ」 「運良く、直行の最終便に間にあったんだ。六時半頃、屋敷を出た……。で、兄貴、西郷組長はパリに着いたのか?」 「ああ。今夜、一時頃、どこかで笠原とコンタクトするらしい。おまえと話してる暇はない。ここで寝泊まりしたかったら勝手に使え」 「兄貴、俺も行く」  駄目だ、と言おうとしたが、何故か私は息を呑んでしまった。  机の上の卓上ランプひとつがついているだけの暗い中に、すっと立っている雄司は、これまでの雄司とは別人に思えたのだ。怒りとか悲しみを超えた不思議な雰囲気が漂っていたのである。 「由起子のことは俺の問題だ、兄貴」 「おまえ、ナイフを持ってきているか?」 「いや、まだトランクの中だ」 「じゃ、拳銃を撃ったことがあるか」 「人は撃ったことがないが、ぶっ放したことはある」  私は机の一番下の引き出しを開け、使っていないベレッタを雄司に渡し、簡単に使い方を教え「やたらと撃つんじゃないぞ」ときつく言った。  電話が鳴った。私は舌打ちしながら受話器を取った。留美子・サンチェスだった。 「弟はそちらに着きましたでしょうか?」 「ええ、ここにいます。だが、今、ゆっくりと話している暇はない。ふたりで西郷喜久蔵を見張らなきゃならない。今夜、必ず奴は笠原と会うはずなのです」 「分かりました。弟が無事に着いたことが分かればいいんです」  私は受話器を置いた。 「時間がない。行くぞ」  *  十二時十五分過ぎに私と雄司はアルピーヌ・ルノーの中にいた。 「あのホテルに西郷と部下らしい小太りの男がいるんだ」 「そいつは、須藤《すどう》という会長の右腕だ。奴は英語もうまいし、ナイフの使い手なんだ。それにパリには何度も来たことがある」 「パリが好きなのか?」 「それは知らないが、奴の女がパリが好きなんだ」 「なるほど」 「ここに笠原が来ると思うのか?」 「分からん。西郷達が出掛けるかもしれん。ともかく、ホテルの入り口を、ストリップ劇場の客みたいな目付きで見ているしかない」  私は雄司に煙草《たばこ》をすすめたが、雄司は首を横に振った。 「留美子さん達が、こっちに来るのは明日だったんじゃないのか?」 「ところが、ホセ・サンチェスが急にパリに来ることになって予定が変わったんだ」 「何? どうしてあの爺《じい》さんが……?」 「それは姉貴もミゲルも分からないと言っていた。突然、どうしてもパリへ行く用事が出来た、というんだ。マリアも心配だからと言ってついて来た」  ホセ・サンチェスがパリに用事があるだと? 妙だ。一体、あの老人がパリで何をしようというのだろうか? 「それに、警察署長も同じ便に乗ってたぜ。笠原がパリに舞い戻っているらしいことを嗅《か》ぎつけたそうだ」  きっとサンチェス家の人間から聞いたのだろう。奴はパリ司法警察に協力を要請するつもりなのだろうか、それともひとりで笠原を捕らえる気なのだろうか……。 「おい、兄貴。会長が出てきたぜ」  私はエンジンを掛けた。ドアボーイがシトロエンDSのタクシーを呼んだ。まず、西郷が乗り、それから、辺りを見回してから須藤という右腕が乗り込んだ。  タクシーは�カフェ・フーケ�を右に曲がりシャンゼリゼ大通りをコンコルド広場に向かって走って行く。私はダッシュボードの時計に目をやった。零時四十分。一時が約束の時間だとすると、待ち合わせの場所はそう遠くないようだ。  コンコルド広場に出る。街路灯の白っぽい光が点在する中を、シトロエンはコンコルド橋のところからチュイルリー河岸に入った。私は充分に距離をおいて尾行を続けた。タクシーはセーヌ川に沿い、東に向かって快調に飛ばしている。セーヌの川面《かわも》は、時速百キロ以上で走っている車を馬鹿にしているかのように、穏やかに流れていた。  シトロエンはシャトレ、ホテル・ド・ヴィルを過ぎ、セレスタン河岸からアンリ㈿大通りに出、バスティーユ広場に向かった。  バスティーユ広場では何人かのバイク・ファンが前輪を上げて走ったりして愉《たの》しんでいた。タクシーはロータリーを半周してフォーブール・サン・アントワーヌ街に入った。  時間的にいってもコースの取り方からみても、どうやら西郷達の目的地はこの辺りらしい。  信号の等間隔な動き以外は、すべて闇《やみ》に沈んでいる人気《ひとけ》のない通り。私は車のスピードを緩めた。 「撒《ま》かれるぜ、兄貴」雄司が低く呻《うめ》くように言った。 「心配ない。却《かえ》って近づき過ぎるほうが危険だ。俺の勘じゃ、目的地はこの辺りらしい」  果たして、シトロエンは四十メートルほど先で止まった。私も車を止めライトを消した。  長身のボスと小太りの付き人の対照的なシルエットが番地を探しているような仕種《しぐさ》をし、やがて、脇道《わきみち》に姿を消した。  私はライトを消したまま車を出し、反対車線の歩道に車を寄せた。 「頭を出すなよ、雄司」  そう言った私もシートに身を埋《うず》めた。そして、そっと小道の様子を窺《うかが》った。  奴等は大きな立て看板の向こう側にいた。ドアが開くのを待っているらしい。程なく、ドアが開いたようで、彼等の姿が視界から消えた。  車を降りた私達は小道の入り口で止まった。パッサージュ・ドュ・シャンチエというのが小道の名前だった。このフォーブール・サン・アントワーヌ街は家具の街なのである。  クラシックであれモダンであれ田舎風であれ、ここにくればどんなスタイルの家具でも手に入るのだ。かつては�ホワイト・ハウス�の家具も、ほとんどここで作られたものだったという話である。  私と雄司は出来るだけ音を立てないようにしてパッサージュに入った。�椅子《いす》のヴィクトワール�とか�職人、ムッシュ・ジュル、椅子および家具、すべてのスタイル�などという看板が迫《せ》り出している石畳の通り。  問題の大きな看板には�家具屋イコーン、クラシック家具のコピー�と書いてあった。その後ろに木製のボロボロになったドアがあった。家具屋ならドアくらい新しくすればいいのに、と私は一瞬思った。 「ここか?」雄司が小声で訊《き》いた。 「おそらくな」  私は上を見上げた。二階の窓から明かりが漏れていた。ドアにはノブはなく、当然、鍵《かぎ》が掛かっていた。  私は周りの様子を見ていろ、と雄司に言い鍵の様子を調べた。私でも開けられそうな鍵だった。財布の中から太いピンを取り出し、ゆっくりとこじ開けてみる。四度目にラッチヘッドの外れる乾いた音がした。  小さな階段。段の中央に絨毯《じゆうたん》が敷いてあったおかげで、軋《きし》む音があまりしなかった。  二階に上がる。突き当たりのドアから明かりが漏れていた。  私はドアに近づき、耳を押し当てた。 「……おまえは、なんてヘマを……」涙声の主はひとり娘を失った父親に決まっている。 「失敗は認める。だが、滝口がそういう人物であることを知らされていれば、こんな結果には……」笠原は淡々とした口調で答えた。 「なぜ、なぜ……滝口が娘を殺すのを止められなかったんだ」 「さっきも話した通り、あれは事故だった。奴は俺を撃とうとした。だが、撃たれる前に、俺が滝口を射止めた。娘さんは俺のほうに逃げてきた。その時、滝口が倒れながら撃った弾に当たってしまったんだ。そういうことですよ」 「何! そういうことだと!! きさま……」  人が動く気配がした。 「よして下さいよ、ミスター・サイゴウ。気持ちは分かるが、どうしようもなかったんだ。だが、書類のほうは取り戻しましたよ」 「…………」 「雄司を片づけていない件はどうなる?」聞き覚えのない声が訊いた。 「ミスター・スドウ。奴はいつでも殺《や》れる。どうせ居場所は分かってるんだ」 「出来るだけ早いうちに殺れ」 「雄司のことなんか、もういい……」西郷の声。 「会長、それじゃシメシってものがつきません」 「俺は……娘を……由起子を失ったんだ」 「その原因になったのは雄司ですよ。奴を片づけなきゃ、娘さんがうかばれない」  私は拳銃を抜き、思い切りドアを蹴破《けやぶ》った。材木の何ともいえない香《かお》りが匂《にお》って来た。  笠原の右手と須藤の左手が懐に入った。 「動くな!」私がわめき、銃口を笠原に向けた。「手を見えるところに、ゆっくり出すんだ」  笠原はにやりと笑い、両手を上げた。  部屋の右側に西郷達、左手に笠原がいた。西郷喜久蔵は大事そうに書類鞄《かばん》を抱えていた。部屋には出来かけの椅子やビニールを被《かぶ》ったキャビネットが乱雑においてあった。  雄司は須藤と西郷にベレッタを向けている。 「俺はもうどうなってもいいんだ! 分かってるのか! 須藤さん、あんたのナイフなんかじゃ俺は殺せねえ」 「分かった。落ち着け、雄司」須藤は雄司を舐《な》め切っているような声で言った。 「よし、笠原、会長のところへ行け」  私はまわりに何もない壁を選んで、三人を後ろ向きに並ばせた。 「奴等の武器を取れ、雄司」  雄司は丹念に靴下の辺りまで探った。西郷は武器を持っていなかったが、須藤はナイフ、笠原はS&Wモデル29を所持していた。 「妙な場所を知ってるんだな? 笠原」私が言った。「趣味は家具なのかい?」 「家具は大好きだよ。だが、おまえのような探偵をぶっ殺すほうがもっと好きだぜ」 「おい、雄司。こんなことをしてどうなるか分かってんのか」須藤が壁に向かったまま言った。 「おまえは一生、殺し屋につけ狙《ねら》われ、一生、日本の土は踏めねえんだぞ」 「ほざいてろ」雄司が落ち着いた声で言った。 「雄司、会長とデブをしっかり見張ってろよ。俺は笠原と話があるからな」  そう言って私は笠原を中央の椅子に座らせた。 「おまえは、事件のすべての鍵を握ってる。命が惜しかったら、全部しゃべれ」 「馬鹿いうんじゃない。何をどうしゃべっても、その雄司という若造が俺を殺すに決まってる。奴の俺を見る目付きで、そのくらいのことは分かる」 「雄司におまえを殺させはしない」 「兄貴、俺は奴を殺りにきたんだぜ」 「さっき聞いたように、由起子を殺したのは滝口だったんだ。奴じゃない」 「だが、あの屋敷から連れ出したのは笠原だぜ」 「馬鹿な。俺じゃない。滝口が由起子を連れ出したのさ」 「話してみろ」 「話したくないね、あんたには。俺はあんたが欲しい情報をたんと握ってるが、絶対しゃべらんよ。あんたがいなければ、雄司をすんなりあの世に送り、今頃は父と娘を仲良く暮らさせてやれたんだぜ。あんたは俺の邪魔をした。そんな奴を喜ばせるのは、俺の性に合わないんだ」 「じゃ、俺に話さなくてもいい。サツでゆっくり自供しな」  と、その時だった。雄司の拳銃が火をふいた。 「雄司!!」私は思わず振り返った。  須藤が雄司の首に空手チョップを食わせた。ベレッタが床に転がった。須藤が慌てて拾おうとした。私がその顔を思い切り蹴り上げた。呻《うめ》いた。今度は西郷が拳銃に手を伸ばした。私はその手を思い切り踏みつけ、頭に拳銃をつきつけた。そしてベレッタを拾った。後ろで音がした。左腕を押さえた笠原がドアを開けようとしていたのだ。ドアが開いた。 「笠原!!」と叫んだ私の声と同時にドアの向こうから銃声が二発響き渡った。両腕を拡《ひろ》げた格好で、笠原の躰《からだ》が部屋の中に倒れ込んできた。  私は撃った人物の後を追おうとした。その時、足を取られた。須藤だ。私は床に倒れた。須藤が襲いかかってきた。躱《かわ》した。床に腹ばいになった須藤の後頭部を拳銃で二度殴り、動きかけた西郷に銃口を向けた。 「殺せ」西郷は落ち着き払った声で言った。 「冗談じゃない。俺は人殺しじゃない」  雄司が反吐《へど》を吐きながら起き上がり首筋を撫《な》でていた。 「馬鹿やろう!」私は雄司を見て、思わず大声を上げた。 「どうなってんだ?」雄司が興奮した声で訊く。 「いいから、会長を見張ってろ」私はそう言い残し、笠原の死体にまたがった。心臓と腹に二発ぶち込まれ、殺し屋は息絶えていた。  周りに人の声がしていた。たてつけの悪いフランス窓を開ける音も聞こえる。  私は警察に電話を入れ、パッサージュ・ドュ・シャンチエで殺人があったことを知らせた。 「雄司、行くぞ」 「組長はどうするんだ?」 「一緒に来てもらいますよ、須藤とかいう奴もな」 私は西郷喜久蔵を見て言った。 「ああ……だが、どこへいく?」 「�ジョルジュ㈸�のような立派なところじゃないことは請け合うよ。皆、ツラを見られたくないだろう? 上着で顔を隠せ」  私は西郷の持っていた書類鞄を忘れずに持ち出した。  表にはパジャマ姿の老人が立っていた。私達が出て行くと、ブルドーザーにでも道をあけるような仕種で遠ざかった。  24  私は西郷喜久蔵と須藤を連れて事務所に戻った。 「私をどうする気だ?」  よく見ると由起子に似ていた。細面のロマンス・グレー。ただし眼鏡の奥の目は鮫《さめ》のようだった。 「ビールでも飲むかい? 会長?」  依頼人の椅子《いす》に座らされている西郷喜久蔵は何も言わず、私を見つめたままだ。 「雄司、キッチンに行って缶ビールを持って来てくれないか?」  雄司は言われた通りにした。 「さて、話を聞かせてもらいましょうか?」 「何の話をすればいいんだ?」 「笠原の語ったことすべてだ」 「私はどうなる? やはり、サツが……」 「無視してはくれないでしょうね。重要参考人として引っ張られる。しかし、あんた達は、あの家具屋の二階では何もしていない。笠原を殺した奴《やつ》は他にいるのだから。だが、俺《おれ》は、あんたが笠原を雇って雄司を殺させようとしたことを知っている。この話をすると、日本に帰る時はひょっとすると、棺桶《かんおけ》の中かもしれない」 「証拠は何もない。逆にあんたらが笠原を殺したと言い張ることも出来るんだ」少し頬《ほお》が緩んだが鮫の目は笑わなかった。  私は家具屋から持って来た鞄《かばん》を開けた。 「ゴミ溜《た》めみたいな臭《にお》いがするぜ、この鞄の中は。日本の警察が喜びそうな臭いだな」 「それは、あんたには関係ない品物だよ。やめておけ。それを見たら、あんたの命はないぞ」 「そうかい? さすがにヤクザの親分だけあって、拳銃《けんじゆう》を突きつけられていても、おたおたしないんだな。見直したよ。ところで、さっきの話だが、笠原はあんたに何を話した?」 「滝口が娘を殺したと言っただけだ」 「それは知ってる。で、誰がスペインのサンチェス家から由起子を誘拐したか言っていたか?」 「それも滝口だ……」 「�滝口がそういう人物だと知っていたら�と笠原は言っていたが、あれはどういう意味だ」 「…………」西郷喜久蔵は私を見つめていたが、口を利こうとはしなかった。  私は鞄の中から大きな封筒を取り出した。鮫の目がきらりと光り、私の仕種《しぐさ》を食い入るように見ていた。しかし、私が封筒の中身を出した瞬間に、西郷は目を逸らせた。  私は札束にも大手のデパートや建設会社の名前が明記されている書類にも目もくれず、ひたすら東西リクレーション或《ある》いは滝口幸次郎の名前のある書類を探した。  見つけた。鍵《かぎ》を握る書類を。そこには滝口幸次郎と父親のサインがしてあった。  そんなに長い文章ではなかったが、私は長い溜息《ためいき》を洩《も》らさずにはいられなかった。  その書類には、滝口幸次郎が姉の千草エミのベンツで人を轢《ひ》き、そのまま、逃走したこと。被害者への賠償金は滝口の親父《おやじ》が支払うこと。身代わりになった刈谷雄司に三百万円振り込むことが、記されてあったのだ。 「雄司、おまえ、やってもいない轢き逃げ事件の犯人になって自首したそうだな」 「あった。それがどうした?」 「おまえ、誰の身代わりになったか知ってるのか?」 「何とかって女優の車だった。えーと、千草エミって女だ。俺が酔っぱらって彼女の車を盗み、人を撥《は》ね殺し逃走したってことにしてくれと会長に頼まれたんだ」 「確かに車は千草エミの物だったが、実際に人を轢き殺したのは滝口幸次郎だったんだよ」 「え! あいつが!!」雄司は口を開けたまま私を見つめていた。「俺は、てっきりあの女優がやったと思ってた」 「実刑を食らったのか?」 「懲役一年。自首し、示談も成立したんだから、執行猶予がついてもおかしくなかった。だが、俺はそれまでにも何度も道交法違反で挙げられていたから、厳しい判決が下りたらしいんだ」 「控訴しなかったのか?」 「しないという約束になってたんだよ」 「で、会長からは何をもらったんだ?」 「三百万円と出所後、或《あ》る賭場《とば》を取り仕切らせてもらうこと」  私は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。たったそれだけで、ムショに行ったのか! 「この書類を手に入れ、過去の悪夢を消し去ろうとして、滝口は由起子を……」私は独り言のように呟《つぶや》いた。 「奴は由起子をダシに、奴に関係した書類を笠原から奪い取ろうとしたんだ」西郷喜久蔵の顔に感情が動いた。「私は東西リクレーションの本社を通じて笠原の世話を頼んだ。笠原が正体をあかすはずはない、と思ったものだから滝口幸次郎の存在など気にも止めなかった。ところが、あんたが滝口に正体をばらしたんだ。そのせいで娘は死んだ」  思い出した。マルベージャのホテル�メリア・ドン・ペペ�で、私は滝口に話したのだ。てっきり、総会屋に食い物にされている東西リクレーションを救うために、滝口幸次郎は私に協力すると考えて信用してしまったのだ。  私の話と、おそらく、リカルドの葬式で自分の身代わりを務めた男に会ったことで、滝口幸次郎は、笠原が自分に関する書類を持っているのではないかと考えたのだろう。そして、私に協力する振りをして、すぐにトレモリノスの笠原に連絡を取ったのに違いない。 「滝口はひとりで、彼女を誘拐したのか?」 「どうやらそうらしい。滝口は娘を誘拐する数時間前、笠原を呼び出し、書類を売ってくれないか、と持ち掛けたそうだ。当然、笠原は拒否した。それで最後の手段に訴えたんだろう」 「これをネタに西郷連合会は東西リクレーションの生き血を吸うようになったらしいな」私は西郷喜久蔵を見て言った。 「私達は東西リクレーションに協力しているだけだ。そんな書類とは何の関係もない」 「まあ、どっちでもいいさ。俺には関係ない」 「鈴切さん、とか言ったね、あんた。俺達をこのまま帰してくれたら、悪いようにはしないがね……」 「俺の生き血は吸わせないよ」私は缶ビールを飲み干し笑った。  西郷喜久蔵はふんと鼻をならした。 「ところで、サンチェス家で他に殺人が起こった話については、何を知ってる?」 「笠原は、何か別個の殺人が起こっていて、おかげで雄司の居所を見つけることが出来た、と言っていたよ」 「奴はその犯人のことを何か言っていなかったか?」 「笠原や私が、他の殺人事件の話などに興味を持つと思うか?」 「じゃ、誰が笠原を撃ったか、心当たりは」 「探偵するのは、あんたの仕事だろう? それよりどうだ、二千万出す。奇麗さっぱりこれまでのことは忘れてくれ」 「無駄な金を使う必要はない。どのみちこの書類は日本の警察が手に入れることになるだろう。その後のことは俺の知ったことじゃない」 「雄司、おまえは今も私の組の人間だな。そんなおまえが私に拳銃を向けて、それで済むと思ってるのか」鮫の目がゆっくりと雄司を見ていた。 「うるせえ。会長、俺はただ由起子と一緒に暮らしたかったんだ」 「盗んだ書類を売って、それで白い垣根のあるマイホームでも建てようと思っていたのか」 「盗んだのは俺じゃない。由起子だよ」 「おまえが唆《そそのか》したんだろう」 「由起子は父親のあんたを憎んでた。あんたはその事実を認めたくねえかもしれないがな」 「そりゃ、あの子は難しい子だった。だが、親子の絆《きずな》はそんなに単純なもんじゃない」 「由起子は、そう言っていなかったぜ」 「気軽に由起子と呼ぶな!」 「会長。あんたが、俺と由起子の気持ちをくんでいてくれてたら、こんなことにはならなかったんだよ」 「おまえにいいこと教えてやろう。由起子はな、おまえとの逃避行には、とっくに飽きて日本に帰りたがっていたんだよ」 「嘘《うそ》だ!」雄司が立ち上がった。 「おまえも馬鹿だな。滝口に拉致《らち》されていた由起子は、笠原になんて言ったと思う。�もう雄司といるのも、ヨーロッパでうろうろしてるのも、ウンザリした。早く日本に連れて帰って�って言った……」  雄司が西郷の口を思い切り殴った。須藤が立ち上がろうとしたが、私が銃口で牽制《けんせい》した。椅子《いす》ごと床に倒れた会長がゆっくりと起き上がった。口許《くちもと》が血だらけだった。 「殺してやる」雄司が低く呻《うめ》いた。 「よせ、雄司。みんな、娘を奪われた父親の妄想に決まってるじゃないか」  私は気持ちと裏腹のことを言った。西郷の言ったことが本当のことのように思えてならなかったのだ。  西郷は元の場所に座り、ハンカチを出して口許に当てた。  雄司と西郷喜久蔵は睨《にら》み合っていた。呼吸は双方とも乱れている。死んでしまった人物でも、ふたりはそれぞれ我が物にしておきたいのだ。気持ちは分かる。だが、死んでしまった人間は戻りはしないのだ。 「会長。表に出たらタクシーが拾える。あんたが、これからどこに行こうが、俺の知ったことではない」 「鈴切さん。書類は返してもらおう」 「返さなかったら、俺を殺すか?」 「五千万出す」 「金で買えないものが世の中にあることを、今度のことで身に沁《し》みて分かったはずだがね」 「…………」西郷の顔が、紳士面から見る見る下卑た顔に変わっていった。 「面白いものを見せてやるよ」  そう言った私は、雄司に奴《やつ》等を見張らせ、封筒に�警視庁�と日本語で書き、あとはローマ字で�TOKYO JAPAN�と記した。それから、短い手紙を書いた。 �この書類は西郷連合会、会長、西郷喜久蔵の秘密書類です�。  無論、サインはしなかった。  書類を全部その中に入れ、封をし、向こうの警官達の子供を何人も喜ばせてやれるくらい切手を貼《は》った。 「どうする気だ?」会長の唇が捲《まく》れ上がった。 「今から、一緒にポストに投函《とうかん》しに行きましょう」  私は銃の先でドアを指し示した。  西郷喜久蔵は力なく立ち上がった。 「忘れ物だぜ、会長」私はそう言って、札束を鞄に入れ手渡した。  私と雄司は、奴等の後ろから歩いた。人影はまったくなかった。私は封筒でカモフラージュした拳銃を西郷の背中の辺りに向けていた。  ポストの前まで来た。 「さて、ここでお別れです」 「よせ!!」西郷が立ち竦《すく》んだまま、悲鳴のような声を上げた。  私が撃たないと判断したのか、須藤が私に飛び掛かってきた。パンチを躱《かわ》す。雄司が足払いを食わせた。西郷喜久蔵が、路上に鞄を投げ出し、私の手から封筒を奪い取ろうとした。私は腹を拳銃で一発思い切り突いた。  眼鏡が地面に落ち割れた。西郷は腹を抱えて蹲《うずくま》ったが、見えない目を細めて、封筒を見つめていた。  封筒がポストの中に落ちた。それですべてが決まった。西郷喜久蔵は一瞬、目を閉じた。 「タクシーは表通りに行けば拾えます」  私と雄司は元来た道を引っ返した。奴等が追って来る気配はなかった。  * 「復讐《ふくしゆう》にやって来るかな?」 「分からんね。だが、パリじゃ何も出来ないだろう」  雄司は依頼人用の椅子に座り、壁を見つめていた。  カルヴァドスの瓶は空になっていた。仕方なくウイスキーの瓶を開けた。 「雄司、おまえはここに泊まっていけ」 「ああ」気のない返事が返ってきた。  酒が腹を熱くした。 「俺は……由起子を殺した奴を殺《や》るつもりだったんだ」 「これで良かった」 「どういう意味だ?」 「おまえが殺人犯にならなくて良かった、という意味さ」 「しかし、皮肉なものだな。俺が罪を引っ被《かぶ》ってやった奴が、俺から由起子を奪ったんだからな。俺は悔しいんだ、やはり。この手じゃ、何も出来なかったんだからな」雄司は両手を見つめ力一杯握った。 「もう考えるのはよせ」 「少なくとも笠原だけは俺の手でやりたかった。たとえ……」 「たとえ、何だ?」 「たとえ、会長が言ったことが本当だとしても、俺は由起子が好きだった」 「忘れろ」 「…………」  酒を注《つ》ぐ音だけが事務所に響いた。 「なあ、兄貴。やはり、会長の言ったことは本当だったと思うか。由起子が自分から、東京に帰りたがったってのは? そりゃ、俺だって馬鹿じゃない。俺があいつを思うほどには、由起子が俺のことを思ってなかったのは知ってたさ。だが、俺の命を狙《ねら》っていた奴に、東京に連れて帰ってくれ、と頼んだなんて信じられん」 「じゃ、信じなきゃいいさ」 「…………」鼻水を啜《すす》る音が二度聞こえた。  私は何も言うことがなかった。雄司は信じまいとしているだけで、半ば以上、西郷喜久蔵の言ったことを信じているのだ。由起子は死んだのだ。死んだ人間にはどんな幻想でも抱けるものだ。無理矢理、それを破壊する気は私にはなかった。私は人生カウンセラーでも教育者でもないのだ。それに、雄司の賭《か》けていたものが、金の卵だったのか、毒ヘビの腐った卵だったのかを裁断する権利は誰にもないのだ。  私は黙って、ソファーベッドを作り、雄司に貸しあたえていた拳銃を引き出しに仕舞い、部屋に消えた。  ベッドに入っても私は眠れなかった。雄司のことを考えるのをやめると、今度は、事件のことが頭をもたげだした。  笠原を射殺したのは一体誰なのか? �コンコルド・ラ・ファイエット�に雄司達が泊まっているのを、笠原に教えたのは誰なのか?  おそらく、このふたつのことをやったのは同一人物だろう。そして、その人物がリカルドとアントニオを殺害した、或《ある》いは、誰かを使ってやらせたに違いない。  スカーフには何の意味があるのか? 何故《なぜ》、突然ホセ・サンチェスがパリにやってきたのか? 疑問ばかりである……。  ベッドルームのドアがほんの少し開いた。宵《よい》っぱりのクマが事務所から戻ってきたのだ。事務所から薄明かりが漏れている。雄司はまだ飲んでいるらしい。  酔い潰《つぶ》れるまで飲めばいい。  私は枕許《まくらもと》のライトを消した。  25  カスレの缶詰とパンで昼食を兼ねた食事をとった。アイデアをひねって何か作るのは不可能だった。冷蔵庫の中はほぼ空なのに、私の頭の中は、食事のことを考える余地などまったくないほど、他のことでいっぱいだったのだ。  雄司も私も必要以上のことはしゃべらない。離婚届けを一緒に出しに行く夫婦の、最後の朝食といった感じで、私と雄司はテーブルに向かっていた。冷え切った夫婦と違うところは、ふたりともに不精髭《ぶしようひげ》が生えていることぐらいだ。  食事を終えた私は、ひとりで大通りのキオスクまで新聞を買いに出掛けた。西郷達が何か仕掛けて来るかもしれない。私は辺りに気を配りながら歩いた。だが、それらしき人物も動きもなかった。  天気は上々だが、やはりコスタ・デル・ソルに比べると空気がひんやりとしていた。排気ガスの臭《にお》いが懐かしい。  新聞を抱えて事務所に戻ると、雄司がクマの頭を撫《な》でているところだった。 「俺達《おれたち》のこと載ってるか?」雄司が、さして興味もなさそうな口調で訊《き》いた。  本来なら目を輝かせ、声を震わせながら訊いてもおかしくないのだが、昨夜の事件を、今の彼は、死体が山となっている戦場で、犬の死骸《しがい》を見つけた時のような気分でしか受け止められない心境なのだろう。  買ってきた三紙をざっと読んだ私は、内心、胸を撫で下ろし、雄司の質問に答えた。  笠原恒夫の名前も出ていなかったのだ。  案の定、笠原は、人が何枚もクレジット・カードを持つように、パスポートをいくつか持っていたらしい。  事件現場となった家具屋の主人は、笠原のことをカトウ・リュウイチという名前である、と警察に言っている。そのカトウと家具屋の主人は、去年、マイアミで知り合ったとのことだ。暴漢に襲われた主人を、カトウなる人物が助けたのだそうだ。それからはまったく付き合いはなかったが、昨日の朝、突然、電話があり、深夜、事務所を貸してほしい、と頼まれたらしい。何に使うのか訝《いぶか》ったが、相手が命の恩人だったから、黙って貸したのだそうである。  記事の調子から察すると、主人の証言をまだ警察は信じていないようだった。だが、私には、そんなことはどちらでもいいことである。  目撃者の証言が載っていて、逃走した犯人は四人だが、上着を頭から被《かぶ》っていたので人相ははっきりしないと記されていた。カサハラの息の根を止めた弾は二十二口径。弾を調べた結果、リカルド・サンチェスを殺した拳銃《けんじゆう》が使用されたとのことだ。  やはり、リカルドを殺した人間が、笠原を殺したらしい。しかし、笠原と犯人との間にはどんな繋《つな》がりがあったのだろうか……?  そう考えながら、雄司を見た。雄司は相変わらず、黙りこくったままじっと座っていた。 「俺達も、一応今のところは、こそこそ逃げ回る必要はないってわけだ」私が言った。 「もう、どっちだっていいや、俺は」そう言って雄司は、躰《からだ》をソファーベッドの上に投げ出した。 「そうは言っても、エッフェル塔の上から身投げする気はないだろう?」 「…………」 「弱音を吐くな」  雄司は、天井を見たまま床に置いてあった煙草《たばこ》とライターを取り上げ、そのままの姿勢で火をつけた。煙がゆっくりと立ち上った。 「兄貴、どう思う」 「何が?」 「由起子は、やはり、俺を裏切ってでも東京に帰りたかったのかな? 兄貴は、どう思う? 本当のことを言ってくれていいんだぜ。どちらにしろ、由起子は死んじまったんだから……」 「その答えはおまえが知ってるはずだ」 「…………」煙草の灰が雄司の腹の上に落ちた。 「そうだな。俺はずっと前から知っていたような気がする。いつかは、由起子が俺から……逃げていく、と思っていたよ。だが、認めたくなかったんだ。だって、そうだろう……そんなこと認められるかってんだ!……俺は由起子に惚《ほ》れていた。たとえ、あいつが俺に惚れていなくても……」雄司の胸が大きく上下運動を繰り返していた。「由起子の気持ちを知っていたくせに、それを見ないようにし、あいつにも見させないように俺は振る舞って来たんだ。自分の一方的な思いを大事にするためにな。汚いよ、俺は」 「それ以上、卑下するな。卑下も度を越すと甘えになる。しかも、技能賞ものの甘えになるから手に負えない。おまえは甘えるのが得意なのさ。躰《からだ》の一部が汚れたら、もう我慢出来なくて、躰じゅうを汚してしまう人間なんだ、おまえって奴《やつ》は」 「兄貴の言ってること、俺にゃよく分かんねえけど、俺は、どこかに甘えてないと生きていけねえんだよ……」 「もうこの話はよそう」私は少し不愉快な顔をしたが、雄司はそれを見ていなかった。 「ああ。でも、何となくすっきりしたぜ」雄司が私をちらりと見て言った。そして、ひょこんと起き上がり、「そろそろ俺は、姉貴のところに帰るよ」 「待ってろ。送っていってやるから」 「兄貴はどうするんだ?」 「まず、或《あ》るところに電話をする」そう言った私は受話器を取った。  タニコウが電話を取った。私は昨夜のことを詳しく話した。彼は、西郷喜久蔵の持っていた書類におおいに興味を持った。そして、すぐに西郷に会いに行って揺さぶりを掛け、大使館にも一報を入れておくと答えた。私は情報の入手先は極秘にしておいてくれ、と頼んだ。誰がどう入手しようと結果は変わらないのだ。私は余計な法的手続きや新聞報道に巻き込まれるのを避けたかったのである。タニコウは機嫌良く、私の申し出を承知してくれた。  受話器を置いた時、ノックの音がした。私は、一応、雄司を寝室に隠し返事をした。  相手はシェリフ、いやゴデック警視だった。私は無言のまま彼を中に通した。警視は依頼人用の椅子《いす》に腰を下ろした。  ジーンズ生地で出来たシャツの下に白いTシャツ姿だった。Tシャツは真新しいようで襟はしっかりと首筋を被《おお》っていた。 「どうしました、あの何とかいう新米刑事は?」 「ジャノは働いてるよ。私は、今日、休みを取ってね」 「この近くに用があって、来たついでに寄った?」私は皮肉な笑いを浮かべて言い、「じゃ、ビールでも飲んで、射撃の話でもしましょうか?」 「飲み物もいらないし、射撃の話もしたくない。私は君に会いに来たんだ。この近くに、義理の兄が住んでいるが、そこに寄ったなんて嘘《うそ》はつきたくない」 「用件を聞きましょう」 「実は、スペインでの話を聞きたいと思ってね」 「脳味噌《のうみそ》が蒸発してしまいそうにいい所でしたよ、あそこは」私はとぼけた口調で言った。 「脳味噌は蒸発しても、血の跡は消せない」  ゴデック警視は真剣な表情で答えた。 「そうでした。ともかく二日いた間に、俺の周りで三人の人間が死にましたからね」 「そして、昨夜、またフォーブール・サン・アントワーヌ街で死体が見つかった」  ゴデック警視の目は机の上に置かれてあった新聞の束を見つめていた。 「リカルドを殺した拳銃が使用されたそうですね」 「そうだ。目撃者の証言も新聞で読んだろうね、当然」 「読みました。何でも四人の男が上着か何かで顔を隠して、逃走したということでしたね」 「ああ。だが、目撃者のひとりが、どうも逃走した者のひとりは東洋人らしいと言うんだ。これはまだ新聞には公表してないんだがね」 「何故《なぜ》、新聞に公表していないことを、一介の私立探偵に教えるんです?」私は煙草に火をつけながら訊いた。 「ザックバランにいかないかね?」 「あなたが、私にとって好意の持てる人物だということは確かだが、あなたは警官だ。国家に仕える人間は、多くの場合、自己否定しなくちゃならない。だから……」 「さっきも言ったが、休暇中なんだ、私は」 「しかし、ズボンのポケットにはIDカードが入ってるでしょう?」  ゴデック警視はジーパンの後ろのポケットから皮の擦り切れた茶色の財布を取り出し、その中からIDカードをつまみ出した。そして、私を見つめてにやっと笑い、机の上にゴロワーズと重ねて置いてあったライターを取った。  IDカードに火をつける。  IDカードなど、すぐに再発行可能なことぐらい私にも分かっている。だが、たとえそうだとしても、ゴデックの態度にかたくなではあるが、真摯《しんし》なものを感じた。  コデックがつまんでいるIDカードはゆっくりと燃えていた。私はその下に灰皿を置いた。 「何故、職務時間中に俺を引っ張って尋問しないんです?」 「君はそんなことで口を割る男かね?」ゴデックは灰皿に燃えかけのカードを置きながら言った。「私は犯人を逮捕したい。そのことしか考えていない。そして、君はこの一連の事件に深く関わってはいるが犯人ではない。そう考え、こうやって出向いてきたんだ。適当な口実を見つけて、君にオルフェーブル河岸(パリ司法警察のある場所)に来てもらうことも可能ではある。例えば、昨夜の事件現場から逃げ去った男のひとりが君だったのではないか、とかいう疑いをかけてね……」ゴデックは一瞬、言葉を切り私を鋭く睨《にら》んだ。そして、またしゃべりだした。 「しかし、そういうことをしてもだな……スペインでの状況やその他もろもろのことを君の口から訊き出すのは難しい。今度の事件は二か国に跨《またが》っていて、警察としても非常にやりにくいわけだ。君も警察に協力するのを闇雲《やみくも》に嫌っているわけではないだろう?」 「臨機応変に付き合うつもりですよ」 「だったら私を信用して、知ってることを話してもらえないかね?」 「スペインには捜査員を送らなかったのですか?」 「送ったよ。内密にね。しかし、これという収穫は上がらなかった。そのうちに向こうでリカルドの弟、タキグチ、そして、日本人女性が殺されたのだ。あの街の警察の協力はあおげなかった。何故だか分かるね」 「署長も容疑者のひとりだからですか?」 「その通りなんだ。フリオ・ディアースとかいう署長は、サンチェス家から街の権力を奪いたがっている男で、しかもリカルドが殺された当日、パリにいた。協力を要請すると却《かえ》って情報を洩《も》らすことにもなると思って、密《ひそ》かに部下をふたりやったんだが……」  私は煙草を消し、大きな溜息《ためいき》をついた。 「ビール飲みませんか? 酒飲みの戯《ざ》れ言を聞いてもらうためにね……」  ゴデック警視は短く笑い頷《うなず》いた。私はキッチンに行き、すぐに取って返した。  そして、ビールを口に含んでから言った。 「私には、叔父《おじ》さんがいましてね。もう大分|耄碌《もうろく》して耳がよく聞こえない。にもかかわらず、孫が帰ってくると、彼の話を聞きたがる。特に遠足に出掛けて帰ってきた後にはね。その叔父はね、昔、無法の街、どこからともなくやって来たシェリフだったんですよ……」 「その叔父さんは、日曜日には小さな違法行為を見逃すという心の大きなシェリフだったから、当然、孫の小さな悪さが聞こえてくる時は、特に耳が遠くなる人だそうで……」  私は微笑《ほほえ》んだ。ゴデック警視もにやりとした。私は、これまでのことを話し始めた。嘘を取り混ぜるようなことはしなかった。とはいっても、話してみると、犯人の逮捕に役立つようなことはほとんど握っていないことに改めて気付いた。手掛りらしいことと言えば、スカーフの一件ぐらいのものだった。 「……これですべて話しました。話してないことは、刈谷雄司という男が、今、寝室にいることくらいです」  ゴデックの視線が素早く、寝室のドアに向いた。 「呼んでも無駄です。彼は日本語しか出来ないんですから……」  ゴデックは頷き、「いや、ありがとう。実に面白い話だった」 「そうですか? IDカードを焼くほどの価値はなかったと思いますがね」 「いや、そうでもないさ……」ゴデックはひとりで考え込んでいた。 「リカルドとアントニオ、それにカサハラが同一人物に殺されたと仮定しての話ですが、どうみても、カサハラ殺しだけが異質ですよね」 「今、私もそのことを考えていたんだ」 「俺の勘では、カサハラはリカルド殺しの犯人を知っていたんじゃないか、と思うんです」 「口止め料の代わりに、ムッシュ・カリヤの居所《いどころ》を突き止めさせた」  私は頷いた。「リカルドが死んだ翌日、カサハラは雄司をホテルで襲《おそ》っている。しかも、リカルドが死んだことを餌《えさ》に偽《にせ》電話を掛けている」 「ムッシュ・カリヤの居所を、事件後知りえたのは誰だろう?」 「ほとんど皆知っていたはずです。夫を失った留美子は動転して、弟のことを皆の前で話しているんです。マリアも、ミゲル、そして、あの屋敷に住み込んでいるフミエという女も聞いていた。おそらく、コリーヌの耳にだって入っていたことでしょう。コリーヌはディアースと出来ているのだから、当然、ディアースも知る可能性がある」「そして、その人物達はリカルドが殺された時はパリに、そしてアントニオの時はプエルト・サンチェスにいたし、昨夜も彼等はパリにいた」とゴデックが続けた。 「リカルド殺しの際の彼等のアリバイはどうなっています?」 「皆、黒の可能性があるんだな。留美子・サンチェスの場合は、買物。マリアはドライブ。ミゲルは映画。コリーヌは夫とともに、実家にいたと申し立てている。だが、家族の証言などあまり当てにならない」 「ディアースは?」 「ホテルに居たということになっている」 「ところで、留美子達を再び召喚したのは、あなたですか?」 「召喚というと大袈裟《おおげさ》だがね。葬式の後、もう一度パリに戻って来るように要請した。今頃、私の部下が屋敷に行って、もう一度、最初の出発点に戻って尋問しているはずだ」 「何故、警視は行かないんです?」 「君の話を聞くほうが有効だと判断したからさ」 「ホセ・サンチェスは呼ばなかった?」 「いや、呼ばない。彼のことが気になるのかね?」 「心臓の悪い老人が、何故急にパリに来る気になったのかが引っ掛かってね」 「ホセ・サンチェスの過去については、こちらでも洗ってみよう」 「そうして下さい」  ゴデックはビールの残りを一気に飲み干し立ち上がった。そして、私に握手を求めた。 「ところで、君はこれからも、リカルド殺しの調査を続けるのかね?」 「依頼人がいますからね」 「また、協力してくれるかな」 「耳の遠い叔父さんにはね」 「え! なんて言ったんだ?」ゴデック警視はとぼけた顔をした。「いい休暇だった。今度の休暇には射撃場に一緒に行かないか」 「いいですね」  ドアが閉まると、早速、雄司とクマが現れた。 「誰だったんだ。俺や姉貴の名前が出ていたけど……」 「お前の嫌いな人種だよ」 「サツか?」雄司は必要もないのに声をひそめた。 「だが、心配いらん。奴は時々、耳が遠くなるんだ」  雄司はぽかんとした顔をしていた。クマが机の上に登り、灰皿の中のものの匂《にお》いをしきりに嗅《か》いでいた。  26  雄司をヌイイの屋敷に送り届けた私は、近くの公衆電話から、オルテガの話していた人物、ベルナール・ド・シャリエの家に電話を入れた。運良く彼はパリにいた。私が用件を言い、今から会いたいというと、相手は快く承知してくれた。  ホセ・サンチェスが突然、パリにやってきたのが気になって仕方がなかった私は、サンチェス家の人間の昨夜の行動を調べる前に、ホセの銅像を見て、知っている人間に似ていると言った人物に会っておきたかったのだ。それに、今は、ゴデックの部下が屋敷にいる可能性がある。屋敷の人間に会ったとしても私の出る幕はない。  警官は大手を振って捜査が出来るが、私立探偵はそうはいかない。ギャンブルに例えるなら、向こうは公営競馬で私のほうはモグリカジノみたいなものなのだ。  ド・シャリエの住まいのあるコルトー通りはサクレ・クール寺院の裏手にある。寺院の周りには、飽きもせずに大型観光バスが停車していて、飽きもせずに観光客達が寺院とテルトル広場の間を行ったり来たりしていた。日本人観光客が、個性的なブランドで武装し、没個性的な顔をしてバスに乗り込もうとしている。その横で、似顔絵書きらしい初老の男が、商売に専念していた。とっくの昔に大志を商売女に吸い取られてしまった男の荒れた筆が描いていくのは、パッケージツアーの過酷な日程をこなしている疲れ切った顔だった。  ここ何十年と、無休で繰り広げられている三流芝居の書き割りのような光景の間を私のアルピーヌがゆっくりと抜けて行った。  ベルナール・ド・シャリエの屋敷はちょうどかつて、ルノワールやユトリロのアトリエだったモンマルトル美術館の並びにあった。  さして大きな屋敷ではなかったが、この辺りに一軒家を持っている人間は、そうたくさんはいない。  チャイムを鳴らすとビブラホーンのような音がかろやかに鳴った。そして、金髪を七三に分けた若者が出て来た。撫《な》で肩で色白。そして、目が少々寄っている。どこも悪くないのに、療養システムベッドを椅子《いす》がわりに使っていそうな若者だった。  私が、先程電話をしたものだ、と告げると、締まりのない口許《くちもと》が、いっそうふやけて「どうぞ。お祖父《じい》さんがお待ちです」と言った。  私は、灰白色の壁に鹿《しか》やライオンの頭が飾ってある居間に通された。暖炉の上には象の牙《きば》が四本吊《つ》るされていた。  暖炉の両側に楓《かえで》をデザインした草色の肘掛《ひじか》けと大理石で作られたサイドテーブルが並んでいた。私は椅子のひとつに腰掛け、煙草《たばこ》に火をつけた。足元の敷物は豹《ひよう》の皮だった。 「どうも、お待たせした」ドアが開き白髪の老人が現れた。  少しくすんだ白いスーツに黄緑色のポロ・シャツを着ていた。口髭《くちひげ》も眉《まゆ》も白く、使い過ぎた歯ブラシのようだった。しかし、恰幅《かつぷく》も血色も良く、ここ当分は剥製《はくせい》になりそうもない老人だった。  私は自己紹介をし名刺を渡した。ド・シャリエは、豹の皮の敷物を挟んで私の前に座った。名刺を一瞥《いちべつ》しテーブルの上に置くと、おもむろに口を開いた。 「銃の腕前は、かなりなものでしょうね、私立探偵というのは……」 「私が相手にしているのは、いくら獰猛《どうもう》な奴等《やつら》でも猛獣じゃない。夜店でライフルを撃つような真似《まね》をする機会はほとんどありません」 「そうか、私はまた私立探偵は、皆、射撃の名手かと思っていた」 「これらの動物は、ムッシュがすべて射止めたのですか?」 「そうだ。アフリカ、インド、南アメリカ、いろんなところに行ったよ」ド・シャリエは壁を眺め回しながら自慢げに言った。  このまま相手に話を合わせていると、アフリカやインドに連れて行かれてしまいそうだ。私は、慌てて人間の棲《す》むジャングルに話題を移した。 「トレモリノスのオルテガ氏から聞いた話についてですが……」 「ああ、そうだった。君が狩っているのは動物じゃなく人間だったね」 「そうです。ピエトロ・ドミンゴという人間についてお話を伺いたいのです」 「君やオルテガ氏が探している人物かどうか分からないよ」 「その男とお会いになった時のことを出来るだけ詳しく話して下さい」  狩猟家は頷《うなず》き話し出した。  十八年前の冬、見知らぬ男からアヴィニヨン近郊にあるド・シャリエの城に一通の手紙が届いた。相手はマルセイユに住む宝石ブローカーで、彼に宝飾美術品を三点買ってもらえないかと言ってきた。ド・シャリエは、宝飾美術品の収集家としてその道では有名な人物で、その手紙が来る直前、或《あ》る有名雑誌に紹介されたそうである。そのブローカーはちょうどアヴィニヨンのホテルに滞在していたので、彼は会ってみることにした。  ブローカーはピエトロ・ドミンゴと名乗り、宝飾品を持参しているというのだ。ド・シャリエはどうせ大したものではないと思ったが見せてもらうことにした。ところが、その宝飾品は、材料といい作りといい、素晴らしい作品だった。一度こういうものを見たら、我慢できなくなるのが収集家の常。ド・シャリエは金にいとめをつけないから売ってほしいと、ブローカーに懇願した。ピエトロ・ドミンゴと名乗る男は、新フランで三百万フラン(当時の金で約二億円)の値をつけた。しかも現金で支払ってもらいたい、と相手は言ったのだ。どうしても、手に入れたかったド・シャリエは、土地や宝石の一部を処分し金を作った。取引は十日後、ド・シャリエは自分の城で行うことに決めた。  しかし、ド・シャリエは、高価な美術品を、まるで行商をするかのように売り歩く男を信用してはいなかった。億万長者は、美術品の写真を撮《と》り、出所《でどころ》を調査すると同時に、ピエトロ・ドミンゴなる人物の調査も怠らなかった。美術品は盗品ではなかった。だが、ピエトロ・ドミンゴの素性はようとして分からなかった。確かにマルセイユに事務所はあったが、誰もおらず、とても営業をしている様子はなかった。そして、そのビルの一室が宝石ブローカーの事務所になったのは、ド・シャリエが調査を始めた一か月ほど前のことだったのだ。キナ臭いにおいはした。だが、美術品が盗品ではない以上、どうしても手に入れたい。どんな奴が売りに出していようが、問題はないではないか。  取引の日、ド・シャリエはもう一度、美術品を丹念に調べた。間違いなく素晴らしい品物だった。現金を渡す際、ドミンゴにそれとなく探りを入れてみたが、ドミンゴは言葉を濁すばかりで、やはり素性についてはなにひとつ分からなかったというのだ……。  ド・シャリエの話の内容は大体こんな具合だった。 「……動物には習性というのがあるから、隠れた場所を見つけるのは簡単だが、人間には法則がなくて困る。ドミンゴと名乗る男のことは、その後も調査させたのだが、分からなかった」 「その男とプエルト・サンチェスで見た銅像の顔が似ていたわけですね」 「まあ、似ていた」 「まあ、ということはつまり確信がないのですね」 「なにせ十八年も前のことだからな」 「ドミンゴの人相を話していただけませんか?」 「うーん。オルテガにも聞かれたのだが、痩《や》せた五十くらいの男で、鋭い目をしていた」 「写真を見たそうですが、やはり、確信は持てなかった?」 「横顔だけで、しかも遠くから撮ったものだったからな……。しかし、何故《なぜ》、そのサンチェスとかいう老人のことを洗っているのかね?」  私は簡単に事の次第を話した。 「ホセ・サンチェスは謎《なぞ》の人物というわけか」 「ええ。ところで、その作品の作者は誰なのです」 「それがまたよく分からないのだ。作品を手に入れてから、いろいろ調べた結果、スペイン市民戦争の頃に作られたことだけは分かったのですがね。ところが、五年前、パリの或る美術館に頼まれて、その三点を貸し出した。その宝飾美術品展が終わりかけた頃、或る女性から電話が掛かってきて、あの作品は、どこで手にいれたと訊《き》くんだ。それで、説明してやった。それで電話は切れ、以後掛かって来なかったんだがね……」 「女の声から気付いたことはありませんか?」 「フランス人でなかったことは間違いないな。相当、へたくそなフランス語だった。おそらく、イントネーションから判断するとスペイン系の感じだったね」 「ところで、その宝飾美術品ですが、そんなに価値があるものなのですか?」  ド・シャリエはにやりと笑った。 「見たいかね?」 「え、ここにあるのですか?」 「君は運がいい。来週からまた貸し出すことになっていて、ちょうど、ここに持って来てあるんだ」  ド・シャリエは黙って居間を出ていくと十分ばかりして孫を連れて戻ってきた。  孫がふたつ、ド・シャリエがひとつ、白い布を被《かぶ》せたケースを持っていた。そして、居間の隅に置いてあった円形のテーブルの上に置いた。  まず、左端のケースの布が取られた。  驚いた。金で出来た手が二本、紫色の敷物の上に載っていた。何かを握ろうとしていた。いや、見ようによっては、誰かの首を絞めようとしているようにも見えた。十本の指が意味ありげに開いているのだ。素人《しろうと》の目で見ても、それは素晴らしい出来だった。 「�訴える手�という作品だ。もっとも命名したのは私だがね。爪《つめ》の部分はすべて、良質のダイヤが使われている。素材だけでも天文学的な値が付けられる」  私が溜息《ためいき》を洩《も》らしている間に中央のケースの中身が眼前に姿を現した。  四本の剣が先端で触れ合い、天を向いている刃《やいば》の部分は水晶、柄《え》は金で、そこにルビー、サファイア、ダイヤがはめ込まれていた。台座は蛍石だということである。台座の下には黄色い敷物が敷かれていた。  作品名は�四銃士� 最後の作品は、弓からいまにも矢が放たれる図柄だった。 「これは!?」私は声を上げた。 「糸の部分はプラチナで、やはり、矢の先はダイヤ。実によく出来ていると思わないかね……。題名は�弓の行方《ゆくえ》�」 「ええ……」私は気もそぞろで相槌《あいづち》を打った。  このデザインに見覚えがあった。ディアース署長を署内で痛めつけた際、奴《やつ》の首に掛かっていたペンダントのデザインと同じなのだ。 「あっけに取られるほど凄《すご》い品だろう」  私が茫然《ぼうぜん》としているのは、作品に感銘したせいだと誤解したド・シャリエは笑いながら言った。 「あなたは、フリオ・ディアースというスペイン人を御存じありませんか?」 「いや、だが、その人物がどうした? これらの傑作と関係があるのかね?」  私は驚いた理由を教えた。 「それは興味のある話だな。その人物と血縁関係のある人間の作かもしれんな……」  私はもう一度�弓の行方�に目をやった。誰を射る弓なのか? そして、誰が射るのか? 矢の先に輝いているダイヤを見ながら、ふとそんなことを思った。  その作品の下には赤い敷物が敷かれていた。私はもう一度、残りのふたつの作品を見た。 �訴える手�の敷物は紫色。�四銃士�のは黄色。そして�弓の行方�のは赤。赤と黄色は、サンチェス兄弟の殺された時に、現場に残されていたスカーフの色ではないか! 「これらの敷物は、あなたが敷いたのですか?」 「いや、初めからそれがついていたんだ。その色を見て、スペイン市民戦争の頃の作品ではないかと思ったんだ」 「赤、黄色、紫、スペイン共和国の旗の色か!」 「その通り」  オルテガの話では、ディアースの父親は熱狂的な共和国支持者だったという話だ。  ディアースのペンダント、共和国支持者の作ったと思われる宝飾美術品、そして、スカーフの色……。  犯人が、共和国の旗と同色のスカーフを現場に残したところをみると、スペイン市民戦争当時に起こったこと、おそらく、この素晴らしい宝飾美術品に関連したことが、殺人動機なのだろう。  しかし、旗の色は三色。ということは、もうひとり殺されるということではないだろうか? もしそうだとしたら、紫色のスカーフを貰《もら》うのは誰だ?  私はぞっとした。どう考えてもホセ・サンチェスが次の犠牲者としか思えない。スペイン市民戦争当時の生き残りは、関係者の中では彼だけなのだ。しかも、これらの宝物をド・シャリエに売った人物は、ホセ・サンチェスに似ている男なのである。そして、不可解にもホセ・サンチェスはパリにやって来たのだ。 「何か大発見をなさったようですな」  宝物の前に茫然と立ち尽くしていた私にド・シャリエが声を掛けた。 「一日に豹を十頭射止めたハンターのような気分ですよ。だが、まだ皮を剥《は》ぐ作業が残っていますがね」  私はそう言い、協力に対して礼を言いド・シャリエ家を退散した。  一瞬、ディアースの泊まっているホテルに行こうかと思ったが、すぐにその考えを引っ込めた。ホセ・サンチェスの命を守るほうが先決である。  車におもりがついている。そんな苛立《いらだ》たしさを抱きながら、私はサンチェス家のあるヌイイに向かった。  27  屋敷に着いたのは、午後五時少し前だった。私は歩道に車を止め、急ぎ足で階段の上の戸口に向かった。  ノックをする。しかし、ミゲルはおろかフミエも出て来ない。ノブを回してみた。開いた。様子がおかしい。私は拳銃《けんじゆう》を取り出し、思い切りドアを押した。  キッチンも応接間も、昔から誰も住んでいなかったような感じで静まりかえっていた。私は使用人の部屋のある小さな階段を上がった。廊下を挟んで部屋がふたつあった。フミエとミゲルの部屋に違いない。両方のノブを回してみたが鍵《かぎ》が掛かっていた。  私は廊下を引き返した。階段を下りようとした時、中庭に面した明かり取りからサンチェス家の人々が寝泊まりしている二階の部屋が目に止まった。突端の部屋の窓のカーテンだけが下りている。  誰かが眠っているのか、それとも……。  一階の廊下に戻った私は、メインの階段をゆっくり上った。ペルシャ絨毯《じゆうたん》を敷き詰めた廊下を突端まで進んだ。そして、問題の部屋のドアをノックした。 「開いてる。入りたまえ」  中からホセ・サンチェスの嗄《しわが》れた声が聞こえて来た。  板張りの天井の高い部屋。ねぐらのない浮浪者を二十人は楽に収容できそうな寝室だった。大きなベッドの枕《まくら》の部分は壁の中に引っ込んでいて、そのまわりを葡萄《ぶどう》の房をあしらったカーテンが天井の部分から被《おお》っていた。椅子《いす》もソファーも床に根が生えたようにしっかりとしたものばかりだった。壁に�モナリザの微笑《ほほえ》み�が飾ってある。ニセ物には違いないが、この部屋にあるところを見ると、有名な画家の模写に違いない。  そういう立派な寝室のせいかもしれないが、部屋の中央にいる当主は、以前会った時よりも縮んで見えた。相変わらず車椅子の背に凭《もた》れかからず、モノクルを右目に嵌《は》めて、じっと私を見つめていた。 「言われた通りに、家の者は全員、外に出した」  どうやら、サンチェスは誰かと待ち合わせしていたらしい。しかも、その相手が誰なのか知らないのだ。サンチェス兄弟を殺した犯人が、ホセの秘密をネタに彼をパリに引っ張り出したらしい。 「あんたを呼び出したのは、俺《おれ》じゃない。だが、あんたの秘密は大体、分かりましたよ。あんたは、スペイン市民戦争時代に作られた宝物を何らかの方法で手に入れた。そして、それを十八年前、ベルナール・ド・シャリエ氏に売り、莫大《ばくだい》な財産を一瞬にして作った。その時は、確かピエトロ・ドミンゴと名乗りましたね」 「…………」ホセ・サンチェスは何も言わず、私を睨《にら》みつけていた。 「あの宝をどうやって手に入れたのかが分かれば、あんたの息子達を殺害した人間も分かるかもしれない。知りたくありませんか、セニョール・サンチェス?」 「分かれば、わしが敵を取ってやる」当主は低くうめいた。 「じゃ、話してみなさい。あの宝物のことを」  ホセ・サンチェスは醜悪な顔を歪《ゆが》めて短く笑った。 「なんの話か、私にはさっぱり分からんよ。宝石の話などわしは全く知らん」 「リカルドの死体の横には赤いスカーフが落ちていた。そのことは、小悪党のせいで初めは分からなかったのですがね。そして、アントニオの時は黄色いスカーフ。そして、犯人はあんたを殺《や》ったら、紫色のスカーフであんたを弔《とむら》うつもりのようだぜ」  ホセの顔が鉛色に変色した。 「あんたも知ってるだろうが、この色は共和国の旗の色と一致する。だが、それ以上に、何か意味があるらしいな、あんたの顔にはそう書いてあるよ」 「…………」 「誰がこの屋敷を訪れてくるのか知らないが、きっとそいつはあんたを殺す。急行列車に乗って、息子達のところに行きたいのなら、その人物を待つことだな。俺は退散するぜ。まだ生きている奴《やつ》にそういうのも変だが言っておくよ。あんたの御冥福《ごめいふく》をお祈りするぜ」  私はそう言い、ドアの方に歩きかけた。 「ま、待て……」  振り向くとホセが目を伏せた。 「宝物は誰のものだったんだ?」 「知らん。わしは知らん! だが、わしの命が狙《ねら》われているというのなら、君、君が守ってくれ。金はいくらでも払う」 「往生際の悪い人だな、あんたは」 「人の命を守るのも、あんたの仕事のうちだろうが」 「場合によりけりですよ。早くあの世に行ったほうがいい奴もいる」 「頼む。わしは、そういう死に方はしたくない」 「スペイン人はもっと誇り高い国民だと思っていましたが、あんたは例外のようだな」 「頼む!!」車椅子が少し前に出た。「わしは……」  ホセが何か言いかけた瞬間、誰かがチャイムを押した。  冥土《めいど》へ送ってくれる馬車の鈴の音。ホセにはそう思えたのだろう。車椅子の肘掛《ひじか》けを握っている手が震えていた。 「助けてくれ。このままでは……」 「静かにしてろ」  またチャイムが鳴った。そして、しばらくしてドアの開く音がした。 「俺はトイレに隠れてる。あんたは出来るだけ奥にいてくれ。そうすれば、その人物の背後に回れるから」  頷《うなず》くとすぐに、ホセは、車椅子を後退させた。ホセの口がぜいぜい言い、床が軋《きし》んだ。  私は大理石で出来たバスルームに隠れ、ドアを微《かす》かに開けておいた。  ノックの音がすると、ホセが「入りたまえ」と掠《かす》れ声で言った。  ドアが開く。 「き、君が……」ホセの車椅子が動く音がした。 「�君が�どうしたんです?」  声の主はフリオ・ディアースだった。 「顔色が悪いようですね」ディアースが前に進み出た。  奴の背中がドアの隙間《すきま》から目に入った。  大股《おおまた》でゆっくりとホセに近づいて行く。 「た、助けてくれ!!」  私は銃を構えたまま、バスルームのドアを開けた。 「ディアース」私が叫んだ。  署長が振り向いた。 「糞《くそ》!! 探偵まで呼んでどうするつもりなんだ!」  ディアースがホセに向かって吠《ほ》えた。 「殺してしまえ」ホセが躰《からだ》をのけぞってわめいた。 「署長。ホセから離れろ。さあ、早く」 「……分かったよ。だが、一体これは何の真似《まね》だ?」  私はディアースを壁に押しつけ身体検査をした。懐からワルサーPPスポーツが出て来た。  二十二口径の拳銃。リカルドと笠原のやられたのと同じ口径の拳銃である。 「オマワリが持ってるにしては、えらく可愛《かわい》らしいハジキだな」 「余計なお世話だ。俺の個人用の銃さ」 「個人用の銃で個人的な恨みを晴らすわけか?」 「いい加減にしてくれ。俺が何の恨みを晴らすんだ」 「ホセを殺《や》るつもりだったんだろう?」 「馬鹿な。何で俺がサンチェス氏を殺らなきゃならないんだ?」 「じゃ、何故《なぜ》、こんなものを持ってここに来た?」 「カサハラを追って来たんだ、俺は。拳銃の一挺《ちよう》や二挺、持っていて何がおかしい。それに俺は警官なんだぜ。もし、俺を殺ったら、あんたは警官殺しってことになる。分かってんのか?」 「殺せ、殺してしまえ!」 「黙ってろ。俺はこいつに話があるんだ」  私はそう言い、ディアースを椅子に座らせた。  ディアースは大きな溜息《ためいき》をつき、俺を睨《にら》んだ。 「シャツのボタンを外して、ペンダントを見せろ」 「何!」  ディアースが立ち上がりかけたが、私の銃口がそれを制した。署長は揉《も》み上げを苛々《いらいら》した手付きで撫《な》で回してから、タイを緩め、シャツのボタンを外した。 「ペンダントを取って、そのテーブルの上に置くんだ」  ディアース署長は言われた通りにした。私はペンダントを取り、ホセに投げた。ペンダントは、彼の膝《ひざ》に掛かっていた毛布の上に落ちた。 「その図柄に見覚えがあるでしょう」私はディアースを見詰めたまま訊《き》いた。 「…………」 「そろそろ本当のことを言ってもらいましょうか、セニョール・サンチェス」 「ディアース、おまえは、バレラ一族の者だったのか……」ホセの声は現実のものではないようだった。水晶のように澄んだ声だった。鮫《さめ》のような目は虚《うつ》ろに彷徨《さまよ》っていた。 「ついに頭がどうかしちまったらしいな」ディアースは悠然と構えていた。 「セニョール・サンチェス。警察に電話を」 「いや、そんなことは出来ん。この男を殺してくれ……」 「ち、ちょっと待て」ディアースが口を挟んだ。 「あんた等、一体何の話をしているんだ? 俺は、この爺《じい》さんに呼ばれてここに来たんだぜ」 「何!」 「昨日の午後、手紙が来たんだ。内密な用があるから、パリの屋敷に来てくれ、という内容だった。この爺さんの頼みを断る奴はプエルト・サンチェスにはいない。分かるだろう、あんたにだって。あの街は、この爺さんのものみたいなものだからな」 「それで、のこのこやって来たというのか?」 「五時にここに来いと指示されていた。だから、こうして……」 「嘘《うそ》だ! わしは手紙なんか書いたおぼえはない! 殺せ、こいつを殺せ!」  車椅子《くるまいす》が、霊でも取りついたように震えていた。 「しかし、何故、今日の飛行機に乗らないで、昨日の最終便に乗ったんだ。何か企《たくら》んでたんじゃないのか」 「俺は手紙に書いてあった通りにしただけだよ」 「信じられんね、あんたの言ってることは。手紙を鵜呑《うの》みにしたんだって。あんたみたいな陰険な野郎が」 「信じる信じないは、あんたの勝手さ」 「じゃ、ペンダントはどうした?」 「貰《もら》いもんさ」 「誰に貰った?」 「何故、そんなことに答えなきゃならない?」  ディアースが挑むような口調で言い返してきた。 「じゃ、やはり、おまえがリカルドとアントニオ、それにカサハラを殺害したことになる」 「ば、馬鹿な!! それに、カサハラが殺されたというのは、俺には初耳だぜ……」 「もう一度だけ聞く。ペンダントはあんたのか?」 「うるせえ野郎だな。じゃ本当のことを言うが、持ち主不明の盗難品なんだよ。それを俺が……」 「ちょろまかしたって言うのか」 「……そうなんだ」 「もう少し、うまい嘘をつけ」 「嘘じゃない」 「盗んだのは誰なんだ? 犯人が捕まったから、その品が出たんだろう?」 「モロッコから流れて来た若造がだな、コリーヌ、いやアントニオ・サンチェス夫人のバッグをかっぱらったことがあったんだ。一昨日《おととい》のことだがな。そいつはえらくトウシロで、おまけに小学生の運動会に出ても、ビリを引くくらい足が遅かった。俺の部下が、すぐに引っ捕えてバッグは無事戻った。ところがだ、中身を点検していると、アントニオ・サンチェス夫人が、これは私のものではない、と言って、そのペンダントを俺に寄越したんだ。それで……」 「あんたは、バッグの中身の点検をどこでやらせたんだ? 当然、ベッドの上でだろうな」 「…………」  私はディアースの反応を見るために、宝物とペンダントの関係を簡単に話してやった。  しばらく、じっと考え込んでいたディアースは突然、口を開いた。 「コリーヌが、俺を……」 「嵌めようとした可能性があるというのか?」 「あの女は、異常にサンチェス家を嫌っていた。特にこの爺さんをな……俺はコリーヌが金《かね》の亡者だとばかり、思っていたが、そうじゃなかったのかもしれん……」 「サンチェス家から権力をのっとるためには、あんたはあの女が必要だった。だが、あの女は違った意味で、おまえが必要だったのかもしれんな」 「リカルドが死んだ時、本当は俺とコリーヌは会う予定だった。ところが、急に夫と一緒に過ごさなければならないと言って、ランデブーをキャンセルしてきたんだ。おかげで俺のアリバイはなくなった。コリーヌのほうは、夫と一緒だったと言っているが、どうだかな……」 「一方でアントニオを、もう一方でおまえを手玉に取っていたのかもしれないぜ」 「あのアマ!!」 「初めから、おまえを犯人に仕立て上げるつもりだったに違いない。ここにおまえを呼び出し、ホセとおまえが撃ち合ったように見せかけられると考えていた。ペンダントもそのための細工だった、と考えれば筋が通る。ディアース、プエルト・サンチェスの屋敷に電話を入れて、彼女の所在を確かめてみろ」  コリーヌの父親もディアースの父親と同様スペイン市民戦争当時、共和国軍に仕えた人物だった。その辺に鍵があるに違いない。  ディアースが部屋の隅に置いてある電話機のボタンを押していた。興奮しているのか一度失敗した。ディアースは小声で自分に悪態をついた。 「どうなってるんだ! わしは……」 「あんたが、ド・シャリエに売りつけた宝物が原因で、あんたの息子は死んだ。コリーヌという女が、どうそのことに関係しているのかは、わからないが、あんたも、昔、相当のことをしたらしいな」 「サンチェスの屋敷か……」ディアースが受話器に向かって緊張した声で言った。  その時、ドアが静かに開いた。まず目に入ったのは、首に捲かれた紫色のスカーフだった。  28 「受話器を置いて。電話の必要はない」  涙の零《こぼ》れそうな目が冷たく輝いていた。  ドアの前で両手に銃を構えて立っているのは、ミゲル・寺本だった。 「セニョール・スズキリ、拳銃《けんじゆう》を床に」ミゲルはスペイン語で言った。 「君が……」私は茫然《ぼうぜん》として呟《つぶや》いた。 「言われた通りにして下さい」低く透き通った声が命令した。  私は握っていた拳銃を足下に置いた。 「ふたりとも、椅子《いす》に座って」 「何の真似《まね》だ、ミゲル」受話器を元に戻したディアースが威圧感のある声で言った。  だが、ミゲルは何も答えなかった。ただ拳銃の先がディアースのほうに向いただけである。ミゲルよりも銃口のほうが生きているようだった。  ディアースと私は大理石のテーブルを挟んで椅子に腰を下ろした。ミゲルは部屋のほぼ中央に立った。  モスグリーンのトラウザースに黒いジャケット姿。シャツは紺色で上のボタンをきちんと留めていた。 「紫色のスカーフを用意してきたね」私は、ミゲルを見つめて言った。 「…………」 「バレラ一族の恨みを晴らすためには、特別な儀式がいるのかね」  一瞬、ミゲルの顔色が変わった。 「よくそのことを突き止めましたね、セニョール・スズキリ。だが、ここに来るべきではなかった。僕のお膳立《ぜんだ》ては狂ったし、あなたは、ここで死ぬことになったのですから」 「俺《おれ》に手紙を書いたのは、ミゲル、おまえだったのか?」ディアースが訊《き》いた。 「そうです。あなたに僕の罪を被《かぶ》ってもらおうと思いましてね」 「何だと! この俺を犯人に仕立て上げるだと! 馬鹿も休み休み言え!」ディアースは口をへの字に曲げ、不敵な笑みを浮かべた。 「ディアース署長は、港につく船の密輸を見逃す代わりに賄賂《わいろ》を取り私腹を肥やしている。その証拠を僕はここ一年ほどの間に集めました。そのことを手紙に書いたんです、ホセ・サンチェスが書いたようにしてね」 「だから、あんたはハジキを持って、ここに来たのか……」私はディアースを見て言った。 「馬鹿を言うな!」署長はむきになってどなった。 「そんなことはもうどうでもいいでしょう。もうじき、この男は、署長ではなく殺人犯として新聞に載るのですから。だが、それにしても、署長に先を越されなくて幸いでした。ホセ・サンチェスは僕の手で殺したいのです」 「ミゲル、何故《なぜ》、わしを……」射殺される前に心臓|麻痺《まひ》で死んでしまうようなひ弱な声でホセが訴えた。 「僕は、フェデリーカ・バレラの息子です」ミゲルは冷たい口調で言った。 「フェ……フェデリーカ……バレラ!!」  そう言ったホセは、口を開けたまま天井を見上げた。  ミゲルは話したがっている。私にはそう思えた。時間を引き延ばし、その間に、今から始まろうとする殺戮《さつりく》を食い止める手だてを考えたかったのだ。もっとも、全くアイデアはなかったのだが……。 「ミゲル、話してみろ、真相を。君は誰かにこの話がしたいはずだ、そうだろう?」 「……セニョール・スズキリには話したかった。こうなる前にね。でも、今はもう手遅れです」 「あの宝飾美術品は、君の家族のものなのだろう?」  ミゲルは答えず、じっと私を見つめていた。太い眉《まゆ》が微動だにしない。しかし、やがて、下唇を軽く噛《か》んだミゲルは口を開いた。 「……あれは、母の親父《おやじ》が作ったものなのです……それをこの男が横取りし、卑劣にも……」ミゲルの息が荒くなった。「卑劣にも、母の両親と兄ふたりを射殺したのです」 「それは、スペイン市民戦争中の話だね」間髪を入れずに私は質問した。 「ええ。当時、母は十歳でした。十歳の女の子は、彼女の両親とふたりの兄が撃ち殺されていくのを目撃したのです。それで……」 「そ、そんなはずはない! あそこには……」そこまで言うとホセは言葉を詰まらせた。 「あんたは知らないはずだ。約束の場所に祖父達は三台のトラックで行った。その一台の中に十歳だった母が隠れていた」 「どういうことなんだ、ミゲル。順を追って話してくれないか」私が頼んだ。 「聞きたければ、お教えしましょう。御存じのように、スペイン市民戦争は、フランコの率いる反乱軍と共和国政府の戦いだった。母の親父、つまり僕の祖父は、バルセローナから百キロほどフランス国境よりの街、ヘローナで宝石の細工師をしていた。この卑劣漢《ひれつかん》は、彼の父親の故郷であるヘローナに戻って来て、祖父と知り合った。その時は、ホセ・サンチェスなんて名前じゃなかった。エミリオ・モデストと言ったんだ」 「じゃ、マルセイユ出身の……」私はホセを見ながら言った。 「その通りです、セニョール・スズキリ。多分、そのことはオルテガという男から聞いたのでしょうが、彼の勘は当たっていたのです。オルテガの姉とマルセイユを飛び出したのはこの男、エミリオ・モデストだった。マルセイユからの武器と交換に、あの三点の作品を渡す約束を祖父は、この詐欺師としてしまったのです」 「しかし、単なる細工師があんな高価な宝石をどうやって手に入れたんだ?」 「祖父も、また或《あ》る富豪から盗んだのです。しかし、祖父の場合は単なる盗人《ぬすつと》ではなかった。彼には目的があったのです」 「分かってきた。その武器を共和政府のために使おうと考えた」 「そうです。祖父は熱狂的な共和政府支持者だったのです」 「いつ頃の話なんだ? バルセローナがフランコの手に落ちる直前の話か?」 「いえ、それより二年半前、つまりフランコ将軍が、モロッコで反乱を起こした一九三六年のことです。モロッコでの反乱の起こった二日後、バルセローナでも反乱が起きました。バルセローナの反乱は失敗に終わったのですが、祖父はこのままでは治まらないと思っていたようです。その年の秋に、この詐欺師が祖父の前に現れたのです。そして、すっかり祖父を信用させ、仕事の内容を聞き出し、自分も共和政府支持者だと偽ったのです。すっかり信用を勝ちえたエミリオ・モデストは、マルセイユから人民のために武器を運んでやってもいい、と持ちかけた。無論、ただではありません。相当の金額を用意しろ、と言ったのです。バルセローナの反乱の際、政府が労働者に武器をあたえることを拒否したのを知っていた祖父は、自分の手で武器を何とかしたいと思ったのです」 「それで預かり物に手を出したというわけか?」 「ええ。ちょうどその頃、マドリードに住んでいた富豪から、宝飾美術品の制作を依頼されていたのです。その富豪は、祖父の腕を高く評価していてデザインから完成までを祖父に任せていました。はじめは、祖父も人の物に手を出す気はなかったようですが、その富豪が、フランコ支持者だと分かった時、作品を完成したらエミリオに渡そうと決断したわけです。フランコ派の富豪の宝石を使って共和国派のために作品を作る。祖父はきっと精力的に仕事に打ち込んだのでしょう」  私はド・シャリエのところで見た作品を思い浮かべた。ひとつひとつに力が籠《こも》っていた。あの矢の行方《ゆくえ》はフランコ軍に向けられたものだったのだ。 「しかし、武器購入といっても個人の力で集められるものなど、たかがしれているじゃないか」  ミゲルはにやっと笑い、何度もうなずいた。 「祖父は自分も兵士として、フランコ軍と戦いたかったのでしょうが、それがままならなかった。彼は右足が不自由だった。その焦りが、あんな馬鹿な話にのせられてしまった一番大きな原因だったような気がします。きっと、武器を自分が手に入れ人民に供給することによって、一種の英雄になりたかったのかもしれません」 「そんな気持ちにうまく取り入ったわけか、この男は」私はホセを見ながら吐き捨てるように言った。  ホセの目はもう死んでいた。前方を見たままじっとしているだけだった。 「君の話しっぷりからすると、武器は着かなかったんだな?」 「この男は初めから武器など持ち込むつもりはなかったのです。約束の場所にトラックに乗ったエミリオ・モデストが現れた。�後のトラックはどうした?��後の四台は三十分ほど遅れてくる��じゃ、早速、ある分だけを見せてもらおう��例のものは持ってきたろうな��もちろんだ、そのトラックの座席に置いてある�会話はそこまでだった。しばらくして、�エミリオ!!�という声を最後に後は機関銃の音が空にこだましたんだ」  ミゲルはまるで、現場に居合わせたような口振りで話した。 「君の母親はその一部始終を……」 「そうです。トラックの幌《ほろ》の隙間《すきま》から見ていた。エミリオ・モデストは、トラックの助手席から欲しい物を手に入れると、乗ってきたトラックでどこかに消えてしまったんだ」ミゲルの口調が激しくなった。銃を握っている手が動いた。悶《もだ》えるように。引金が引かれれば、それですべては終わりだ。私は慌てて口を開いた。 「ホセ、何か言うことはないのか?」 「…………」老人はまだ前を向いたままだった。 「そんな酷《ひど》い男だったのか、こいつは」ディアースが憎々しげに言い、がらりと調子を変え、いやに慣れ慣れしい口調で「ミゲル……俺はあんたに全面的に協力する。だから、見逃してくれ。俺はプエルト・サンチェスの警察署長だ。アリバイにしろ、証拠にしろ、何とでも出来るんだ!」 「あんたが口を開くと、そこから蛆虫《うじむし》が出てくるような気がしますよ」ミゲルが言った。 「何!!」ディアースが肘掛《ひじか》けに手を掛けた。 「おとなしくしていて下さい」口調は再び、穏やかになっていたが、妙に迫力があった。  肘掛けに掛かったディアースの手は、岩場に隠れようとしている蛇のように、ゆっくりと引っ込んだ。 「しかし、君は、まるで見ていたように、よく知っているね」 「母親自身と、家族を失った母を養女にした大伯母《おおおば》から、話を聞かされていましたからね。大伯母も、当時ヘローナに住んでいたのです。それに……僕自身もいろいろ調べました。何故、マルセイユに住んでいたエミリオ・モデストが、武器商人になることを思いついたかも、大体見当がついています」 「何故だね」 「スペイン市民戦争が起こると、マルセイユのギャングの中にはポール・カルボンヌのように武器密輸で一儲《ひともう》けしようと企《たくら》んだ奴《やつ》がかなりいたようです。きっとエミリオの頭の中には、彼等のことがあったのでしょう。ただ、奴はカルボンヌのような大物ではなく、二十そこそこのチンピラだった。だから、機関銃十|挺《ちよう》だって、手に入れることが出来なかった」  ミゲルはまた二度ばかり下唇を噛《か》んだ。 「今度の事件のことだが、ミゲル、君は、リカルドに脇田典子との浮気のことをバラすとかなんとかいう匿名の手紙を送って、リカルドを呼び出したんだね?」 「そうです。僕はリカルドが日本人のマヌカンを愛人にしてるのに気づきました。ちょうど、今度の殺人計画を立てていた時のことでした。だから、利用したのです。リカルドは、待ち合わせの場所にマヌカンの部屋を選んだ。そこに僕が現れたので、リカルドは本当に驚いていましたよ。僕は何も言わずいきなり、あの世に送ってやりました。でも、どうして僕がリカルドに手紙を出したことが分かったのですか?」 「リカルドの手帳の間から、雑誌を切り抜いた�W�と�E�の二文字が出て来た。�W�なんて文字はスペイン語にしろフランス語にしろ、なかなか使われる文字じゃない。だから、脇田の�W�ではないかと思ったのさ」 「リカルドの手帳をどうして……」 「リカルドの死体を発見して警察に通報したのは俺だよ」  ミゲルはさすがに驚いた顔をしていた。 「しかし、リカルドを殺すことはなかったんじゃないか?」 「個人的には、僕はリカルドが好きだった。だが……犠牲になってもらうしかなかったのです。さっきも言いましたが、母親の兄弟ふたりも殺された。だから……」 「だから、リカルドとアントニオを殺したのか」 「それに、ホセ、いやエミリオ・モデストの両翼を切り落とすのは快感だった……」  プエルト・サンチェスのバーで、リカルドの死について話した際、�片方の羽をもぎ取られた蝶々《ちようちよう》のような気分�でしょうとホセ・サンチェスのことを言ったミゲルを思い出した。 「……そうすると、笠原に雄司達の居場所を教えたのは君なんだな?」 「ええ。あれは予定外だった。笠原はこの屋敷を何度か見に来ていたのです。それまで、留美子さんの後をつけたようですが、ターゲットにはぶち当たらない。それで、僕をつけてみた、と奴は言ってました……。ドアの外で拳銃の音を聞き、そこから出てくる僕を奴は目撃したのです。そして、その日の夜、僕に電話を掛けてきた。雄司君達の居場所を探し出してくれれば、殺人のことは目を瞑《つむ》ると言ってね」 「その交換条件を呑《の》んだ君は、その後も奴に情報を流していたんだな」 「ええ、弱みを握られていた僕としてはどうしようもなかった。笠原は、東西リクレーションのふたりがフランスに戻ったら行動に出るつもりだったようです。僕に手伝わせてね……」 「ところが予期せぬ出来事が次々と起こった」  ミゲルは大きく頷いた。 「あの夜、雄司君が屋敷を出て行った後、アントニオはカジノには戻らなかった。書類の整理をするとか言って自分の家に帰った。僕は絶好のチャンスだと思った。コリーヌは毎夜、午前様だから帰って来る心配はないし、留美子さんの家には由起子さんしかいない。僕は、九時頃、アントニオの離れ家を訪れた。アントニオは後でもう一度出直して来い、と言ったが、僕はリカルド殺しに関係した証拠品を持っていると言い、例のブロンズ像を見せました。興味を持ったのか、嫌な顔はしていたがアントニオは僕を居間に通した。中に入った僕は隙を見、あの像で彼を殴り殺したんです」 「そこへ、由起子が騒ぎを聞き二階から降りて来たんだね」 「ええ、アントニオのバスローブを着てね」 「君は、彼女をどうするつもりだったんだ」 「殺すしかないと思いました」 「しかし、犯行に及ぶ前に、今度は君のほうが殴られた?」 「いえ。それはもう少し後のことです。アントニオが倒れているのを見た由起子さんは、やはり驚いて悲鳴を上げました。でも、しばらくすると顔に笑みがさし、こんなことを言ったのです。�私、ヤクザの娘よ。サツにたれこんだりする気はないわ、安心して。でも、条件がある。この屋敷から私を連れだし、日本に帰る便に乗っけてほしい。どうせ、笠原に誘拐されたと思うから、誰もあんたを疑わないわよ�とね。  これには、僕もびっくりし、雄司をどうするのか訊くと、一言�うんざりよ、あんな男!�と言っただけでした。  僕は咄嗟《とつさ》の判断で、由起子さんの申し出を承諾し、マラガのホテルに連れて行ってやる、と言いました。だが僕は、やはり殺すつもりでいたのです。どこかに連れ出してね。そうとは知らない由起子さんは、着替えのために二階に引っ返しました。その間に僕は、ブロンズ像についた指紋を消し、黄色いスカーフを床に置きました。僕が覚えているのはそこまでです。スカーフを置いた瞬間、僕は誰かに頭を殴られたのです」 「君を殴った奴の正体を知ってるか?」 「笠原でしょう?」ミゲルの目が輝いた。 「いや。滝口だよ、東西リクレーションの」 「え! 滝口……」ミゲルは怪訝《けげん》な顔をした。 「奴にも暗い過去があってね」  私は短く笑った。そして滝口のことを簡単に教え、あの夜の事件に関する私なりの見解を話した……。  ミゲルがアントニオをブロンズ像で殴り、滝口が車のトランクにでも入っていたスパナーで警備員とミゲルを気絶させた。だから、血痕《けつこん》のついた鈍器がふたつも発見されたのだ。  由起子を拉致《らち》しようと屋敷に侵入してきた滝口は、まず、アントニオの家に人がいるかどうか探ったのかもしれない。その時、ミゲルと由起子の会話が聞こえた。由起子がいなくなった時、滝口は気付かれないように中に入った。おそらく、ミゲルをすぐに追っ払うつもりだったアントニオは玄関の鍵《かぎ》を掛けなかったのだろう。他から侵入した形跡はないのだから、そう考えるしかない。部屋に入った滝口は、指紋を消すことに夢中になっていたミゲルに後ろから近づき殴りつけた。そして、由起子を拉致した。いや、由起子は、ミゲルに言ったことを、そのまま滝口に繰り返し、自ら進んで、滝口について行ったのだろう……。 「しかし、考えようによっちゃ、殴られたのは、君にとって幸いしたな。あの場で、君を疑う者は誰もいなかったからね」 「僕は被害者を演技しました。でも、心の中では不安で仕方がなかった」 「由起子という目撃者がいるからな」 「翌日、彼女の死を知った時、思いましたよ、母親の怨念《おんねん》が地獄から僕を守ってるとね」 「昨日は、どうやって笠原の居所を見つけたんだ。俺達の後をつけていたのか?」 「そうです。昨夜、最終便でオルリー空港についたのが、二十二時十五分。僕はレンタカーで、留美子さん達と屋敷に直行しました。留美子さんは、あなたのところへ行った雄司君が心配で電話を掛けた……」 「なるほど。その電話で、俺がその後の予定を話した。それを君が留美子さんから聞き出したのか……」 「僕は、自分の部屋から、拳銃を持ち出しレンタカーでホテル�ジョルジュ|㈸《サンク》�に向かったのです」 「俺の失態だったな。尾行してる時こそ、尾行されていることに気を配るべきだったな」  そう言って私はミゲルに笑いかけた。だが、ミゲルは表情を変えなかった。何かに取り憑《つ》かれたように大きな目を見開いているだけだった。 「君はどうやって、ホセ・サンチェスがエミリオ・モデストだということを探り当てたんだ?」 「母親が死んだ後、僕は観光ガイドをやっていた。セビリアのタブラオに客を案内した時、リカルド夫婦と知り合った。その時、留美子さんのネックレスが目に止まった。それは紛れもなく祖父のデザインで祖母に贈ったものだった」 「何故、そんなにはっきり分かったんだ?」 「宝石は盗まれたが、デザインした際の原画は今でも残っています。無論、宝飾美術品の原画のほうもね。僕はそれらを母親から穴が開くほど見せられていたので、忘れるはずがないのです」 「じゃ、そのネックレスもこの男に盗まれたのか?」 「殺した後、この男が祖母の首から取ったのです……」ミゲルの目がちらっとホセを見た。「リカルド夫妻と僕は、その晩、すっかり仲良くなった。そして、一か月後、僕はプエルト・サンチェスに行き、失業したから仕事が欲しいと留美子さんに頼んだのです。ちょうど、リカルドの秘書が辞めたところだった。リカルドは快く僕を雇ってくれた。その後、僕は、ホセ・サンチェスのことを機会あるごとに調べた。しかし、ホセがエミリオだという確信は持てなかった。  確証をつかめないままに時が過ぎた。ところが、二か月前、トレモリノスの或るバルでオルテガに会った。前から顔は知っていましたが、話したのはその夜が初めてでした。彼はかなり酔っていて、訊きもしないのに、ホセのことをエミリオ・モデストという男に似ていると言い、ド・シャリエなる人物がマリーナにある銅像を見て、宝飾美術品を売った男に似ている、と言った話まで僕にしてくれたのです。無論、僕は祖父の作品がその億万長者のところにある、というのは知っていました……」 「五年ほど前、ド・シャリエに電話を入れたのは、君の母親だったんだね」 「そうです。そして、その宝石ブローカーの調査もやったのですが、まったく足取りはつかめなかった」 「君がリカルドのところに勤めて三年もたってから犯行に及んだのが、さっきから不可解だったが、それで謎《なぞ》が解けたよ」 「確信が持てるまでは、僕は我慢したのです」 「コリーヌのバッグに弓と矢をデザインしたペンダントを入れたのも君か?」 「ええ。しかし、ああいうことをしたのには深い意味はありません。あのペンダントは母親の形見のひとつです。あれをコリーヌが持っているのをホセ、いやエミリオが見たら、どういう反応をするか愉《たの》しみだったのです。リカルドが殺され、あのペンダントのデザインを見る。自分の過去が長男の死に関連があるのかもしれないと思い、苦しむ。そういう姿を僕は見たかっただけです。結果的にはこの男の目には触れなかったようですがね……」ミゲルの目が暗く輝き、口元がほんの少し緩んだ。 「母親の恨みを晴らそうとしている君が、共和国の旗の色と同色のスカーフを死体の傍《そば》に置くというのは?」 「共和国政府とは関係ない。まあ、間接的には関係ありますがね。僕が置いた理由は、ペンダントと同様、ホセを威《おど》かすためでした。母はエミリオになついていて、赤、黄色、紫の毛糸で編んだマフラーを彼にプレゼントした。もちろん、編んだのは殺された祖母ですがね。この卑劣漢は、そのマフラーをしてバレラ家の人間を殺したのです。それをエミリオ・モデストが思い出せばと思って置いたのです」 「しかし、あれは成功しなかった。リカルド殺しの時にそのスカーフは発見されなかったのだからね」 「新聞に何も出ていないので、不思議でした。出なかった訳をセニョール・スズキリは御存じなのですね」 「知ってるよ。屋根裏に巣くっていた鼠《ねずみ》が持っていったんだ」 「冗談はよして下さい」ミゲルが語気を強めて言った。 「冗談じゃない。本当のことさ」 「もういい。これで話はやめにしましょう。話を聞いてくれて感謝しますよ、セニョール・スズキリ。あなたがさっき言ったように僕は誰かにこの話をしたかった」 「ホセ・サンチェスをパリに呼び出したのには理由があるのか?」私はミゲルの言ったことを無視して訊いた。  ミゲルは少し間を置いてから、再び話し出した。 「僕は、あなたがパリを出発した直後、留美子さんに探りを入れ、あなたが急遽《きゆうきよ》パリに帰った理由を知りました。笠原を何とかしなければ、と僕は思い焦りました。だが、ひとりでパリに行くのは怪しまれる。そこで、昨日の最終便で、ホセ・サンチェスをパリへ行かせようと考えたのです。彼の躰ではひとりで行けない。家族の誰かが同行する。でも、留美子さんも、マリアも女だ。何かと男手が必要になる。彼女達の手伝いをするのに適した男は、僕以外に考えられないでしょう。僕は、ホセの過去を詳しく記し、世間に知られたくなかったら今日中にパリへ発《た》ち指示を待て、といった内容の手紙を書きました。そして、書きながら思ったのです。秘密を握る男となら必ず、一対一で会う。そういう機会を作って、その時に殺してしまおうと。僕はつけ加えました。翌日の午後五時から二時間、屋敷の者全員を何としてでも外に出せ、と。  僕はその手紙がメイル・ボックスに入っていたと偽り、留美子さんに渡したのです。そして、身代わりの犯人にはディアースがぴったりだと思い、ここに誘《おび》き寄せたのです」 「ホセは君の指示通りに行動したってわけか」 「ええ、そうです。ホセ・サンチェスは、皆に血相を変えて言いました。�プエルト・サンチェスにとって非常に大事な人が五時に来る。その人は私だけにしか会わないと言っている。絶対、夕食が済むまで戻って来てはならんぞ�とね。無論、僕も皆のひとりでした」 「しかし、君は馬鹿だよ。母親の恨みかなんだか知らないが、五十年も前のことを引きずって、いまだに生きているんだからな。俺《おれ》には信じられん」 「僕にとっては五十年前のことではないのです」 「君は五十年前の世界からタイムマシーンに乗ってきた男なのか」私はわざと挑発した。  興奮してくれれば隙が出来る。私はそう期待していたのだ。 「じゃ、最後に僕の気持ちを教えましょう。母は、目撃したことを一生、忘れられずに死にました。それまで、僕は毎晩のように、その話を聞かされて育った。躰を悪くして床《とこ》についてばかりいた晩年は、特に酷《ひど》かった。�このままでは死ねない!�とわめき、意味なく包丁を持ち出す日もざらでした。他人はまったく信用せず、僕の友人にすら、顔をひきつらせて挨拶《あいさつ》しないくらいだったのです。ともかく、僕だけを頼って生きている毎日でした。そんな母親を不憫《ふびん》には思いましたが、同時に憎んでもいました。毎晩、毎晩、エミリオ・モデストを呪《のろ》うような言葉を吐いて床につき、僕を知らず知らずのうちに人間嫌いにしていく母親を鬱陶《うつとう》しく思ったのです。母親が四年前に死んだ時、僕は正直な話、嬉《うれ》しかった。これで不幸な日々から逃れられると思った……ところが、そうではなかった。毎夜、夢の中に母親が出てきて、恨みを、それはしつこく、しつこく繰り返すのです。僕が母親の恨みを晴らそうと決心したのはその時でした。僕にのり移っているものを取り除くためには、エミリオ・モデスト一家を殺すしかなかったのです。親父《おやじ》が生きていれば、母親の病気もあんなに悪化しなかったかもしれません……」  ミゲルが遠くを見た。その一瞬を狙《ねら》って、ディアースが立ち上がった。  乾いた音が部屋に響いた。ミゲルが左手に持った拳銃の引金を引いたのだ。ディアースは、背凭《せもた》れに大きく寄りかかった。肩の辺りが血で赤く染まっている。まだ生きているがこのまま放っておけば、出血多量で死んでしまうに違いない。 「さあ、セニョール・スズキリ、ホセの隣に行って下さい」  私はゆっくりと腰を上げた。私とミゲルの距離が縮まるのを望んだ。距離が縮まれば、何とか一か八かの手段に出ようと思っていたのだ。  ホセ・サンチェスことエミリオ・モデストは念仏のようなことを口の中でもぐもぐ唱えているだけだった。 「残念です、セニョール・スズキリ。でも、仕方ありません。あなたもホセと同様、ディアースに撃ち殺されたことになるでしょう……」  ミゲルは私に拳銃を突きつけ、腹の辺りを軽く押した。私はそのまま二、三歩後退した。  その時、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。一瞬、ミゲルが隙《すき》を見せた。私は無我夢中で体当たりを食らわした。銃声がした。  倒れそうになりながらミゲルの撃った弾が、私の腕を掠《かす》った。私は片膝《かたひざ》をつき、腕を押さえて蹲《うずくま》った。目を上げるとそこに銃口があった。 「兄貴!!」  ドアが開き、雄司の声がした。と同時に、ミゲルを目掛けてナイフが飛んできた。そして、また銃声。 「雄司!」私は叫んだ。  ドアの前で雄司が崩れるように倒れた。  私は、床《ゆか》に転がっていた私の拳銃に飛びついた。ドアのほうを向いていたミゲルがこちらに銃を構えた。私は二発、撃った。  ミゲルは腹を押さえた。だが、倒れなかった。もう二発。私は心臓目掛けて撃った。ミゲルは半回転し床に転がった。首に捲《ま》かれていた紫色のスカーフが床に舞い落ちた。  私はすぐに、戸口に仰向けにひっくり返っている雄司のところに行った。  首と胸から出血していた。しかし、まだ息はあった。 「頑張るんだぞ」私は一言、声を掛けてから電話で救急車を呼んだ。  そして、再び雄司の傍《そば》に行った。例のスカーフで首の傷口を縛る。 「俺、もうだめかもしれねえな、兄貴」  雄司は柔和に微笑《ほほえ》んでそう言った。 「しゃべるな。今、救急車を呼んだ。この辺は、高級住宅街なんだ。いい医者がごろごろしてるんだ。おまえなんか入ったことのない素晴らしい病院に入れてやる。看護婦はいい女ばかりで、退院したくなくなるところにな」  黄色いシャツがみるみるうちに血に染まっていく。 「……兄貴……机の……中に……」 「しゃべるな」  私はシャツを開け、傷口を見ようとした。 「机の中……に……俺……」 「雄司!!」私は雄司の躰《からだ》を思い切り揺すった。 「ユ……キ……コ……」  刈谷雄司は息絶えた。  私は、ゆっくりと立ち上がり、弾の入ったままになっている左腕を抱えたまま、椅子まで歩いた。そして、よろけながら椅子に座った。ホセ・サンチェスは意識を失っているだけなのか、心臓|麻痺《まひ》を起こして死んでしまったのか分からないが背凭れに躰を倒したまま動く気配がなかった。ディアースは血まみれのままぐったりとなっていた。  壁に掛かっていた�モナリザの微笑《ほほえ》み�が目に留まった。雄司の投げそんじたナイフが、モナリザの心臓に命中していた。  私は椅子に座り、サイレンの音が聞こえてくるのを待ちながら、ずっとモナリザを見つめ続けた。  29  私は三日間、ヌイイの病院に入院する羽目になった。  サンチェス家に関係のある人間はひとりも訪れて来なかった。やって来たのは、タニコウとモンゴとゴデック警視だった。  タニコウとゴデックは真相を聞きたがり、新聞を見てやって来たモンゴは、私の休業中、電話番に雇わないか、と売り込んだ。私はモンゴにクマの世話を日当五十フランで頼んだ。  ゴデック警視が来ると、タニコウは取材させろ、としつこく病室に残っていたが、モンゴのほうは、訪問者が警官だと分かると、目と鼻の穴を大きく開いて、「忘れてた、仕事だ仕事……」と言い、腰を振って出て行った。  タニコウの話によると、西郷喜久蔵は、観念したのか日本に戻り、警視庁の取り調べを受けているとのことだった。  ゴデック警視は、私情を挟まない厳しい尋問を繰り返した。  しかし、退院の日、ゴデック警視はひとりでやって来て、「命を取り止めたディアースが、事の一部始終を話したよ。君の正当防衛は認められたようなものだ」と私に教えた。 「ホセ、いやエミリオ・モデストはどうしてます?」 「入院している。面会謝絶なんだ」 「大物の代議士が犯罪を犯した時みたいだね」 「いや、奴《やつ》は本当に容態《ようだい》が悪いらしい。ショックが強かったんだろう」 「奴が犯したと思われる強盗殺人のほうはどうなりますか?」 「法的にはどうにもできん。五十年前の犯罪だからな。ただ、スペインのマスコミが大騒ぎしてる。スペイン市民戦争五十周年の年だからね、今年は。あれだけ、騒がれたら、奴もスペインに帰っても、前みたいな優雅な生活は楽しんでいられないだろう……」 「ひとつ気になることがあるんです」  私はオルテガの姉のことを話した。 「エミリオ・モデストがしゃべれるようになったら尋問《じんもん》してみるよ」 「お願いします」 「ところで、留美子やマリアはどうしてます?」 「まだ、こっちにいるようだが……私には詳しいことは分からない」 「何故《なぜ》、雄司だけがあの屋敷に戻って来たかが疑問なんだが、警視は知ってますか?」 「はっきりは分からない。留美子・サンチェスと一緒に、ヌイイのカフェにいたんだが、散歩すると言って、ひとりでカフェを出たそうだ。どうしてあの屋敷に近づいたかは分からないが、君の車を見て屋敷に入る気になったのだろう」  ホセ・サンチェスの行動を怪しんでいた私のために探偵まがいのことをするつもりだったのだろうか? それとも、運命に導かれて、私を救いに来たのだろうか?  私は大きな溜息《ためいき》をひとつついた。 「しかし、異常な犯罪だったな。母親の亡霊を消すために、母親の恨みを晴らすなんて」ゴデックは窓際に立ち、口をへの字に曲げて呟《つぶや》いた。 「恨みを晴らすことは、どうでもよかったんじゃないか、という気がするね」 「どういうことだ?」 「ミゲルの敵は母親自身だったんじゃないかな。ミゲルという青年の心の襞《ひだ》にまで食い込んで離れない母親に銃口を向けていた。俺にはそう思えてならないんだ。母親の幻影から逃れられないどうしようもなさ、自分を不幸にした母への恨みを、母親の恨みを晴らすという形に転化したのだと思う」 「標的の向こう側にもうひとりの敵がいた、というわけか」  ゴデック警視が窓から外を見ながら言った。私はベッドに座ったまま、ひとりで何度も頷《うなず》いていた。  *  退院した夜、私は、久し振りにカルヴァドスを飲みながら、ベニー・グッドマンのLPに針を落とした。  四杯立て続けに飲んだ私は、急に酔いが回って来た。  電話が鳴った。相手は留美子・サンチェスだった。 「やあ、留美子さん」私は努めて平静な声で言った。 「お見舞いに行けなくてごめんなさい……。とても外に出る気になれなくて……」 「分かります」 「弟がお世話になったお礼を申し上げたくて……」  こんな電話のやりとりを以前にも留美子と交わした記憶がある。そうだ! 雄司と知り合った翌日も、留美子は弟の礼を言いに電話を掛けて来たのだった。  私は短く笑った。 「どうかなさいましたの?」 「いや、何でもありません」 「ああ、そうでしたわ……マリアから調査料金を支払うように、白紙小切手を預かってますの。金額をおっしゃって頂ければ、すぐにお送りいたします」 「精算ができたら、マリアに請求書を送りますよ。マリアはどうしてるんですか?」 「それが……マリアはマドリードに行ってしまって、いつ戻って来るか分かりませんの。彼女も、今度のことが相当|堪《こた》えたようです。そのうちに戻って来るでしょうが……」 「その口振りだと住所も分かってないのですね」 「ええ」 「じゃ、あなたに送ります。その預かっている小切手に金額を書き込んで下さい」 「分かりました」 「あなたは、またプエルト・サンチェスに戻るのですか?」 「一旦《いつたん》は戻りますが、そう長くはいるつもりありません。日本に引き揚げようかと考えています。ところで……その……」 「何です?」 「雄司の葬式のことなんですが……三日後に、東京で行うことにしました。図々しいお願いなのは分かっていますが、鈴切さんにも出席していただきたいのです」 「…………」 「やはり、無理ですわね。馬鹿なこと申し上げてすみません。日本までとなると、遠すぎますものね」 「ええ。遠すぎます」  ベニーのクラリネットが�メモリーズ・オブ・ユー�を熱く演奏していた。  電話を切った途端に、雄司の最後の言葉が脳裏を過《よぎ》った。 �机の中……に……俺《おれ》……�  私は事務所に行き、引き出しを開けてみた。  二番目の引き出しから、五百フラン札が六枚とメモが出て来た。  メモには�服代�とだけ稚拙《ちせつ》な字で書かれてあった。雄司に初めて会った時にダメにされたジャケット代のつもりらしい。きっと、私が新聞を買いに行った時に入れておいたに違いない。  この金で喪服を買って葬式に出てくれ、ってことなのか?  私は手提げ金庫にその金を入れ、蓋《ふた》をゆっくりと閉めた。乾いた音がした。 �雄司の三千フラン�は単なる三千フランとなった。  いくら金を費やしても、刈谷雄司の葬式に着て行ける喪服を見つけ出すことは、私には出来そうもないことだ。 角川文庫『標的の向こう側』平成8年10月25日初版発行              平成13年8月25日再版発行